虚構の「昭和天皇平和主義者論」 ―― 田島道治・初代宮内庁長官『拝謁記』を読み解く ――

                                                                                                                    岩 本 勲

 

 NHKテレビは2019年8月、田島道治(みちじ)・初代宮内庁長官(在職1949~53年)の『拝謁(ハイエツ)記』の要点を放送し、同時に『拝謁記』の一部を諸メディアに公開した。新聞紙上では「拝謁記 驚きを隠せず」(「毎日新聞」2019.8.20)、「戦争 反省と後悔の念-天皇 退位に言及も」(「読売新聞」2019.8.20)などの見出しが踊った。だが、報道された内容自体は、一部の事柄を除いて、驚くべき内容でも何でもなく、改めて「昭和天皇平和主義者論」を印象付けるものに他ならなかった。つづいてBS-TBS(番組「昭和天皇・マッカーサー会見」)は9月、手垢のついたマッカーサーの創作「神話」(後述)を再現し、あたかも遅れをとるまいとばかりに「昭和天皇平和主義者論」に追随した。
 これらに典型的に見られるごとく、今日のマスコミ・論壇では、一部例外的論者を除いて、歴史修正主義者は勿論のこと、いわゆるリベラル派と称する多くの論者たちでさえ、天皇の錯綜した発言を一面的にとらえ、「昭和天皇平和主義者論」を臆面もなく喧伝している。だが、それは果たして歴史的現実を正確に表現したものであろうか。本稿は『拝謁記』の検討を手掛かりに、改めてそれを検証しようとするものである。
 なお、『拝謁記』の全貌は未公開であり、公表された部分もいくぶん断片的なので、さしあたっては公開された部分の重要問題に限って、先学の驥尾(キビ)に付して、『拝謁記』の意味するところを解き明かすこととする。なお、今後恐らくは、『拝謁記』本文を直接に調査した数人の研究者によって、マスコミ報道以上に詳しく正確な紹介や論評があるだろうから、本稿はその意味では暫定的なものにすぎない。
一方、宮内庁は『拝謁記』の内容について検証する方法がないとして、論評を避けている。これは、「宮内庁は不都合な事実は論評しない」という常套手段に過ぎない。本稿では一応のところ、『拝謁記』が天皇の言葉をほぼ正確に伝えていることを前提とする。

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 【1】戦争責任論・退位論
〔1〕錯綜する天皇の引責・退位論と皇位継続論
(1)引責・退位論
 天皇は『拝謁記』においては、あたかも「戦争責任をとって退位をも辞せず」と読みとれることを、内輪の会話として田島宮内庁長官に語っている。マスコミは特にここに注目し、「昭和天皇平和主義者論」の重要論拠の一つとしている。だが、歴史の示す通り、天皇は唯の一度も反省を国民には公にせず、退位もせずに皇位を継続し生涯を全うしたのである。
 「講和ガ締結サレタ時ニ 又退位等ノ論ガ出テ イロイロ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考エラルヽ」(1949.12.19、出典の示さない引用はすべて『拝謁録』)。
 「例の声明(講和条約発効の際の天皇メッセージ)には反省するといふ文句ハ入れた方がよいと思ふ」(1952.1.11)。
 「(戦争への悔恨を示す一節の削除を吉田茂首相から求められたことについて)総理が困るといへば不満だけれどもしかたがない」(1952.4.21)。
 反省の文句を入れなかったのは、国民に反省の文句を伝えるより、吉田首相の立場を優先させたからに他ならなかった。

(2)皇位継続論
 ところが、天皇は敗戦直後では、天皇退位論が急速に浮上し始めていたにもかかわらず、退位しない旨をはっきりと述べている。
 まず、側近中の側近である木戸幸一(東京裁判では終身刑判決)は、彼がA級戦犯容疑で巣鴨に収容される直前、天皇との最後の晩餐会(1945年12月10日)において、天皇に退位を勧めていた。「陛下にお別れ申し上げたる際にも言上し置きたるが、今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊(アソバサレ)、御退位被遊が至当なりと思ふ」(『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』、下線と読み仮名は引用者、p.559、『実録』第九の該当箇所には木戸の言葉はない)と。近衛文麿(東京裁判で収監直前自殺)は「御上は大元帥として、戦争に責任がある。敗戦の責任を負って御退位になるべきで・・天皇が在位のまま戦犯指定を受けては、国体護持とはいえぬ」(藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫版、p.180)と退位を勧めていた。
 在野では、南原繁東大総長は講演で事実上、天皇の戦争責任を論じたのをはじめ(1946年4月)、後の最高裁長官の横田喜三郎ら退位論を説く知識人は少なくなかった。皇室関係でも1946年になると、東久邇宮が外国人記者に対して「天皇には御退位の意のある事、皇族挙ってこれに賛成するという事」(木下道雄・侍従次長『側近日誌』、p.231)と語っていた。
 これらの動きに対して、天皇は特に東久邇宮発言に不快感を隠さず、憤りを込めて「東久邇宮の今回の軽挙を特に残念に思召さる」(1946.3.6、同、p.233)。この天皇の思いには、当時の皇族間の確執も見え隠れしている。
 「秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者で且つ当時軍の中枢部にいた以上摂政には不向き、三笠宮若くして経験に乏しい」(同)と仰せ。
 天皇は同日、そのような情勢において、「天皇は自らの退位につき、新聞報道に関連して、現状ではその意思のない」と木下に即刻告げていたのである(宮内庁編『昭和天皇実録』第十、p.64、以下、『実録』と略記)。

(3)皇位継続による責任の全う
 その後、サンフランシスコ講和条約締結(1951.9.8)の直前でも、皇位継続によってこそ責任を全うする方法だ、と内輪では漏らしている。
 「(終戦の詔勅について)私の道徳的責任を言ったつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなくまた責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふことで安易であるが道徳上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して、多少とも償ふという意味であるがデリケートである」(1951.8.22)
 天皇の言葉の大きな特徴は、法律上の責任は皆無だが、道徳上の責任は皇位継続で果たす、ということだ。天皇がいかなる場合においても一切の法律上の責任を負わない、という天皇「無答責」の主張は、天皇制絶対主義的権力を定めた大日本帝国憲法に基づくものである(第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)。しかし、大日本帝国憲法の法理は、国際法の分野ではもはや通用しないものであった。国際軍事裁判所憲章(ニュルンベルグ裁判)や極東国際軍事裁判所憲章(東京裁判)では、平和に対する罪が明記されており、日本占領政策の最高決定機関である極東委員会や東京裁判の検事・裁判官の中にも、天皇訴追の強い意見が一部にあり、天皇が東京裁判で訴追される可能性も皆無ではなかった。ところが、マッカーサーGHQ総司令官の方針とそれを忖度した検察・裁判官の多数派が天皇を訴追しないこととした。
 もとより、天皇の責任は法律的責任だけではなく、さらにそれより重要な元首としての政治的・道徳的責任が問題となるが、しかし、天皇は政治責任については不問とし、道徳的責任は皇位続行によって果たされるとしたのである。

〔2〕公式には皇位継続をはやくから表明
 天皇は公式的には皇位継続を東京裁判の判決が下されたその日の1948年11月12日、田島道治・宮内府長官(在職1948~49年)を通じてマッカーサーに、皇位を継続する旨の公式メッセージを送っていた。
 「私に寄せられたご懇篤かつ厚情あふれるメッセージに厚く感謝します。わが国民の福祉と安寧を図り、世界平和のために尽くすことは私の終生の願いとするところであります。・・・万難を排し、日本の国家再建を速やかならしめるために、国民と力を合わせ、最善を尽くす所存であります」(山極昇・中村正則編集『資料・日本占領Ⅰ・天皇制、p.594)。
 この天皇メッセージがマッカーサーに寄せられた事情については、マッカーサーの側近であるGHQ外交局長W.J.シーボルトが次のように伝えている。マッカーサー元帥が語ったところによれば「天皇は、主要戦争犯罪人に対する判決の発表直後に元帥を訪ねるつもりであり、そのさい、もしも退位問題が出されたならば、そのようなことを考えることは、恐らくばかげた不条理なことであるだけではなく、恐らくは日本国民に重大な損害をもたらす結果になる旨を天皇に伝えるそうです。・・・(元帥は)天皇の退位が日本における共産主義を直接に利し、混乱に手を貸すことになるという点で私と同意見でした」(1948.10.29、ペニー宛書簡、上記『資料・日本占領Ⅰ』、p.594)
天皇はマッカーサーの離任に際しての最後の天皇・マッカーサー会見でも、次のような心からの感謝を述べている。
 「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付き、此機会に謝意を表したいと思います」と(1951.4.15、上掲、p.119)。
 天皇は、マッカーサーの尽力による天皇免責に余程満足したのであろう。
 だが、一方では、天皇の忠臣であるはずのA級戦犯のうち7名が絞首刑、無期禁固16名、有期刑2名、これに加えて、そのほとんどが上官の命令=天皇の命令とする「軍人勅諭」に縛られて、やむなく戦争犯罪を行ったBC級戦犯裁判で被告5700名(ソ連を除く)、うち死刑984名、無期475名、有期2944名、無罪1018名、その他となっていたのである(住谷雄幸他編集『東京裁判ハンドブック』、p.219)。
 
〔3〕戦争責任は言葉のアヤ
 天皇の口から直接公表され、国民が知る唯一の戦争責任論ならぬ「戦争責任論」は、史上初めての公式記者会見における発言であった。
 「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」(1975.10.
31、黒田勝弘・畑好秀『昭和天皇語録』、p.332)。
 これについての痛烈な思いは、茨木のり子の詩の一節がよく示している(茨木のりこ『言の葉』ちくま文庫版、p.106~07)。

「四海波静」
 思わず笑いがこみあげて
  どす黒い笑い吐血のように
 噴き上げては 止まり また噴きあげる
  三歳の童子だって笑い出すだろう 
 文学研究果さねば
  あばばばばとも言えないとしたら

 一方、昭和の軍国主義には批判的とみられている歴史家の保坂正康は、次のように言って天皇を弁護している。「自らの戦争責任に無自覚だったなどと批判されがちだが、象徴天皇として、あの戦争についてどう語るべきか定まっていなかったからこその言葉として理解すべきであろう」(「毎日新聞」2019.8.28)。
 敗戦から30年も経た時期にでも、天皇は未だ、アジア太平洋戦争に関していかに語るべきか、という定見を持っていなかったのだろうか。これでは、天皇は歴史に対して無定見だということとなり、贔屓(ヒイキ)の贔屓倒しになるのではあるまいか。
 では、逆に問いたい。仮に、戦争責任についての天皇発言は敗戦後30年経ても定まらなかったとしても、天皇はつづけて広島原爆投下をやむを得ぬことと容認した。これは、象徴天皇が述べても差し支えないとする、既に定まった歴史的評価なのだろうか。

 〔4〕広島原爆投下はやむを得ないこと
 広島原爆投下について問われて、
 「こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」(同上、『昭和天皇語録』p.332)。
 これは、原爆投下は天皇にとってはまるで全く他人事のようにも聞こえる。だが、原爆投下は「やむを得ないこと」ではなかった。原爆投下に至る政治過程を瞥見してみよう。天皇は沖縄守備隊全滅の前日の1945年6月22日、これまでの慣例に反し「思いがけなくも」(外務省編『終戦史録3』、p.119)、天皇が最高戦争指導者会議(首相、外相、陸・海大臣、参謀総長・軍令部総長)の構成員全員を召集し、戦争終結方法の検討を命じた。そこでソ連による対米講和仲介案が浮上した(『実録』第九、p.707~08)。この案にしたがって、政府はソ連に仲介を依頼したが、既に「ヤルタ会談」(1945年2月)において米英に対日参戦を約していたソ連がこれに応ずるはずもなかった。ソ連はこれより先の4月、翌1946年4月に期限の切れる日ソ中立条約の延長拒否を通告していたのだ。政府は、その国際情勢分析の余りの甘さについて、厳しい誹(ソシ)りを免れ得まい。
 その後7月26日、連合国より「ポツダム宣言」が発表され。翌日の27日に全文を入手した政府は連合国には正式回答はせず、「目下対ソ交渉中につき、ポツダム宣言に対しては何ら意思表示をせず事態の推移を注視」を閣議決定した。国民にはなるべく小さく扱うようにとの方針のもとに「ポツダム宣言」要旨が28日に新聞報道され、そこで記者の質問に対して「政府はとしては(ポツダム宣言は)何ら重大な価値あるものとは考えずただ黙殺するのみ」と答えた(『実録』第九p.737、下線と赤字は引用者)。
 政府は「ソ連仲介」というあまりにも虫の良すぎるはかない夢に託して「ポツダム宣言」を黙殺したのだ。仮定の事だが、「ポツダム宣言」を即刻受諾しておれば、少なくとも、広島・長崎への原爆投下だけは免れたのである。だが、「ポツダム宣言」受諾か否かを決定すべき最高戦争指導会議は、8月6日に広島に原爆が落とされても開催されなかった。
 会議が開催されたのは8月9日、この日の午前4時、眠りからたたき起こされた迫水久常・書記官長(現在の内閣官房長官に相当)は「日ソ中立条約」を破棄したソ連の満州侵攻の報に動転し、「そんな馬鹿なことがあるかと思い何度も本当かと反問した」(「天皇と最後の御前会議」『正論』平成15年9月号)。「まさか、ソ連から最期通牒を突き付けられようとは考えも及ばなかったと思います。全く寝耳に水でした」(近衛文麿『終戦への―決断証言記録・太平洋戦争』サンケイ新聞出版局)。周章狼狽した政府は急遽、最高戦争指導会議を開催すこととした。会議開始は同日午前10時30分、しかも会議中の11時2分、長崎に原爆が落とされても誰もそれにほとんど関心を寄せなかった。会議はもっぱらポツダム宣言受諾条件のみに議論が集中・紛糾し、最後に「国体護持」の1条件でポツダム宣言受諾を決定したのは翌10日未明のことであった。なお、9日午後2時49分の西部軍管区司令部の発表は「(特殊爆弾の)被害は比較的僅少の見込み」(『実録』第九、p.751)であった。

〔5〕一億総懺悔―軍部・政府・国民に戦争責任の転嫁
 「私の届かぬ事であるが、・・・軍も政府も国民も下克上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すれば悪い事があるからそれらを皆反省して繰り返したくないものである」(1952.2.20)。
 ここには、天皇自身の国民に対する反省の言葉はひとかけらもない。逆に軍の専横とそれを見逃した国民が悪いのだ。天皇は陸海軍に対する最高の統帥権を持つ大元帥であったはずではなかったのか。

(1)東条を首相に任命―皇室の開戦責任の回避
 近衛首相は、東条陸軍大臣の対米開戦論のため、対米交渉に行き詰まり内閣を投げ出した。後継内閣については、宇垣案や東久邇宮内閣案(陸軍案)が出たが、「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると開戦責任を採る事となるのでよくないと思って・・・陸軍の要求は之を退けて東条に組閣させた」(『昭和天皇独白録』、p.82、以下『独白録』と略記)。天皇は結局、東条が対米開戦派と知りながら、皇室の開戦責任を回避するため、および陸軍の抑え役として東条を首相に任命した事となる。
 「東条が唯一の陸軍を抑え得る人間と思って内閣を作らしたのだが、勿論見込み違いを言えばその通りだが」(1951.9.10)。
 「平和を念じながら止められなかった」「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になっていた」(1951.12.14)。
 なぜ、そのようになったのか、これに対する天皇の釈明は次の通り。
 「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或いはもつと早く止める事が出来なかつたといふやうな疑を退位論者でなくても疑問を持つと思ふし、又首相をかへること事ハ大権で出来る事故(コトユエ)、なぜしなかったかと疑フ向きもあると思ふ」「いやそうだろうが事の実際としてハ下克上でとてもできるものではなかった」(1951.12.17)。
 「東条は政治上の大きな見通し誤ったといふ点はあったかもしれぬ」「あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起こしたことになったかもしれず・・・」(1952.5.28)。
 天皇は敗戦後、『独白録』)においても、内乱・反乱への恐怖のあったことを表明している。
 「若しあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」(『独白録』、p.85)。
 天皇は敗戦後も、内乱・反乱への恐怖が強かったらしい。2.26事件の記憶、「開戦を認めなければ大きな『クーデタ』が起こり、却って滅茶苦茶な戦争論が支配的となる」(『独白録』、p.89~90)との恐れ、「ポツダム宣言」受諾のNHK放送の直前に生じた近衛部隊クー・デタ(1945.8.14~15)の恐怖、等々の生々しい記憶。さらに言葉には出さないが、天皇の異常なまでの共産主義とその革命に対する憎悪からはロシア・ロマノフ王朝の最後への恐怖もまた推測できる。
 だが、これらは開戦理由とはならない。仮に、元首にして大元帥たる天皇が開戦が正しくないと判断すれば、身を挺してこれを阻止しなければならないからだ。ウェブ東京裁判・裁判長は、天皇の戦争責任について次のように批判している。「この危険(天皇自身の命の危険)は、自己の義務を危険があっても遂行しなければならない統治者がすべて」負うものであり、「いかなる統治者でも…そうしなければ命が危うかったというのであるからといって、それ〈侵略戦争〉を犯したことについて、赦(ユル)されるものと正当に主張することはできない」(D・コーエン/戸田由麻『東京裁判「神話」の解体』p.276)。
 また、天皇は滅茶滅茶な戦争論を恐れたとあるが、日米開戦以上に滅茶滅茶な戦争論が他にあったのであろうか。中国をはじめ東南アジア諸国民を数千万人と殺し、日本兵死者200万人、国民死者300万人、特に「鉄の嵐」見舞われた沖縄、原爆投下の広島・長崎の住民の被害は筆舌に尽くしがたいものであった。
 さらに、天皇は『独白録』を次のような結論で締めくくっている。もし天皇が開戦を拒否したならば、
 「国内は大内乱となり・・・私の命も保証出来ない、それは良いとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する非惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであらうと思ふ」(『独白録』、p.161)。
 この論理に従えば、日本の破局を救った救世主こそ天皇に他ならないのであるから、敗戦後、天皇自身が退位すべきか反省の言葉を公表すべきか、などと煩悶(ハンモン)することは全く不必要であった。むしろ反対に、退位を進言した木戸、近衛、南原、横田、皇族たちは「親の心子知らず」であり、日本国民は挙って、天皇陛下がよくぞ開戦を拒否されなかったと心から感謝せねばならない、ということとなろう。

(2)真珠湾奇襲攻撃は東条の責任
 敗戦直後、アメリカでは天皇断罪の世論が圧倒的であった。ニューヨーク・タイムズのクルックホーン記者が、アメリカ人の最も関心の深かった真珠湾奇襲攻撃の責任について天皇に質問した。これに対する回答が「東条英機が使用した如く宣戦の詔書が使用されるとは予期せざりし」(『実録』第九、p.827)と。明らかに「昭和天皇は真珠湾攻撃の責任を東条元首相に転嫁した」のだ(松尾孝兊(まつおたかよし)『論座』2007年2月号、p.128~143)。
 クルックホーンへの回答はまた、次項〔6〕に示す事実とも異なるものであった。つまり、天皇は1945年9月1日には日本の航空艦隊がハワイ西方1800カイリにあることの上奏を受け、12月8日の攻撃開始を裁可していたのである。
 一方、東条は東京裁判において、自らは全面的に天皇の命令に従ったと証言した。だが、これでは天皇を訴追しなければならないので、キーナン検事長が東条を説得した結果、東条は全責任は自らにありと証言を覆し、刑場の露と消えたのだ(1948.12.23)。

(3)開戦責任は近衛
 天皇は東条の責任に加えて、自ら首相に任命した近衛にも責任がある、という。
 「太平洋戦争ハ近衛が始めたといってよい」(1952.4.5)。
近衛に対する不信は東条に対するよりももっと厳しい。
 「私と近衛とが意見が一致しているやうに世の中はみているようだが、これは事実相違だ」(1952.5.28)。
 また、別の個所では、
 「近衛は命が惜しかったから陸軍に押されることになった」との仰せ(1975.2.25、『入江相政日記』第九巻、p.218)。
 東条との比較での近衛に対する酷評。
 「東条ほど朕の意見を直ちに実行したものはない。・・・(東条は)この近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手ですぐ議論をやるから人から嫌われるのであろう」(1946.2.12、上掲『側近日誌』、p.206)。
 天皇はもともと、東条がお気に入りであった。
元来東条という人物は話せばよく判る・・・東条は仕事もよくやるし、平素云っていることも思慮周密で中々良い処があった」(『独白録』、p.103~4)。
 「命が惜しかった」らしい近衛は前述の如く敗戦後、巣鴨収監の直前に服毒自殺(1945.12.16)。天皇の股肱の臣であった東条や近衛らは草葉の陰で、天皇の自分たちへの評価をどのように聞いていたであろうか。いずれにせよ、筆者は東条を一切弁護するものではないが、それにしても天皇の東条に対する毀誉褒貶(キヨホウヘン)、余りにも酷に失するとの感を禁じ得ない。

(4)戦争防止の困難の一因 ―― 国民の付和雷同性
 天皇の国民に対する評価は常に厳しい。
 「先ず我が国の国民性について思うことは不和雷同性の多いことで、・・・近頃のストライキの話を聞いてもそうであるが、共産党の者が、その反対者を目して反動主義者とか非民主主義者と叫ぶと、すぐにこれに付和雷同する。・・・国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難の一つの原因であった。将来この欠陥を矯正するには、どうしても国民の教養を高め又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」(上記、木下、p.300)。
 だが、大元帥たる天皇は常に軍隊を鼓舞し、「勝った勝った」の「大本営発表」が連日連夜にわたってのたれ流され、戦争熱を煽りに煽ったのが政府・NHK・新聞・雑誌・学校・右翼団体ではなかったのか。

〔6〕対米開戦の天皇決意
(1)建前としての立憲君主論
 天皇は、対米戦争を裁可した理由として、先に示したように、開戦を裁可しないときの内乱・クーデタの恐れがありということ、それと同時に建前として立憲君主論を掲げている。
 「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主として已(ヤ)むを得ぬ事であった。若し己が好むときには裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何ら異なるところはない。」(『独白録』、p.159)。
 この言葉は、次のような事情に起因する。1928年の張作霖爆殺事件に際して、時の田中義一・内閣総理大臣が首謀者の河本大作を処分する旨、天皇に報告したにも拘わらず事件をうやむやのうちに葬りたいとしたが、このことに対して天皇は怒って田中に辞表の提出を語気強く命じた。しかし、天皇はこれは若気の至りであると反省し、今後は「内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることを決心した」(『独白録』、p.28)」と。天皇は、あたかも閣議決定の自動承認機関の役割を任ずることの決心をしたかのようである。
 だが、歴史的事実は、天皇のこの「決意」とは全く正反対のことを示しいている。天皇は、現実においては、軍事作戦から内閣人事に至るまで、絶対主義君主の行動様式そのものを実践していたのだ。2、3の典型的な例を示そう。
 上海事件(1932年)に際して、事件の拡大を防いだのは「私が特に白川(義則、大将)に事件の不拡大を命じて置いたからである」(『独白録』、p.34)。これは天皇の自慢話だ。阿部内閣の組閣に関して(1939年)、「板垣系の有末軍務課長を追払ふ必要があったので、私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍(大臣)に据ゑる事を阿部に命じた」(同、p.53)。天皇は陸軍の課長人事まで介入していたのだ。阿部内閣の次の米内光政内閣(1940年)については「米内はむしろ私の方から推薦した」(同、p.57)。天皇の専制君主としての極め付きは、上記【1】の〔4〕で示したがごとく、天皇が内閣の頭越しに「思いがけもなく」、最高戦争指導会議のメンバーを召集し、対米講和の仲介をソ連に依頼する基本方針を決定したことであった。

(2)天皇は御前会議前日に対米開戦命令
 天皇は、御前会議というものは「全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は,ない」(『独白録』、p.56)と述べている。したがって、天皇は内心では戦争反対だが12月1日の御前会議においては、「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わなかった」(『独白録』、p.90)と。
 これは後掲の『実録』記載の事実と合致しない。それによれば、天皇は開戦を決定する御前会議の前日に東条首相に開戦の方針を命令していた。したがって、天皇は当日、何も言う必要がなかったのである。
 ところで、『独白録』は実は、東京裁判が始まる直前の1946年3~4月、天皇が東京裁判の訴追を回避するために作成されたものである。天皇免責の基本的論理は、立憲君主制としての天皇には実質的な政治的権限はなく、したがって天皇にはいかなる責任もない、というものであった。この『独白録』の編集者は宮内府御用掛に任命された寺崎英成であり、彼は有能な元駐米外交官で、彼の妻は米国人グエン、彼女はマッカーサーの軍事顧問であるフェラーズ准将と姻戚関係にあった。当然『独白録』は、マッカーサーに提出されることを前提としていた。現に、『独白録』英訳がフェラーズの許に残されていた(東野真『昭和天皇・二つの「独白録」』)。
 一方、天皇の開戦決意について、『実録』は公式に次のように記載している。天皇は1941年11月30日、海相・軍令部総長に下問した結果、既に航空艦隊が12月1日、ハワイ西方1800カイリにあり両名は相当の確信を以て奉答したため、木戸内大臣に対して御前会議においては「予定どおり(対米開戦)進めるよう首相へ伝達すべき旨を御下命になる」(『実録』第八、p.561)。木戸は「直ちに右の趣を首相に電話を以て伝達す」(『木戸幸一日記』下巻、p.928)。
 かくして、開戦が12月1日の御前会議において正式決定された。その日の午後、「天皇は開戦の決定を已(ヤ)むを得ないこととし、陸海軍の十分な協調をお命じになる」(『実録』第八、p.565)。翌12月2日、「陸海軍共に武力発動時期を十二月八日と予定する旨の軍令部総長の上奏を受けいれられる・・・二時二十五分、御裁可になる」(同、p.566)。

 

〔7〕アジア諸国民に対する公式の戦争責任表明は皆無
 朝鮮・中国を初めてとする東南アジア諸国人民にたいする過酷な日本の帝国主義支配、植民地支配に対して、天皇は明確かつ公式の反省を終生公表しなかった。天皇は内輪では、文部省が高校教科書で満州侵略を満州進出と書き直させた事件で、中国、韓国をはじめアジア諸国政府が日本政府に抗議したことに関連して、「朝鮮に対して本当に悪い事をした」(『入江相政日記』第十一巻、p.318)と述懐はしていたが、「記者会見など公式の席では慎重な姿勢に終始」(「朝日新聞」2019.8.21)したのである。


【2】マッカーサーの創作「神話」
 歴史修正主義者たちが金科玉条の如く捧げている一つが、マッカーサーの創作「神話」である。それのみならず、天皇が死去した1989年1月7日以降、各メディアはこの「神話」をまるで真実のごとく繰り返し報道した。その「神話」とは、天皇とマッカーサーの第1回会見(1945.9.7)の際に天皇が述べ、マッカーサーがいたく感動したという周知の言葉である。
 「私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここへ来ました」(『マッカーサー回想記』)。藤田尚徳・侍従長の『侍従長の回想』(中公文庫版、p.175)にも、天皇の同様の言葉が記載されている。
 この天皇の言葉の真偽を精査したのが豊下楢彦である。彼は、天皇とマッカーサーおよびリッジウエイとの会談記録を残した外務省政務局第五課長・松井明の文書の全文に目を通した唯一の研究者である。なお、松井文書はその概要が「朝日新聞」に掲載されたが、著作権の関係上、全文は公開されていない。
 豊下は次のような諸事実を明らかにした(『昭和天皇・マッカーサー会見』第1~2章)。(ⅰ)天皇周辺の情報通の矢次一夫が1955年、天皇の言葉を示唆するような内容を述べていた。(ⅱ)重光葵外相が1955年、安保改定交渉のために訪米した際もから例の天皇の言葉とよく似た内容を聞かされた。その概要が「読売新聞」(1955.9.14)に掲載された。 (ⅲ)ところが、児島襄によって最初に公開された奥村文書(『文藝春秋』1975年11月号)、外務省と宮内庁が2002年に公開した奥村文書、これらには上記のような天皇の言葉はない。(ⅳ)会見内容を紹介した「ニューヨーク・タイムズ」(1945.10.2)にもそのような記述がない。(ⅴ)『マッカーサー回想記』には、たばこ嫌いのはずの天皇が煙草を吸った記述、既に天皇が戦犯リストに記載されているとの記述(実際にはこのようなリストはない)、等々、「回想記」の信憑性に関わる疑問点が多くある。(ⅵ)『文藝春秋』(1964年6月号)の編集部の綿密な調査によれば、マッカーサー文書においては数々の「誇張」「思い違い」「全くの逆」があり、『回想記』は「自己弁明と自慢、自惚れの渦の中にある」と。
 豊下は以上のような事実を踏まえて、藤田は矢次発言を参考にして奥村文書に例の「天皇発言」があったとして発表したのではなかろうかと結論し、天皇発言を「神話」とする。
 筆者は浅学にして、豊下のこの結論に、正面から理論的に批判した研究は知らない。なお、蛇足ながら次のような推測も成立するのではあるまいか。藤田は矢次の発言や重光の報告から、天皇の言葉をその通りと信じたのである。矢次や重光の発言は1955年、奥村文書が作成されたのは1945年、藤田が『回想』を記したのが天皇会見から16年後の1961年である。しかも、彼は、上記に示した公開された正式の奥村文書も見ていない(藤田は1970年死去)。したがって、もし善意に解釈するとすれば、彼にあっては直近の記憶が優先して、あたかも奥村文書に天皇の言葉があったかのように混同もしくは錯覚したのではなかろうか。彼は奥村から天皇の言葉を直接に聞いたのではなく、奥村文書を見ただけである。彼の記憶によれば、「(会見の)後日になって外務省でまとめた御会見の模様が私のもとに届けられ、それを陛下のご覧に供した。通常の文書は、御覧になれば、私のもとへお下げになるのだが、この時の文書だけは陛下は自ら御手元に留められたようで、私のもとへは返ってこなかった。宮内省の用箋に五枚ほどあったと思うが陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている」(上掲、藤田、p.174~5)。この文章からは、天皇の言葉は奥村文書を手許に於いての引用でもないことが明らかで、その上、記憶も少しあやふやな感じも否めないのである。

 

【3】天皇が詳細に知っていた「南京大虐殺事件」
――「事件」否定の歴史修正主義者とって極めて耳の痛い話 ――
 天皇は「南京大虐殺事件」(1937年12月)の概要はについて東京裁判以前に知っていたし、東京裁判以後ではその詳細な事実について承知していた。
 「支那事変で南京でひどい事が行ハわれているといふことをひくい其筋でないものからウスウス聞いてはゐたが別に表立って誰もいわず従つて私は此事を注意もしなかったが市ケ谷裁判で公ニなった事を見れば実ニひどい」(1951.2.20、下線は引用者、市ヶ谷裁判=東京裁判)。
 この天皇の言葉は不可思議である。地位の低い其筋でないものが、天皇に直接情報をもたらすことも出来ないし、其筋でないものが極度の秘密情報を知る由もないからだ。天皇は、故意にニュース・ソースを明らかにしたくなかったのだとしか考えられない。

(1)現場以外で事件を熟知していた3名
 南京事件について、現場以外で熟知していたと考えられるのは軍と政府高官のうち、南京攻略の総指揮者で中支那方面軍司令官・松井石根大将、中支那方面軍参謀副長・武藤章、外務大臣・広田弘毅の3人である。彼らは、南京における夥しい虐殺・強姦・略奪等の報告を受けていた(戸谷由麻『東京裁判』p.178)。この他に現場以外で、日本政府及び軍の上層部において南京事件を知っていたという人物の存在について、筆者は知らない。
 松井は東京裁判において、「違反行為防止責任無視による法規違反」を問われた。それに対して、彼は日本軍による残虐行為を知るとすぐ調査を命じたが、しかし、自分は方面軍司令官としての各軍の作戦指揮権を与えられているだけで、各軍の軍紀・風紀を直接監督する責任と権限はなく、一方、軍紀・風紀違反の処罰権限は現場の軍司令官、師団長にある、と抗弁した。これに対して、戒能通孝(東京裁判の鈴木貞一被告の補佐弁護人)は次のように批判した。「総指揮官松井大将は、暴行の事実を知りながらポカンとしていたことなる」(同、戸谷、p.195)」。結局、松井は「犯罪防止の無作為」を唯一の理由として死刑となった。
 武藤は松井より下位の地位にあり、止める権能がなしと判断され無罪となった。ただし、彼はスマトラ島とフィリピンにおける日本軍の広範な戦争犯罪の責任を問われて死刑となった。
 広田は、「南京大虐殺事件」を閣議にもかけず、積極的に中止させようとしなかった不作為の罪で有罪となり、この罪を含めて文官で唯一、死刑となった。

(2)現場の司令官は2名
 松井が軍紀・風紀取り締まりの責任者としての指摘した現場の軍司令官・師団長に該当するのは、上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)・中将と第十軍司令官・柳川平助・中将であった。当時の新聞紙上では、「朝香宮殿下の御重任、南京戦で三軍御統率」「畏(かしこ)し朝香宮殿下 砲煙中に御視察 南京戦線の将士感涙」の見出が大きく飾られていた、という(「東京朝日新聞」掲載、浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』、p.221)。
 上海派遣軍は1938年2月編成解除、鳩彦王は日本に帰国、3月に軍事参議官(*注)に復帰、1939年に大将に昇進。鳩彦王の配偶者は明治天皇の皇女充子(のぶこ)内親王で、朝香宮は天皇とも近しい関係にあった。彼は皇室会議の一員であり、ポツダム宣言受諾否かに関して、戦争続行強硬派の朝香宮は「国体護持がなければ戦争を継続するのか」と天皇に質問し、天皇は勿論だと答えている(『独白録』p.151)、両名はそのような間柄であった。
 柳川は1945年1月に死去していた。朝香宮については中華民国政府外交部が松井及び朝香宮に関する資料を作成し、朝香宮は東京裁判の国際検事局の尋問を受けているが、訴追されなかった。なお、皇族の戦犯容疑について付言すれば、皇族として唯一のA級戦犯容疑で巣鴨に収監されていた梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう)元帥・軍事参事官も訴追されなかった。これらの事例は、マッカーサーが既に天皇を戦犯容疑で訴追しない方針を決定していた結果である。
(*軍事参議官:職務は天皇に対して重要軍務の諮詢に応ずること。軍事参議官は陸・海大臣、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長、特に任命された将官)。


【4】沖縄、3回目の琉球処分
〔1〕沖縄長期占領の要請
 「(沖縄不返還のマッカーサーの方針について)そうすると徳川時代以下となることだ。これは困ったことでたとへ実質は違っても、主権のあることだけ認めてくれると大変いヽが同一人種民族が二国ニなるといふ事はどうかと思ふ」(1951.1.24)。
 天皇は、一見すれば、あたかも米軍占領を嘆いているかのようだが、米軍による長期沖縄占領を要請したのも、ほかならぬ天皇自身であった。これは紛れもなく第3回目の琉球処分であった。第1回目は琉球王国の日本への強制併合(1872~79年)、第2回目は天皇が承認した「沖縄作戦」である。
 天皇は敗戦後、マッカーサーに対して沖縄長期占領を積極的に要請していた。宮内府御用掛・寺崎英成は1947年9月19日、天皇に拝謁し、その日の午後、彼はGHQ外交局長W.J.シーボルトを訪問し、天皇の意向を伝達。シーボルトはこの内容をマッカーサーおよび米国国務長官に次の通り報告していた。
 「天皇は沖縄(そのほか必要とされる島嶼)に対する軍事占領は、主権を日本に置いたままでの長期―25年ないし50年またはそれ以上―の長期租借方式という擬制に基づいて行われるべきと考えている。・・・ソ連と中国が同様の権利を要求することを封ずるであろう」(上掲『資料・日本占領1』、p.579、『実録』第十、p.455~6)。
 入江相政・侍従長(在職1959~85年)は天皇に拝謁、「シーボルトが寺崎を通じて蒋介石が日本占領を降りたにつき、一寸うかがった。それでイギリスはその力なし、アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上から一番よかろうと仰有つたと思う旨の仰せ。すぐに長官に報告。とってかえして、すべて長官に話した旨申上」(1979.5.7、『入江相政日記』第十巻、p.293)と証言し、天皇の沖縄メッセージを傍証している。

〔2〕「沖縄捨て石作戦」
 沖縄戦そのものについても、天皇が軍部の要望を承認していた。天皇は1945年2月、即時講和論の近衛は悲観論であり、彼に対しては「陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦をやめるのは適当でないと答へた」(『独白録』、p.120)。軍部は米軍を沖縄におびき寄せ、ここで一大決戦を行い、沖縄の犠牲を代償としてアメリカ軍に出血を強いて、本土決戦を有利ならしめようとした「沖縄捨て石作戦」の方針であった。

 

【5】「平和主義者天皇」の本音
―― 第9条改憲と再軍備への強い思い、反基地闘争非難 ――
 「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽように思ふ」(1952.2.11旧紀元節)。
 「私は再軍備によって旧軍閥式の再抬頭はいやだが、去りとて侵略の脅威がある以上、防衛的の新軍備なしという訳にはいかぬ思ふ」(1952.5.8)。
 「日本の軍備がなければ米国が進駐して守ってくれるより仕方ハないのだ」(1953.6.17)。「現ニ日本ハ虎視眈々たるソ連が居るのに、国力がとかいつて呑気なのはどうも心配だ」(1953.8.11)。
 再軍備と米軍駐留のためには、「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953.11.24)。
 つまり、反基地闘争は許されない、と。だが、米軍基地の被害者は国民であり、とりわけ沖縄県民である。
 重光外相が渡米3日前(1955.8.20)に、米軍撤退を含む日米安保条約改定について天皇に内奏した際、陛下より「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」(上掲、重光、p.732、『実録』第十二、p.87)との命を受けた。重光は結局、アメリカでは米軍撤退は提起しなかった。
 象徴天皇に対して、国政の最重要問題について、忙しい訪米直前の外相が内奏のために伺候することも、同時に天皇があたかも元首の如く、外相に命令を下すことも、全く憲法違反であり、まるで戦前の絶対主義君主制への逆戻りであった。


【6】天皇とマッカーサーの思想的共通基盤
―― 強烈な反共・反ソ・反労組 ――
 「反米思想が一般ニある程度あるは已むを得ぬも、それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいって色々やるのは困ったものだ」(1951.12.9)。「歴史の証明するところでは、ソ連といふ国は何をするかわからない」(1952.4.9)。
 ソ連に対米講和の仲介を依頼したのは一体誰であったのか。
 「今労働者ハ組合あっての日本といふやうな考へでは困る」(1953.10.14)。
 天皇は大の組合嫌いであった。既に示したようにストライキを単に国民の付和雷同性の現象とのみ捉え、第3回マッカーサー会見では、ストライキを「復興に立ち上がりつつある日本の『希望に水をかけるもの』」(上掲、豊下、p.96)と厳しく非難している。
 マッカーサーの経歴を見よう。彼は陸軍参謀長時代の1932年、世界恐慌の中にあって、米退役軍人たちの年金前払い要求のワシントンD.C.での座り込み事件(ボーナスアーミー)に際して、これを共産主義運動として軍隊で徹底的に武力弾圧し、死者数名と負傷者多数をだしたのである。
 日本においても、マッカーサーは1947年2月1日の大規模ゼネストを武力的に威圧し中止に追い込んだ。連合軍は伊井弥四郎共闘委員長をHNKに強制連行し、ラジオを通じてゼネスト中止を発表させた。涙ながらにマイクを握り声を振り絞った伊井は、占領目的阻害行為処罰令で懲役2年の刑を宣告された。これを機として、国家・地方公務員のストライキが法律で禁止されて今日まで続くこととなり、日本労働運動に重大な被害を与え続けているのである。
 天皇とマッカーサーの思想的共通基盤こそ、反共・反ソ・反労組の信念である。天皇はいみじくも次のように述べた。「イデオロギーに対しては共通の世界観を持った国の協力によって対抗しなければならない」(第10回マッカーサー会見、上掲、豊下、p.114)と。

                                 (2019.10.8)