日本帝国主義と昭和天皇の戦争責任を改めて問う ―― 東京裁判(極東国際軍事裁判)の再読

                                                                                                                         岩本 勲

はじめに

 安倍内閣は依然として、改憲を執拗に追及している。いうまでもなく、その眼目は第9条の文字通りの「有名無実化」である。改憲論者の主張の中心環の一つは、周知のとおり、歴史修正主義つまり「大東亜戦争」は自衛戦争であり、「八紘一宇」の思想に基づくアジア民族の解放戦争であり、したがって「東京裁判」は戦勝国の不当な裁判であった、という見解である。

 今年、天皇の代替わりを迎える。しかし、天皇の戦争責任の問題は依然として未解決である。昭和天皇は記者会見に際して(1975.10.31)、自らの戦争責任を問われた際、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりません」と煙に巻いた。

これを聞いた茨木のり子は、その怒りをこう詩にぶつけた。「思わず笑いがこみあげて どす黒い笑いは吐血のように 噴き上げてはとまり また噴き上げる」(「四海波静」)と。

 (原爆投下に関して)「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」とまるで原爆投下を肯定するかのごとき答えであった。もし、天皇が「ポツダム宣言」(7月26日発表)を早期に受諾していれば、8月6日、9日の原爆投下はなかったにも拘わらず、である。

 裕仁天皇を継いだ明仁天皇は、戦争責任についてはどのように考えていたのであろうか。明仁天皇は即位に際して、記者団から天皇の戦争責任を問われて次のように述べた(1989.8.4)。「昭和天皇は、平和というものを大切に考えていらっしゃり、・・・先の大戦では、内外多数のひとびとがなくなり、また、苦しみを受けたと思うと、まことに心が痛みます」。あたかも昭和天皇が、満州事変以来の中国侵略を指導し、太平洋戦争の「宣戦布告」を行わなかったかのような答えである。

 明仁天皇は各国の戦場地の慰霊の旅を行ったが、例えばフィリピンでは、犠牲者のことを「常に心に置く」との言葉を述べたに過ぎない。しかし、これらの言葉は、決して戦争責任を認めて謝罪する言葉ではなかった。このように、天皇の戦争責任が未解決であることの根本的な原因は、東京裁判で裕仁天皇を免訴にしたことに遡ることができる。

 これらの意味で、現在もなお東京裁判とは何であったのか、という問題を常に問い直さなければならないのである。

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極東国際軍事裁判

  もとより、戦争裁判は戦勝国が敗戦国を裁くものである。そこには、国家間の力関係を通して階級的性格が刻印されている。歴史修正主義者たちは、東京裁判の不当性の最大の根拠の1つとして、「戦勝国が敗戦国を裁く裁判である」ことを挙げ、従って「その判決には正当性も正義も存在しえない」と主張している。だが、「この戦争が如何なる性格のものであったのか?」、また「この戦争で如何なる犯罪行為がなされたのか?」という問いに対する回答を事実に基づいて判断して初めて、東京裁判の正当性や正義を判断することが可能になる。

 第2次世界大戦は、一面では帝国主義間戦争であった。日独伊三国を中心とするファシズム帝国主義ブロックと英米を中心とする反ファシズム帝国主義ブロックの戦争であり、双方が自国の独占ブルジョアジーの利益を守るために行った戦争であり、反ファシズム帝国主義ブロックもまた人類に対する大きな罪を犯した。米国による広島と長崎に対する原爆投下はその象徴である。他面では、第2次世界大戦は、ファシズム帝国主義という最も反動的で残忍な帝国主義ブロックと反ファシズム諸勢力との戦争でもあった。反ファシズム連合の中に社会主義ソ連が加わり、中国人民の日本帝国主義に対する闘争が加わることによって、戦争の性格に新しい要素が付け加わった。反ファシズムブロックが勝利したことは、「戦勝国が敗戦国を裁く」という形式に新たな階級的内容を付与したのである。そこには、ファシズムの再生を許さず、人類が普遍的に守るべき新たな国際規範が盛り込まれることになった。この国際規範を、その後の欧米帝国主義が如何に乱暴に踏みにじって来たかは、語るまでもないだろう。

 東京裁判の階級的評価については、これ以上踏み込まない。本稿の目的は、東京裁判の過程とその判決が、人類がその時点で到達した普遍的価値基準をどのように反映しているかを検証することであり、歴史修正主義者たちが葬り去ろうとして執拗に攻撃している東京裁判の積極的内容を擁護することである。特に、天皇と天皇制の戦争犯罪について、詳しく検討することにする。

  極東国際軍事裁判(東京裁判、1946.4.29~48.11.12)終了70年の昨年末、D・コーエン/戸谷由麻著『東京裁判「神話」の解体 ―― パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(ちくま新書)が発刊された。それは、改めて歴史修正主義者たちが主張する、東京裁判が「勝者の裁判」、「平和に対する罪という事後法」、「罪刑法定主義違反」、「共謀罪」等、に基づく不当裁判、という周知の誹謗と謬見を糺すものである。さらに同書は、歴史修正主義者たちが賛美してやまない、いわゆる「パル判決」­=「パル意見書」やレ―リンク判事の役割に対して的確な批判を行い、加えてこれまでほとんど注目されなかったウェブ裁判長の当時未発表の「判決書草稿」を読み解き、その意義を明らかにした画期的な労作である。

 同時に、本書を含めて次に示す著者の既刊2著は、これまでの諸研究へのいくつかの問題提起とともに、戦争犯罪を罰する「国際刑事裁判所規定」(1998年採択、2002年発効)が作成された今日、今後の戦争犯罪裁判のあり方に示唆を与えようとするものである。

 既刊2著は、『東京裁判 ―― 第二次大戦後の法と正義の追及』(みすず書房、2008年)、『不確かな正義 ―― BC級戦犯裁判の軌跡』(岩波書店、2015年)である。それらは歴史修正主義者たちが決して認めようとはしない、南京大虐殺事件など膨大な戦争犯罪と天皇を含めた日本軍・政治指導者たちの戦争責任とを、きわめて豊富な法廷証拠に基づいて明らかにしている。差し当たっては、紙幅の都合上、東京裁判に焦点を当て、『東京裁判』と『東京裁判「神話」の解体』に限ってのみ、その概略を紹介することとする。

 

1)『東京裁判』

 本書は、著者の英文出版である、The Tokyo War Crimes Trial: The Pursuit of Justice in the Wake of World War を著者自身で日本語訳を行い、若干の部分を補筆したものである。本書の特徴の一つは、バイリンガルの著者の強みを生かして、大部きわまりない英語第一次文献・資料と英文・日本語の研究諸成果を読み込んで仕上げられたことである。その英文文献・資料としては、東京裁判所憲章、起訴状、公判記録(48288ページ)、5184通の証書(マイクフィルムで48リール)、裁判所判決書、国際検察内部文書(マイクロフィルム770リール)、そのほか判事間の内部文書、弁護団の関係文書など膨大なものがあり、これらに加えて各国に分散した諸資料も存在する。もとより、著者はこの全部に目を通したとは述べてはいないが、恐らくこれまでのいずれの研究書にもまして第一次資料を読み込んだことを自負している。

 著者は、東京裁判は現在もなお、戦争責任論の要であり続けているとの問題意識から出発している。これまで、多くの歴史家は、歴史修正主義者が戦後民主主義の批判の要として「東京裁判史観」批判を展開したことへの反批判として、東京裁判の歴史的意義を主張する見解を展開してきた。しかし、近年の新しい傾向として、主要な戦争犯罪人や戦争犯罪が訴追を免れたこと(731部隊の免責、毒ガス使用の訴追回避、戦時下の日本軍による性犯罪の軽視、アジア人に対する戦争犯罪の軽視、天皇をはじめとする政界・財界の指導者の不起訴)など、東京裁判が果たせなかった諸欠陥が、歴史修正主義者に対する批判者側からも指摘されるようになった。

 この論壇の新傾向に対して、著者は東京裁判の歴史的意義はなお否定できない、とする。東京裁判がある種の政治性を持っていることは争われないが、東京裁判が近年のハーグ法廷など国際刑事裁判において国際人道法の発展に具体的な貢献をしたこと、これまでの研究では性暴力やアジア人戦争犯罪を軽視したと批判されてきたが、必ずしもそうとは言い切れないこと、通説は天皇の訴追免責は「マッカーサーによる免責」とされてきたが、しかし、証拠の示すところでは、連合国は1945年から1952年までは天皇訴追の可能性を保ち続けていたこと、等々を明らかにした。さらに本書の特徴は、これまでは必ずしも十分には明らかにされてこなかった裁判過程を綿密に検討し、法律学的な側面からの検討を加えていることである。

 

①   天皇の訴追保留

 日本政府はポツダム宣言受諾に当たり、天皇の統治大権の維持を唯一の条件とした。アメリカの支配層内にはこの条件に賛否両論があり、またイギリスは君主制維持論であったが、ポツダム宣言を日本に早期に受諾させるために、米英間の妥協として、「天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏の時点から連合国最高司令官に従属するものとし、・・・日本国の最終的政治形態は、ポツダム宣言に基づき、自由に表明される日本国民のお意思によって確定されるものとする」と回答した。

 だが、東京裁判に際しては、天皇の訴追如何は未解決であった。評者はこれまでは通説に従って、マッカーサーの強い主張によって天皇は訴追をまぬかれた、と考えていた。なぜなら、米統合参謀本部極秘通達が「裕仁は戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れていないというのが米国政府の態度である」(1945.11.29)として、マッカーサーの意見を求めたのに対して、マッカーサーは天皇の犯罪について証拠がないこと、天皇なしに共産主義と対抗するためには100万人の軍隊を必要とする、と答えていた(1946.1.25)からである。しかし、今にして思えば、評者にも密かな疑念はあった。日本統治の最高決定機関は極東委員会であり、米統合参謀本部に最終決定権はないはずだから、マッカーサーが天皇訴追を阻止したというのは、いささか辻褄が合わないこととなるからだ。

 著者によれば、極東委員会の正式決定は、「天皇の処遇に関しする特別命令があるまで、天皇を戦争犯罪人とみなすような行動はとらない」というもの、つまり天皇戦犯問題の保留・棚上げ方針であった。オーストラリアの検事は国際検事局会議で天皇を戦犯リストに加えることを主張したが、同会議は賛成も否決もしなかった。結果的には何も決定せずに天皇は免訴になったが、マッカーサーが天皇の免訴を決定したという説は間違いだ、と著者はいうのだ。

 一方、ソ連は極東委員会においてそれまでは天皇訴追を主張しなかったが1949年、731部隊の裁判で戦争犯罪の証拠を見つけ、天皇をA級裁判ではなくBC級裁判で訴追することを1950年頃から主張し始めた。著者はこの事実も、極東委員会が天皇訴追を棚上げにしていた証拠だとみなしている。結局、東西の冷戦が激化する中で、オーストラリアもソ連の提案には賛成せず、この提案は極東委員会で採択されなかった。もとより、著者は、なぜ棚上げになったのかについては、様々な解釈が可能であることを指摘しつつも、結論は保留している。

 

②「平和に対する罪」の定義

 東京裁判で最大の争点となったのは、新設された「平和に対する罪」をめぐる問題である。この問題をめぐって、「平和に対する罪」とは何か、事後法によって戦争犯罪を裁けるのか、つまり罪刑法定主義に反しはしないか、英米法流の「共謀罪」の適用は正当か否か、等であった。

今日では、平和に対する脅威・平和侵害・侵略行為は国際社会で禁止になり(国連憲章)、侵略戦争の定義も国連総会決議3214号(1974年)でなされている。続いて1998年、ハーグ常設の「国際刑事裁判所」設立の基本文書であるローマ規定が完成し、ジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する罪のほか「侵略の罪」も規定された(ただし、侵略者訴追の項については未発効である)。

東京裁判、ニュルンベルク裁判における「平和に対する罪」が戦後の国際諸法の淵源になったことは間違いないが、さらに遡れば、「平和に対する罪」の淵源はハーグ陸戦協定(1907年)と「戦争放棄に関する条約」(ブリアン・ケロッグ協定=パリ不戦条約、1928年)に求められる。

 共謀罪に関しては、著者は国際法学者・奥原敏雄の説を引用し、次の趣旨の説明をしている。犯罪の実行行為がなくても犯罪を共同謀議しただけを罰するのが英米法の共謀罪であるが、東京裁判の場合は、戦争犯罪の実行を共同謀議し、実際に戦争犯罪が行われたので、これは日本の刑法にも採用されている共同共謀正犯と理解できる。ただし、奥原は東京裁判が大川周明の単なる主張である著書を共同謀議の証拠としたことについては批判を行っている。

 著者は、事後法について、ニュルンベルク裁判の法理を踏襲した東京裁判のそれを次のように紹介している。

(ⅰ)国際法違反を知りながら侵略戦争を犯したにも拘わらず、事後法の論理の適用を否定することは正義の原則に違反する。

(ⅱ)不戦条約によって、国際法上、侵略戦争はすでに戦争犯罪であるとみなされている。

(ⅲ)国際法は成文法と慣習法から成立し、実定法が存在しないことを理由に「平和に対する罪」は否定できない。

(ⅳ)侵略戦争の罪は個人責任であり政府高官といえども免責されない。

 周知のとおり、事後法の適用はニュルンベルク、東京両裁判が最初ではなく、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ講和会議は、ヴェルサイユ平和条約第227条に定められた「国際道義と条約にたいする最高の罪違反」よって、元ドイツ皇帝ヴイルヘルム2世の訴追を決定した。この訴追は元皇帝の亡命先であるオランダ政府が身柄引き渡しを拒否したために、実現しなかったが、「平和に対する罪」の原型となり、同時に事後法による訴追の可能性の先例となった。ちなみに、日本政府は同条約を批准していた。

 

③ 戦争犯罪における指導者責任

 日本側弁護人は国家が侵した犯罪については個人責任を問えない、と主張した。これに対して、東京裁判判決は次のように述べている。「国際法によって禁止されている犯罪は、人間によって犯されるのであって、なんらの空想的な実態ではない。そうした犯罪を犯す個人を処罰することによってのみ国際法は施行できるのである」。

 ニュルンベルク裁判所憲章には、「被告人の公的地位は、国家元首であると政府関係機関の責任ある公務員とにかかわりなく責任を解除し、又は刑罰を軽減されるものとして考慮されない」(第7条)と明記されていた。極東国際軍事裁判所憲章には同様の条項は存在しないが、しかし、東京裁判判決はニュルンベルク裁判所憲章を踏襲したものといえる。

 著者は、このことは、国家元首や政府高官が過去何世紀にもわたって享受してきた免責論に終止符をうった裁定であり、後の国際人道法の基本原則にもなった、と積極的に評価している。

 戦争犯罪において、現場指揮官以外にさらに上級の指導者責任をいかに問うことができるか、という問題がある。国際検察局は戦争法規違反を「命令し、権限を授権し、許した」ことに求めた。これについて、著者は「命令」については「直接責任」と名付け、「権限を授権し、許した」については、戦争犯罪を知りながらこれを防止しなかった「職務怠慢」と理解した。国際検察局は、とくに後者によって上級者の個人責任を追及した。したがって、戦時下の病人や負傷者を人道的に扱う責任を中央政府に課している。この法理はハーグ条約、ジュネーブ(捕虜の保護に関する条約、1929年)両条約に基づくものである。この結果、職務怠慢の罪は「閣僚責任」となり、直接の指揮官も「直接責任」を課せられた。しかし、職務怠慢を理由とする閣僚責任の追及は、日本政府・軍が7割の軍関係書類を焼却・破棄したため、その追及は困難を極めた。

 

④ 南京大虐殺事件と泰緬「死」の鉄道

<南京大虐殺事件> 

 南京大虐殺事件は1937年、南京陥落時に生じた、日本軍による大量の虐殺、強姦、略奪、放火、その他非人道的事件であった。裁判に当たっては、事件は多数の証人や現地調査によって確認され、反証の機会を与えられた弁護側もこれを行わず事件の存在を認めた。南京攻略を指揮した司令官・松井石根、中支那方面軍参謀副長・武藤章、外務大臣・広田弘毅はこの事件に関して次々と報告を受けていたことも立証された。日本人弁護団の菅原裕や滝川政次郎も裁判後、南京大虐殺事件の存在を認めており、特に滝川は事件当時、北京に在住しており事件の噂を聞いて南京までそれを確かめに行ったのである。

 かのパル判事さえ、事件の存在そのものは認めざるを得なかった。「南京における日本兵の行動は狂暴であり、・・・残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって深刻であったことは疑いない。・・・弁護側は、南京において残虐行為が行われたことの事実を否定しなかった」(『パル判決書』)。ただし、彼は、既に直接の責任者は罰せられているので、松井や武藤は無罪とだとした。

歴史修正主義者たちは未だに、「南京大虐殺」はなかったと主張しているが、それは単なるデマ以上のものでないことが、東京裁判ですでに争う余地がなく証明されていたのである。なお、「南京大虐殺事件」についての東京裁判の詳しい記録は、1970年代には既に刊行本としても発行されていた(例えば、洞富雄編『日中戦争資料8』河出新書房、1973年)。

 判決は、上記2名の責任者は絞首刑であった(武藤は無罪であったが山下奉文の参謀長時代の戦争犯罪で死刑)。東京裁判において文民で唯一の死刑となったのは広田弘毅である。彼は南京事件の他、中国侵略の共同謀議(広田内閣「国策の基準」=中国侵略計画の決定、1936年)などの責任を課せられたのである。

<泰緬「死」の鉄道>

 泰緬鉄道は、1942年半ばから始まり翌年10月に完成させられた、タイとビルマの間の400㎞の鉄道である。これに動員された連合軍の捕虜61800人、うち12300人が死亡、このほか東南アジア諸地域から動員された一般市民は約20万人、うち死亡者は4200~74000が虐待・飢え・病気で死亡した。

この事件で直接に罪を問われたのは、捕虜使用を命令した東条英機陸相であり、重光葵外相は、この捕虜虐待について連合国からしばしば抗議を受けながらこれを止め得なかったという責務不徹底で禁固20年の刑となった。

 

⑤ 日本軍残虐行為の記録

 法廷では様々な残虐行為が明らかにされた。中国代表(蒋介石政府)は南京事件の立証に精力を傾けたが、国内が共産党との内戦状態にあり、その他の事件の立証はこの段階では不十分であった。とくに日本軍による「三光作戦」(焼き尽くし、殺し尽くし、略奪し尽くす)による長期かつ組織的な大殺戮事件は、事件の多くが共産党支配地区で生じたため、中国代表はこれを立証することに努めなかった。

 フィリピンでは1945年、「レイプ・オブ・マニラ」事件が生じ、無差別大量虐殺、強姦、拷問、放火、破壊、その他残虐行為が大々的に行なわれた。この事件の責任者として、山下奉文が、東京裁判の前におこなわれたマニラのアメリカの戦犯裁判にかけられて死刑となった。東京裁判では、フィリピン代表は改めてこの事件を立証し、山下直属の部下で参謀長だった武藤章の責任を追及した。

 最もショッキングな事件は、日本軍の文書によって人肉食が立証されたことである。1944年、フィリピンで配布された日本軍の文書は人肉を喰ってもよい場合と悪い場合が明記されていた。また、1944年12月10日第18軍司令部から各部隊に出された命令書は、連合軍兵士の人肉を喰ってもよいが友軍の屍肉を喰うことを禁止したものであった。実際に屍肉を喰った証人も法廷で証言した。

 シンガポールでは1942年、日本軍は約5000名の華僑を反日分子の名目で虐殺した。これはマニラの戦犯法廷で裁判され、将官2名、憲兵6名が裁判にかけられ、2名死刑、6名は終身刑となった。被害者住民はあまりにも軽い処罰について深い不満を抱いた。

 「サンダカン死の行進」は1945年、ボルネオ捕虜収容所の1300人が病気・飢え・極度の疲労でほとんど全員が死亡した事件であった。

 このほか、捕虜の生態解剖など人体実験が広くお行われ、「少なくとも南太平洋の地域にあった軍医が生態解剖を医学教育の一環というかたちでおこなわれていたことがわかる」と著者は述べている。ジャワ島捕虜収容所で約1500名がスマトラ島捕虜収容所では300名が栄養失調や虐待のため死亡した。

 性奴隷の事実は近年、広く知られるようになったが、東京裁判でもこのことが追及されて一部が立証された。オランダ代表は、オランダ領東インドにおける日本軍の捕虜虐待と並べて、性奴隷の事実を明らかにした。

性奴隷問題では、オランダ領ボルネオで1943年、軍命令で9か所の性奴隷収容所を設け地元の女性などを捕らえ、1944年にはオランダ系女性抑留者を性奴隷とした。ポルトガル領チモールでも地元住民に性奴隷を強制した。

 但し、東京裁判はこれらの性奴隷問題については、明確な裁定を下していない(オランダ人性奴隷問題はマニラの戦犯法廷で有罪)。著者はこれに関して、東京裁判が性奴隷を国際法上の戦争犯罪とみなしたことは一つの成果であるが、しかし、検察側の立証不十分として有罪とはしなかったのであろうと、推測している。

東京裁判は検察の立証不十分の場合には、有罪にしなかったが、これは東京裁判が単なる「復讐裁判」ではなく、法の支配を目指す司法機関であることを教えてくれ、法治国家を目指す日本にとって貴重な司法教育であった、と著者は結論している。

 以上のような諸事件に対して、弁護側は反証を試みず、事実として認めた。日本軍がこのような数々の残虐行為を行った理由として、英米法学の権威である帝国大学法学部教授・高柳賢三(弁護団の一員。因みの彼は、憲法改正を目指した鳩山内閣が設置した憲法調査会の会長に就任し、歴代内閣の下でそれを務めた)は、「国民性もしくは民族性の反映」とした。これは反証ではなく、日本軍の残虐さを肯定するに等しかった。

 

⑥ 事後法についての当時の法学者の諸見解

 東京裁判の終了後、後に最高裁判事・裁判長になった法学者も含めて、著名な学者たちはその見解を表明していた。彼らの多くの共通理解は、「東京裁判が国際法の歴史発展に積極的な貢献をし、特に国際犯罪に対する個人責任の原則を認め適用した」ことである(『東京裁判「神話』の解体」』)。

*横田喜三郎(国際法学者。戦前から国際法の権威として名高く戦後は最高裁判所長官を務めた―1960~66年):ニュルンベルク裁判、東京裁判を経た時期、国際法は大きな変革期にあると把握し、事後法批判に対して、裁判対象が実質的な犯罪性があるか否かが重要であり、日本軍の行為は「弱肉強食の帝国主義的侵略を重ね」「条約を無視し、正義に挑戦し、驚くべき暴虐を行った」として、事後法である「平和に対する罪」を肯定した。

*団藤重光(刑法学者。戦後の刑事学とくに刑事訴訟法の基礎を築いた第一人者で最高裁判事を務めた―1974~83年):国内法は国家権力に対する個人の自由の保護であり、戦争犯罪法は国家の力の不当な行使を制限するものとして、国際法廷が侵略者を訴追・処罰することは「国際平和の確保」というより大きな人類共通の目標があり、平和に対する罪の法理の適用を積極的に支持した。

*戒能通孝(弁護団の一員、民法や法社会学の権威で、市民派弁護士として活躍した):日本の戦争は明白な侵略戦争であり、「平和に対する罪」は国際法上の明文には存在しないが、パリ不戦条約などを踏まえると、「平和に対する罪」の法概念は「すでに存在する原則を確認し、その具体化をはかっただけ」として、つまり慣習法上、侵略戦争は国際法において既に犯罪行為となっていたとみなした。同時に、戒能は、罪刑法定主義は国家権力から個人の権利を守る法理であって、この原理を使って国家権力の濫用者を保護することは本来の基本理念に反する、とした。

*具島兼三郎(政治学者)。ファシッズム批判者であった具島は「大東亜共栄圏建設論」がアジア侵略をごまかすための論理にしかすぎないこと、および、「平和に対する罪」は不戦条約を含む様々な国際協約によってその基盤となるべき法概念は既に形成されていること、「法」がもつ本来の意義は、正義の実現を最上の目標としており、侵略者を訴追することこそ正義の実現であるとした。

 

⑦ 天皇の戦争責任

 天皇の戦争責任をいち早く主張したのは歴史学者・井上清であった。天皇はA級戦犯同様に国家の粋であり、善悪の別をわきまえ、国家の運命を一身に委託された国家指導者の究極たる人物だった。この有能な人物は、しかし東条が主戦論者であることを熟知したうえで首相に任命し、自らの判断で対米戦争の決定を下した。したがって、井上は、天皇に戦争責任ありとした。

 東京裁判では、オーストラリアの検事を除いて、検事長キーナンをはじめ検察団も多数派の判事(米・英・加・NZ)も天皇訴追を主張しなかった。しかし、フランスのベルナール判事は天皇に戦争責任ありと判断した。ただし、天皇の不訴追を批判しなかった。

 ウェブ裁判長は、検察・弁護側がともに天皇に実質的責任がなかったと主張したことに対して、「もし彼が戦争を望まなかったならば、自分の権限を抑制すべきだった」と考えた。「天皇が忠告に従って行動せざるを得なかったという主張は証拠に反する。もし、彼が忠告に従って行動したのならば、そうするのが適切だと彼が判断したからだった。このことは彼の責任を制限するものではない。しかし、どちらにしても、立憲君主でさえ、臣下の忠告に従ってとはいえ国際法上の犯罪を犯したならば、責任逃れはできない」と(詳しく次章)。

 

⑧ 戦犯全員無罪論のパル反対意見書

 インドのパル判事は、次のような見解に基づいて、被告全員無罪の個別意見書を提出した。(ⅰ)「平和に対する罪」は事後法で罪刑法定主義に違反。(ⅱ)日本の戦争行為は自衛。(ⅲ)ハーグ陸戦協定(1907年)とジュネーブ捕虜条約(1929年)は法的効力なし。(ⅳ)BC級の戦争犯罪はBC級法廷で裁判済み。A級裁判の対象外。(ⅴ)日本軍の残虐行為については日本の国家指導者は無答責。(ⅵ)国際法秩序が正統化される国際社会には達していない。

 パルは、法廷の4分の1近くを欠席し、したがって彼は、法廷に提出された証拠・証言は関知しないところであり、多数派判事の意見も読んでいない。彼の主張の核心は、わかりやすく言えば、戦争は違法でも犯罪でもないということだ。戦争は「主権の行為」であり政府構成員の個人責任は存在しない。つまり、戦争の主体は個人の存在しない、抽象的な「国家=主権」だということとなる。したがって、政府・軍指導者の責任は一切問われないこととなる。一方、裁かれるべきは欧米植民地帝国主義者であった。彼は強烈な反植民地主義者であり、著者は指摘していないが、同時に彼は強烈な反共主義者でもあった。彼の意見書の目的は、欧米諸国による帝国主義・植民地主義を断罪する架空の判決書を書くことであり、彼にしたがえば、日本は欧米植民地主義と闘う反植民地主義国であった。

 日本が独立後、これにとびついたのが、A級戦犯容疑者であった、安倍首相の祖父・岸信介など右派勢力であった。パルは何度か来日を招請され、これら勢力から大歓迎を受けた。裕仁天皇は1966年、訪日中のパルに「世界の正義と平和に貢献した」功により、勲一等瑞宝章を授けた。翌年、パルが他界した際、築地本願寺で追悼式が開かれ、政府代表も列席した。

 「ポツダム宣言」で戦争犯罪人の裁判を受け入れ(第10条)、サンフランシスコ講和条約が「極東国際軍事裁判」の結果の受諾(第11条)を定めているにも拘わらず、天皇と日本政府の行為はこれらの宣言・条約に反していることは明らかであった。

 

2)『東京裁判「神話」の解体』

 本書の基になるのは、国際法学者ディヴィッド・コーエンと戸谷の英文の共著でケンブリッジ大学出版から出版されたThe Tokyo War Crimes Tribunal: Law, History, and Jurisprudenceである。

 本書の視点は、「東京裁判の遺産で中核にありながら正当に評価されてきていない部分――つまり、国際犯罪に対する個人責任の原則について、東京裁判がもたらした法理学上の貢献――に光を当てる」ことにある。その際、パルやレ―リンクやウェブに焦点を当てるのは、前二者は国際法上の分野で傑出した模範的な判事であり、それに反して後者は短気で凡庸な判事といった通念=神話が流布し、多くの東京裁判論ではパルやレ―リンクが賞賛されているからである。なお、パルについては、すでに言及したので省略する。

 

①レーリンク判事

 NHKは2017年4夜連続で、東京裁判70周年を記念し、レ―リンク判事を主役とするドキュメンタリー・ドラマを放映した。そこでは、レ―リンクは、多数派判事の意見に同調せよというオランダ政府の圧力に屈することなく、法律的正義を守る硬骨の正義漢として描かれ、広田弘毅元首相、木戸幸一元内大臣、重光葵元外務大臣、東郷茂徳元外務大臣ら文民の無罪を主張した英雄として称えられていた。

 レ―リンクは、「ニュルンベルク裁判所憲章」が裁判所に対して拘束力をもつことを曲解し、東京裁判においても「東京裁判所憲章」は判事を拘束せず、逆に「裁判所憲章」が判事の審査の対象になるとの見地に立った。レーリングが依拠すべきとしたのは、「一般的国際法の原則」であった。だが、「一般的国際法の原則」なるものは存在しない。

次に、侵略戦争は現行の国際法では裁判できないとする。国家が国益の名のもとに戦争する無制限の権利が主権国家にあり、戦争の権利を制限することは主権の一部制限になる、とするものである。ニュルンベルク、東京の両裁判の重要法的基準であるパリ不戦条約については何の法的意味もなく、「たんなる平和を好む気分の表現」に過ぎない、と彼は切って捨ててしまう。

 レ―リンクは侵略戦争を犯罪とみなすのは1945年8月以降のことであるとし、事後法を認めない、という基本的立場に立っていた。だが、突然、各被告が果たした役割について処罰することは、国際法にかなっている、との大反転が生じる。その論理は、戦勝国が侵略者を裁くのは正当な政治的措置だとする。レ―リンクは法律的正義を弁じながら、政治的判断を優先させたのである。著者の推測では、恐らく最終的にはオランダ政府の圧力に屈したとしている。

 レ―リンクが広田らを無罪としたのは、彼が平和を企図していたからであるとする。だが、広田が平和を企図していたという内心の問題など証明しようもないことであった。広田は前述のごとく、首相として「国策の基準」を決定し中国侵略計画を立案していたので、このような広田弁護論は、レ―リンクの基本姿勢、つまり日本の中国侵略には目をつぶる、ということに由来するものである。

 著者は言及してはいないが、レ―リンクの回想録である『東京裁判とその後――ある平和家の回想』(中公文庫)では、レーリンクは「ヨーロッパと日本で戦争の勃発を助長したのは、まさにソ連という国家でした」と述べる根っからの反ソ・反共主義者であり、天皇は平和主義者で戦争責任はない、という基本的立場を表明していた。

 

②ウェブ裁判長

 ウェブ裁判長の「裁判長による個別意見」は知られていた。しかし、彼は正式な判決書として長文の「判決書草稿」を準備していたが、結果的には、判決理由は異なるが多数派の意見に賛成することとなったため、「判決書草稿」は当時、公表されなかった。

 「判決書草稿」の特徴は、多数派判決が被告の有罪理由を「共同謀議論」を中心に組み立てたことに対して、「判決書草稿」が満州事変以降、日本が戦争を遂行するに至った複雑な一連の事件について、各被告人がどのような役割を果たしたのかを、法廷における証拠・証言に基づいて具体的に審査することに集中したことである。

 ウェブはまず、侵略戦争を「国際紛争を解決するために手段として、すなわち国策の手段としての戦争」と定義づけた。これはパリ不戦条約の条文並びに当時の各国の共通理解に基づくものである。そこから、自国政府に戦争をせしめる「個人は、国家の義務怠慢について刑事責任を負う」と論じた。

 戦場における戦争犯罪について、政府・軍部高官の責任を問うためには、その基準として、高官がその事実を「知っていたかあるいは知っていたはずだ」ということに求めざるを得ない。そのことによって初めて高官の犯罪「認識」とそれを防止しなかった「義務不履行」が生じるのであるが、ウェブはこれを、法廷に提出された証拠・証言に基づいて判断したのである。この基準にしたがって、畑俊六,平沼騏一郎、広田弘毅、等々の被告人の有罪理由を論じた。

 例えば畑俊六の場合:多数派が畑を有罪とした理由は、彼が陸軍大臣の期間(1939~40年)、日中戦争が新たに勢いを増して遂行され、その際の共同謀議に加わっていたということであった。一方、ウェブは、畑が1938年、中部支那(当時の表現)における軍事指揮権を握り、近衛政府が対中戦争を国家政策として続行したことを知っており、畑が陸軍大臣となり帝国議会で演説した内容や行動から判断して、畑を有罪とした。これは、ウェブが、「共同謀議論」で被告を一網打尽に有罪にするのではなく、一人一人の言動を証拠に基づいて分析し有罪と判断した一例である。

 「判決書草稿」の圧巻部分は天皇の戦争責任であった。ウェブは多数派判事が天皇の戦争責任を無視したことに強く反発し、天皇有罪論の部分を「個別意見として」公表したのである。まず、「戦争を行うには天皇の許可が必要であった」と指摘し、「戦争か平和かの決定を下すことのできる人物は日本ではかれ一人であった」と述べる。続けて、「天皇は進言に基づいて行動するよりほかはなかったということは、証拠と矛盾している。彼は限定された君主ではなかった。彼が進言に基づいて行動したとしても、それはかれがそうすることを適当と認めたからである。それは彼の責任を制限するものではなかった。しかし、何れにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲君主でも赦されるべきことではない」。

 裕仁天皇は、もし私が大東亜戦争の開戦に反対したならば私は殺される危険性があった旨を述べている(『昭和天皇独白禄』)。これについてウェブは次のように答えている。「この危険は、自己の義務を危険があっても遂行しなければならない統治者のすべて」が負うものであり、「いかなる統治者でも・・・そうしなければ命が危うかったというのであるからといって、それが[侵略戦争]を犯したことについて、赦されるものと正当に主張することはできない」と。実に手厳しい。

 さらに、ウェブは天皇が進言に基づいて行動するほかはなかったということは、証拠と矛盾している、という。なぜなら、法廷審理中、検察・弁護両側から、満州事変から太平洋戦争の終焉に至るまでのあらゆる段階で、国策決定に主体的に関わる国家元首・大元帥としての裕仁天皇の姿が浮き彫りになっていたからである。

 ウェブは当時、「判決書草稿」の提出を差し控えながら、なぜ敢えて天皇の部分だけは「裁判長の個別意見」として踏み切ったのであろうか。著者は次のように推測している。ウェブは「多数意見と『法と事実認定へのアプローチの仕方』が大きく異なるが、だいたい『同じ結果』に行き着いたので多数派意見に譲ることにした。つまり、ある意味では多数派の顔を立てる道をえらんだ。しかし、他方では、天皇の責任をタブー視し、いかに裕仁天皇個人が戦争の計画、準備、開始、遂行に主体的な役割を果たした事実が受理した証拠から浮かび上がろうと、それらすべてに目をつぶる多数派に物申す必要を感じた」。

 

おわりに

 日本の支配者階級が天皇と日本政府の戦争責任をどのように否定しようとも、侵略・支配された側の人民は、天皇と日本政府の正式の謝罪があるまでは、天皇と日本帝国主義の罪悪を忘れることも許すこともない。親日派といわれた韓国・文喜相(ムン・ヒサン)国会議長さえが、日本軍慰安婦=性奴隷問題で、天皇の謝罪を要求し、明仁天皇を「戦犯の主犯の息子」と称した、と報道されている(2019年2月)。これが、韓国・朝鮮人民にとって当然の心情である。これに対して、日本の政府・政党・マスコミ・論壇は非難砲火を浴びせた。韓国元徴用工問題に対する韓国最高裁判決に対しても同様であった。すべての世論調査の多数意見もこれを支持した。

 日本支配者階級のアジア太平洋戦争に対する無反省と賛美、骨がらみのアジア民族対する蔑視と支配の精神、統治イデオロギーとしての天皇主義の根深さ、教育とマスコミによる同様の思想の人民への刷り込み、等々が改めて日の目に晒されたといってよい。だからこそ、支配者階級はもとより、日本の多数の人民も改めて歴史を正しく見直し、深い反省が求められているのだ。繰り返し執拗に、天皇と日本帝国主義とによって行われた侵略戦争の罪悪を掘り返さなければならないのは、このためである。

 

追記

 本校脱稿後、重要な記事に接した(「毎日新聞」2019.3.17)。ポンペオ米国務長官は、アフガニスタン戦争を巡って米兵らの戦争犯罪の捜査をする国際刑事裁判所(ICC)の判事らに対し、米入国に必要な査証(ビザ)の発給の制裁を科すと発表した。ICCが方針を変えなければ「経済制裁など、さらなる対応をとる準備がある」と警告した。これに対して、オランダ・ハーグに本部のあるICCは「何者にも妨げられず、権限と法の支配の原則に従い、独立した仕事を続ける」と声明を発表し、捜査継続の方針を示した。ICC締約国会議(日本をむ123か国・地域)の権五坤議長(韓国)も「ICCを強力に支持する」と声明を出した。ICCの検察官は2017年、米兵や中央情報局(CIA)要員が2000年前半、アフガン戦争で拷問やレイプなど戦争犯罪を行った疑いが強いとして、正式捜査をICC予審判事に請求した。

 アメリカ軍がテロ撲滅を口実にアフガン国民に対して幾多の戦争犯罪を犯してきたことは公知の事実である。国際刑事裁判にかけられるべきはアメリカ軍・政府であるにも拘わらず、逆にアメリカ政府がICC判事に制裁を科すとは、「盗人猛々しい」とはこのことに外ならず、世の中さかさまの前代未聞の無法であり暴挙以外の何物でもない。

 このような無法を平気で主張できるのも、アメリカが国連常任理事国でありながらICCに加入していないことにその原因がある。なお、先にも指摘しておいたが、国連常任理事ではICC未加盟国はアメリカの他、中国とロシアであり、一方、日本はICC最大の予算拠出国である。

 今回のポンペオ米国務長官の発言という思わぬ、しかし誠に喜ばしからぬ機会によって、改めて東京裁判から引き出すべき正しい教訓を学ぶ重要度が益々高まってきたといえるのである。

                                   2019.3.18