パレスチナ問題、誰が国際法を犯し続けたのか

大阪唯物論研究会会員 岩本 勲

イスラエルは即刻ジェノサイドを止めよ!
 昨年10月7日のハマースの反撃以来、半年を経た今日、イスラエルの攻撃によるガザの死者数は33,000人以上、負傷者は75,000人以上、ガザの人口の75%に相当する170万人以上がその家を追われ、医療施設の84%が破壊され、しかもガザ住民全体の飢餓地獄が刻々と迫っている。
 だがイスラエルは、国連安全保障理事会の初めての停戦決議(3月25日、賛成14カ国、アメリカ棄権)にも拘わらず、さらにラファ侵攻を目指している。まさに、イスラエルの攻撃はパレスチナ民族の絶滅を狙うジェノサイド以外の何ものでもあり得ない。何としても、即刻この暴挙を止めさせなければならない。
 イスラエルでも漸く今月6日、中部のテルアビブで4万5千人の政府抗議デモをはじめ、全土でイスラエル人の人質解放要求とネタニヤフの退陣を求める抗議デモがおこった。支配階級内部でも割れが顕在化し始め、世論調査では支持率でネタニヤフ首相を上回るベニー・ガンツ前国防相がこのほど、ネタニヤ退陣をめざして「われわれは総選挙の日程を決める必要がある」とテレビ演説で述べた。彼はまた3月にアメリカを訪問し、ハリス副大統領や政権の高官らが彼との会談に応じた(「日本経済新聞」4/8)。
アメリカでも、3月のギャラップ世論調査によれば、イスラエルへの軍事行動の支持は、昨年11月には50%であったものが36%に下落、反対は10ポイント上昇し55%となった。民主党の支持層に限れば、支持派18%、反対派は75%に達した(「時事通信」4/7)。このような変化が、国連安保理におけるアメリカの棄権にも結び付いているのでもある。

「アル・アクサ洪水作戦」に関するハマースの声明
 「アル・アクサ洪水作戦」を主導したハマース*1は2024年1月、この作戦に至る歴史的・政治的根拠とその国際法的正当性についての見解「われわれの説明、作戦―アル・アクサ洪水」(Our Narrative, Operation Al-Aqusa Flood)を明らかにした(以下、「ハマース見解」と略記)。

 「ハマース見解」の中心的主張の一つは、米欧日のほとんどのブルジョア・ジャーナリズムが一斉にハマースの攻撃が不法なテロであり、とくに人質を取ったことが国際法違反であるとの強い非難を浴びせたことに対する反論である。逆に「ハマース見解」は、国連が既にパレスチナに有利な900以上の決議を行ったにも拘わらず、イスラエルとアメリカをはじめそれに追随する諸国政府によるこれら決議の無視に対して、強い怒りと非難を表明している。「ハマース見解」は正当な国際法の遵守と尊重を特に強調し、次のように述べている。「国際法と国際規範に従ったハマースの運動は、明確な目標と使命を持つ民族運動である。それは、パレスチナ人の自衛権、解放権、民族自決権から、占領に抵抗する正当性を得ている」と。以下では主として、パレスチナ問題をめぐる国際関係及び国際法に焦点を当てて問題点を明らかにすることとする。

ハマースの基本的立場は、1967年6月4日の線に沿った独立パレスチナ国家の設立
 ハマースの基本的な主張を明らかにした「ハマース憲章」(2017年5月1日発表)は、「1967年6月4日の線に沿ってイェルサレムを首都とする完全な主権を有する独立国家の樹立を考慮」と宣言した(第20節)。もとより、「ハマース憲章」はその第2節において、本来のパレスチナ国家はパレスチナ全土の単一国家の樹立を目指すことを宣言しているが、これは歴史的には国連のパレスチナ2分割案を批判する基本的な立場を表明したもので、歴史的文書として残されたものと判断される。したがって、当面の目標はこの第20節の実現であると解釈される。具体的には、1967年のイスラエル軍による奇襲(第3次中東戦争)以前の状態に戻ることを目標にしたものである。

シオニストと英米帝国義のパレスチナ不当支配の始原
 
「ハマース憲章」は、イスラエルによるパレスチナ支配の不当性の始原的根拠を、「バルフォア宣言」、「イギリス委任統治」、「国連パレスチナ分割決議」に求めている(第18節)。周知のごとく「バルフォア宣言」(1917年)は、第一次世界大戦中のイギリス帝国主義の有名な3枚舌外交の一環であった。イギリスはユダヤ民族を味方につけるべく、当時オスマントルコの支配下にあったパレスチナの地にユダヤ人のNational Homeの設置を認める約束をした(アーサー・バルフォアは当時のイギリスの外務大臣)。大戦後、パレスチナがイギリス帝国主義の委任統治下に入り、「バルフォア宣言」が国際連盟によって認知された結果、それはシオニスト運動を極めて活発化させ、「国際的認知」のもとにユダヤ人の入植活動が急速に高まった。イギリス委任統治の30年間にパレスチナへのユダヤ人の入植は1917年当時の12倍になった(参照:佐藤寛和「国連パレスチナ分割決議案成立の政治的背景―UNSCOPの対応とアドホック委員会での議論を中心として」)。

 さらに第二次大戦後、国連によるパレスチナ分割決議は今日のパレスチナ問題の元凶となった。パレスチナでは、パレスチナ・アラブ人とユダヤ・シオニストたちの対立が激しくなった。パレスチナ統治について態度をはっきりさせない委任統治者イギリスに対して、シオニストのテロが行われ、英軍司令部が置かれていたホテルが爆破され90名以上が殺害される事件も生じた。手を焼いたイギリスは問題の解決を国際連盟に託した。

 国連は1947年5月に「国連パレスチナ特別委員会」(UNSCOP- United Nations Special Committee on Palestine )を立ち上げ、パレスチナの分割案を協議した。シオニストはUNSCOP委員と連絡を密にしてロビー活動を活発に行い、一方、パレスチナ分割に最初から反対のアラブ諸国はUNSCOPをボイコットしこれに敵対した。

 UNSCOPでは当初、パレスチナ連邦国家案と2分割案があり、この二つの案を精査するために、第一小委員会(多数派の2分轄案の検討)と第二小委員会(少数派の連邦国家案の検討)が設けられた。第二小委員会は、国連にパレスチナ問題には法的問題があるのでこれを国際司法に託すべきであると結論した。これは、パレスチナ住民の意向に反して国連がパレスチナの未来を決定・強制する権限があるのか否かについての根本的な疑問の提起であった。しかし、UNSCOPのもとに設けられていた臨時委員会(Ad Hoc Committee)はこれを否決した。

 UNSCOPでは2分割案を国連総会に掛けることなった。これに対して、アラブ諸国(エジプト、イラク、レバノン、サウジアラビア、シリア)は、「バルフォア宣言」自体が無効であり、パレスチナの単一国家の設立を主張した。

 なお一部の国際法学者の間でも、当事者の合意のないままに国連が国境を定める権限を有しているのかという、国連決定の無効論が存在した。国連総会は憲章上、領域の帰属についての権限を有していいないこと、分割決議は内容的にパレスチナ人の自治権を侵害していること、等の理由からである。

 結論的にいえば、米ソは互いに政治的立場も2分割案の具体的内容も異なっていたにも拘わらず、両国は2分割案を進めることで一致した。だが、ソ連は元々といえば「シオニズムをユダヤ・ブルジョアジーによるアラブ労働者階級搾取の運動であり、帝国主義支配の目的に仕えるものとして非難しており、さらにパレスチナ分割を英国統治の永続化を図る策謀であるとして、中東の各国共産党に分割反対をよびかけていた」のである(前掲、佐藤寛和)。しかも、1947年1~2月にロンドンで英国共産党会議が開かれていたが、ここでも「分割反対」の決議が打ち出されていたのである。当時は、コミンフォルム(世界の共産党の情報機関)の設置が準備され、米ソ関係が険悪になり始めていた時代であった。

 ところが、グロムイコ・ソ連外相が1947年5月、2分割案に突如として賛成に回った。国連総会での最初の採決では、決議に必要な3分の2の賛成に達せず、イスラエルのロビー活動の猛烈の巻き返しによって、漸く国連総会(1947年11月29日)において2分割案が国連総会決議181号として承認されたのであった(賛成33、反対13、棄権10、欠席1)。なぜソ連が180度の態度変更を行ったのか、様々の推測がなされているが、真相は闇に包まれたままである。当時、ソ連側は5カ国(ウクライナ、ソ連、チェコスロバキア、白ロシア、ポーランド)で、これら諸国が反対に回れば、国連決議は成立しなかったのである。

 かくして、パレスチナの総人口約197万人うち3分の1に過ぎない60万人のユダヤ人が、国土の56%を占めるに至ったのである。なお、「ハマース見解」によれば、1918年ではパレスチナ・アラブ人は人口の92%、土地の98.5%を占めていたが、一方、シオニストによる移民政策によって、1948年にはユダヤ人は土地の6%を支配し、人口の31%を占めていたのに過ぎなかったのである。したがって、パレスチナ分割案が如何に不公正極まるのであるかが、これ一つをとっても一目瞭然だと言える。

第一次中東戦争(1948年5月~1949年7月)
 イスラエルが1948年5月14日に建国を宣言すると、アラブ諸国は一斉にイスラエルに攻め込んだ。だが、アラブ諸国の不統一とイスラエル側の用意周到な戦争準備のためアラブ側は敗北し、1949年7月に休戦となった。この時の休戦ラインが「グリーン・ライン」と称されており、今日でも国際法的には生きている(後掲、2004年「国際司法裁判所勧告」)。

 国連は1948年12月、総会決議194号によってパレスチナ難民の帰還の権利を認めた。それは、難民の帰還権と帰還を希望しない者には損失補償を行うとするものであった。だが、イスラエル政府は、一貫してこの決議に反対し続けた。

 この間のパレスチナ人民の被害は深刻なものであった。「約72万人の難民が発生したとされている。避難したパレスチナ人の多くは永久的にパレスチナを離れるつもりなどはなく、彼らは混乱の終息を待って帰還する心算であった。ところがイスラエルは、彼らの帰還を阻止するためにパレスチナ人の村の破壊とユダヤ人植民地の建設を進め、次第に難民の帰還の可能性は閉ざされてゆくこととなる。後の行われた、国連やアメリカを調停役とする帰還難民交渉は、すべて失敗に帰した。破壊されたパレスチナ人の村は400カ所以上に及び、この数字はイギリス委任統治時代のパレスチナ人の村の約半数に相当した。パレスチナ・アラブの生活の痕跡を抹消することに努めたイスラエルは1950年に『不在者財産の取得に関する法律』を制定し、パレスチナ住民が残した多くの土地や建物を『合法的』に接収して国の管理下に置いた。イスラエルは分割案に指定された自国の領域を大きく拡張することに(パレスチナ全域の約77%)成功した」(前掲、佐藤寛和)。

第3次中東戦争勃発(1967年6月)
 イスラエルが、エジプト、シリアに先制攻撃を加え、6日間で圧勝した。この結果、イスラエル軍はシナイ半島、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領し、イスラエルは支配地域を一挙に5倍に拡大した。約40万人のユダヤ人がヨルダン川西岸の130カ所で暴力的にアラブ人の土地を奪い入植した。このため再び多数のパレスチナ難民が発生した。

 この事態に対して、国連安保理事会242号決議(1967年11月22日)が採択された。
(a)イスラエルが最近の戦闘によって占領した諸領域からの撤退すること。
(b)この地域のあらゆる国家の主権、領土の保全と政治的独立性、安全で武力による威嚇や武力行使を受けることなく安全に、かつ承認されて国境内で平和に暮らす権利の尊重と承認すること。
(c)難民問題の正当な解決を行うこと。
(d)非武装地帯の設定を含む諸手段によって、この地域の国家の領土の不可侵性と政治的独立を保障すること。

 しかし、占領地返還についてはシリアのゴラン高原は現在においても未返還
である。ガザとヨルダン川西岸ジェリコからのイスラエル軍の撤退は大幅に遅れ、漸くカイロ協定(1994年5月)によって撤退したが、もとより242号決議の全項目にわたってほとんど実現されなかった。

無視され続けている難民帰還の権利
 「パレスチナの大義は、その本質において、占領された土地と追放された人民の大義である。パレスチナ難民と被追放者が、1948年に占領された土地であろうと、1967年に占領された土地(つまりパレスチナ全土)であろうと、追放された、あるいは帰還を禁止された故郷に戻る権利は、個人と集団の双方にとって自然の権利である。この権利は、人権と国際法の基本的諸原則によって確認されており、またすべての宗教法によって確認されている」(「ハマース憲章」第12節)。

 「パレスチナ難民を追放し、土地を占領した結果として受けた損害に対するパレスチナ人民に対する補償は、帰還の権利と連動した絶対的権利である。彼らは、帰国時に補償金を受け取ることになっており、これは彼らの帰国の権利を否定したり減じたりするものではない」(「ハマース憲章」第13節)。

 これらのパレスチナ人の権利は繰り返して国連総会や国連安全保障理事会の一連の決議によって承認された権利である。たとえば国連総会決議2625号は「平等権及び人民の自決権の原則の実現を促すすべての国家の義務を再確認した」(1970年10月24日)にも拘わらず、である(国連諸決議については後述)。

まやかしのオスロ宣言
 「次のことを確認する。オスロ合意とその附則は、国際法の諸原理に違反するものであり、それらはパレスチナ人民の譲ることのできない諸権利の侵害という犯行を生ぜしめるものである。従って『運動』は、これらの諸合意とそこから生じるすべてのもの、例えば、とくに安全保障上の調整(共同)など人民の諸権利を犯す諸義務を拒否する。」(「ハマース憲章」第21節)。

 1987年、占領政策にたいするパレスチナ人の不満が一挙に高まり、ガザの難民キャンプから第1次「インティファーダ」闘争が始まり、デモ、ストライキ、子供たちの投石、イスラエル製品不買運動など、それは広範で激しい人民闘争となった。 
 世界中の人々も改めてガザ問題に注目することともなり、イスラエル国内でもガザ占領についての議論が起こった。そこで、イスラエルはノルウェーの仲介でパレスチナ解放機構(PLO)との交渉を余儀なくされざるを得なくなったのである。

 オスロ合意(「パレスチナ暫定統治に関する原則宣言」)が1993年9月、カーター米大統領の立ち合いの下で、イスラエルのラビン首相とアラファトPLO議長との間で交わされた。その内容は、以下の通りである。
①    PLOはイスラエルを国家と認め、イスラエルはPLOをパレスチナを代表する自治政府として認める。
②イスラエルは占領した地域から暫時撤退し、5年間にわたりパレスチナの自治を認める。暫定自治開始後3年までに最終交渉に入り、5年後には暫定自治を終了する。

 しかし、次のような最も基本的な問題が積み残されたままとなった。
①イェルサレムの帰属。イスラエル、パレスチナのいずれもが、イェルサレムを首都と主張している。だが、東イェルサレムは第3次中東戦争によってイスラエルに占領されたままとなっており、イスラエルには撤退意思は一切ない。
②パレスチナ問題の核心の一つであるパレスチナ難民の帰還権。中東戦争で発生したパレスチナ難民の故郷であるイスラエルの占領地に戻ることを認めるか否かという問題。イスラエルは最初からこの権利を一切認めるつもりはなかった。
③ユダヤ人の入植問題。ヨルダン川西岸、ガザ地区に入植しているユダヤ人をどうするか。パレスチナは入植を認めず撤退を要求したが、これについてもイスラエルは上記と同様に最初から一切認めるつもりはなかったのである。

 さらに、ラビン首相が1995年、極右シオニストに暗殺され、その後、ネタニヤフ政権となって、事態は何ら進展しなかった。逆に、極右シオニストのネタニヤフ政府はユダヤ人の入植を促進し、各地でパレスチナ人を暴力的に制圧した。

 これに対して、ハマースは抵抗運動として凄惨な自爆攻撃も辞さなかった。ユダヤ人の入植も益々拡大した。1999年に労働党バラク政権が成立したが、しかしバラク政権の下で入植者の住宅建設の入札は、ネタニヤフ政権の1年間約3000件に対して3カ月間で約2600件であり、バラク政権はパレスチナとの交渉を成功させるつもりは全くなかったのである。結局、「オスロ宣言」は、そのまやかしのため破産する他はなかったのである。

 
パレスチナ問題に関する主な国連総会・安保理事会の代表的決議
 さらに国連総会では、これまでの「国際連合におけるパレスチナの地位」
に関する決議を振り返って次のような内容の文書が配布された(2012年
12月4日)。
(1)総会決議2625は、平等権及び人民の自決の原則の実現を目指す全国家の義務を再確認した。
(2)総会決議181を想起し憲章に定められている、武力による領土獲得の不承認を再確認する。この他、総会や安保理事会において、同様の決議は次のとおりである。決議242(1967年)、決議338(1973年)、決議446(1979年)、決議478(1980年)、決議1397(2002年)、決議1515(2003年)、決議1850(2008年)。
(3)決議3236総会決議(1974年11月22日)は、国連が最も注目している決議である(後述)。この決議を含めて、これまでの決議の主な内容は次のようにまとめられている。
★ 東イェルサレムを含む1967年以来占領されているパレスチナ領域からのイスラエルの撤退の必要性。
★ パレスチナ人の不可侵の権利の実現、主に自決権及び彼らの独立国家の権利(1948年12月11日の決議194・Ⅲ)に合致したパレスチナ難民の問題の正当な解決、並びに東イェルサレムを含むパレスチナな占領地におけるすべてのイスラエルの定住活動の完全な終了。
★ パレスチナ問題の平和解決に関する1988年12月15日の総会決議43/176および2011年11月30日の総会決議66/17、並びにすべての関連諸決議の再確認。
★ イスラエルによる東イェルサレムの併合は国際社会によって承認されていないことを念頭におき、イェルサレムの地位に関する2011年11月30日の総会決議66/17およびすべての関連諸決議をさらに再確認。
★ また2国家の首都としてのイェルサレムの地位を解決するための交渉を通じて方法が見つけ出される必要性。
★ 2004年7月9日の国際司法裁判所の勧告的意見(後述、引用者)を想起し、東イェルサレムを含む1967年以来占領されているパレスチナ地域の地位が軍事占領地にとどまっており、また国際法および関連する国際連合諸決議に従い、パレスチナ人民の自決権および彼らが領域に主権を有していることを特に確認している2004年5月6日の総会決議58/292を再確認。
(以下略)

 ハマースが特に高く評価している3236号決議は以下の通りである。
(1)パレスチナのパレスチナ人の譲渡不能の権利を再確認する。
  (a)外部の干渉なしに自己を決定する権利。
     (b)国家の独立と主権に関する権利。
(2)パレスチナ人が彼らの家や財産から彼らが避難し、根こそぎにされた故郷に戻るための権利を再確認し、彼らの帰還を要求する。
(3)パレスチナ人のこれらの譲渡不能な権利の完全な尊重と実現は、パレスチナ問題の解決に不可欠であることを強調する。
(4)パレスチナの人々は、中東での公正かつ永続的な平和を確立するための主要な当事者であることを確認する。
(5)国連憲章の目的と原則に従って、パレスチナ人が権利を回復するあらゆる方法を更に検討する。
(6)憲章に従って、権利を回復するための闘争において、パレスチナ人に対する支援を拡大するよう、すべての国及び国際機関に訴える。
(7)パレスチナ問題に関するすべての問題について、パレスチナ解放機構との連絡を確立するよう事務総長に要請する。
 (以下略)

 ハマースによる決議評価。「我々は、武装抵抗を含むあらゆる手段で占領に抵抗することは、あらゆる規範、神聖な宗教、ジュネーブ諸条約及びその最初の追加議定書を含む国際法、並びに1974年11月22日の第29回国連総会で採択された国連総会決議第3236号等の関連する国連決議によって正当化される権利であることを強調する。国連決議は、パレスチナにおけるパレスチナ人民の不可侵の権利、すなわち自決権と、『追放され、立ち退きを命ぜられ、根こそぎにされた家と財産』を復元する権利を確認した」(「ハマース見解」)。

 さらに、ハマースが重要視するのは、次に紹介する2004年の国際司法裁判所の勧告である。国際司法裁判所は「残忍な占領軍である『イスラエル』は、パレスチナ自治区にそのような壁を建設するために自衛権に頼ることは出来ないと述べた勧告意見書を出した。国際法上、ガザは依然として占領地であり、ガザ侵略の正当性には根拠がなく、法的資格を欠いており、自衛の理念の本質を欠いている」(「ハマース見解」)。

国際法違反のガザ「分離の壁」
 イスラエルは2003年、ハマースのテロを防止するという口実で、ガザを取り囲む壁の建設を開始した。一方、アラブ国家連盟は2003年10月9日、この壁の建設は1949年の停戦ライン(グリーン・ライン)に違反し、パレスチナの領土を併呑しパレスチナの自然資源を破壊し、パレスチナの民族自決権を犯すものとして、安保理事会に対して、これに対処すべきことを要請した。国連総会の緊急特別会議は、この問題にたいする法的判断を得るべく、国際司法裁判所への提訴を勧告する決議を採択した(2003年12月)。国際司法裁判所の勧告的意見(2004年7月9日)は以下の通りであった。
(a)本件について裁判所は管轄権を有する。
(b)壁建設は国際法違反であり、即時に建設を中止しなければならない。
(c)壁建設は永久的な既成事実となり、パレスチナ領土の事実上の併呑となる。
(d)壁建設はパレスチナ人民の自決権の行使を阻害する。
(e)パレスチナ人民が受けた生活上の制限に対して、イスラエルが国際人道法と国際人権法規約に違反したことを義務として受け入れなければならない。
 (f) 壁建設がイスラエルの自衛権であるというイスラエルの主張は国連憲章第51条とはいかなる関係もない。(注:国連憲章第51条は国家の自衛権規定)

もとより、イスラエルはこの勧告を拒否し、壁の建設の中止も取り壊しも行わなかった。

ハマースは透明性のある国際調査を要求
 ハマースは、「アル・アクサ洪水作戦」際して、多数の民間人が殺された、赤ん坊40人が斬首された、女性がレイプされた等々のイスラエルがでっち上げた嘘が世界中にばらまかれているとして、国際刑事裁判所検察官の調査を求めている。「パレスチナは国際刑事裁判所(ICC)の加盟国であり、2015年二ローマ規定に加盟した。パレスチナが自国領土内で行われたイスラエルの戦争犯罪の調査を求めたところ、イスラエルの非妥協的な態度と拒絶、そしてICCへの要請を理由にパレスチナ人を処罰するという脅しに直面した。

 また、正義の価値観を持っていると主張する大国が、占領話に全面的に賛同し、国際司法制度におけるパレスチナの動きに反対していたのは残念である。これらの権力は、法を超越した国家を維持し、法的責任と説明責任を逃れようとしている。・・・これらの国々が正義を支持することには疑問があるが、私たちはICC検察官とそのチームに対し、単に遠隔地で状況を傍聴したり、イスラエルの規制下に置かれたりするのではなく、被占領地に直ちに緊急に赴き、そこで行われた犯罪や違反を調査することを強く求める」(「ハマース見解」)。

 なお「ハマース見解」は、人質交換の事実も率直に認めている。もとより、一般的には、非武装の民間人を捕虜にすることは、外見上は国際法違反である。だが、イスラエルがいかなる罪もないパレスチナ人8000余人を不法投獄し、殴打し拷問している現状において、いかなる方法を講じても釈放の方法がない限り、ごくごく一部の人々の解放のためとはいえ、やむを得ない手段として人質交換という手段に訴えても、それは違法性が阻却されると判断すべきである。

 ちょうど、それは他人の不正な行為に対して、自己または他人の権利を防衛するためにやむを得ずにする加害行為は正当防衛として違法性が阻却されるのと同様の原理である。もし、人質交換が犯罪と判断する人が居れば、ではどのようにして囚われているパレスチナ人を救う方法が他にあるのか、と問わなければならない。上述のごとく、国連決議や国際司法裁判所勧告をことごとく踏みにじってきたイスラエルに対して他にどのような手段・方法があると言えるのだろうか。 (2024年4月10日)

唯物論的歴史観

 

 

 

 

*1:ハマースはパレスチナにおける最後の議会選挙(2006年1月)において、総議席132のうち、ハマース74議席、ファタハ45議席、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)系3議席、その他パレスチナ人民党(共産党系)とDFLP(パレスチナ解放民主戦線)。アッバース大統領はハマース内閣を拒否し、ファタハとハマースとの対立が激化し、銃撃戦までに事態は悪化した。アッバースは大統領権限に基づく緊急事態宣言によってハマースを非合法化した。ハマースはガザ地区を実力支配し、ファタハがヨルダン川西岸を支配することとなった。これ以後、パレスチナ議会選挙は行われなかった。
一方、ファタハ内閣のファイヤード首相は親欧米派でIMFの支持と経済援助を受けていた。アメリカは、ガザを支配するハマースに反発して、ガザへの経済援助を停止した。ガザは経済的困難に直面し、1000を超すトンネルを掘り、エジプトとの交易によって生命を繋いだ。当時、ガザの経済の90%が地下経済によって支えられているとの観測も行われた。