関東大震災100周年 ―― そこから何を学ぶべきか ―― (補 遺 その2)

大阪唯物論研究会会員 岩 本  勲

デマをトップ記事で報じる1923年9月3日付の東京日日新聞

 

 8月初旬に、「関東大震災100周年 —— そこから何を学ぶべきか —— というタイトルで小冊子を発行した。その後に映画『福田村事件』の公開があり、また主要マスメディアが関東大震災100周年関連の主張や論評を掲載・放映したことを受けて、それらについての論評を「補遺1」として発表した。

 それらに対して友人諸君から批評を頂いたり、私が未読の文献の紹介を受けたりした。その中に貴重な資料が多数含まれており、ぜひ多くの人にその内容を知ってもらいたいという強い誘惑にかられた。そこで参考文献の紹介を中心に、「補遺 その2」を出すことにした次第である。

参考文献

■ 松尾尊兊『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件』、『思想』(上)1963年9月/同(下)1964年2月、岩波書店

 本書は関東大震災における朝鮮人虐殺事件全体の本格的解明が漸く始まった段階で、主として官憲側の極秘資料を発掘し、その実態を解明しようとした先駆的労作である。この論文は、発表されて60年を経た今日においても、事件に対する全体的な目配りとその論点の鋭さは、その意義を失ってはいない。従って、少々は長くなることを厭わず、その要点の紹介に努めることとする。なお、カッコ内は論文の引用である。

 「関東大震災下に発生した朝鮮人虐殺事件は、先の大戦における南京事件その他の残虐事件にもまして日本帝国主義の本質を赤裸々に示したものである。それは日本の支配階級が過酷極まりない植民地支配と日本国民の間に根強く育成されてきた弱小民族蔑視の集中的表現であり、われわれ日本人が自らの歴史を振り返る際、避けてとおることの許されない事件であるといわねばならない」。これが著者の基本的視点である。

 著者は9月1日夕刻に早くも流言が発生したとし、その発端についておおよそ次のように述べる。『関東大震災の治安回顧』(吉河光貞検事)が「鮮人の暴挙ではなく、之と似而非なる内地人罹災民の暴挙であり、之等の暴挙が鮮人の暴挙と誤認され訛伝されたのではあるまいか」と指摘しており、吉河氏のいう「罹災民の暴挙」とは右翼のボス・山口正憲一派の団体が武装し赤旗を携行して数々の「集団強盗」を働いたことにほかならず、したがって「吉河氏の推定はいぜん有力な一見解」である。

 なお、9月1日夕刻の流言の発生については、後掲の『Q&A関東大震災100年』(2023年9月発行)が、少し違った次のような見解を明らかにいている。「『朝鮮人が暴動を起こしている』というデマ発生源(政府から出たのか、民衆から出たのか、あるいは双方から出たのか)についてはいまだ明らかになっていません」、と。

 翌2日目からの流言の拡散は、官憲がこの流言を広め、警官・軍隊の行動は流言を一層拡大せしめた。さらに政府は警察力だけでは対処できないとして、枢密院の議を経ることなく、「違法」に勅令によって戒厳令を敷いた。さらに、内務省は3日午前8時15分、海軍省船橋送信所を通じて全国の地方官庁に朝鮮人暴動の報を伝えた。「このような政府首脳の動揺は多分に朝鮮人制圧の反撥を恐れる帝国主義者の恐怖感より出たものと考えられる。とくに内相水野錬太郎、警視総監赤池濃はそれぞれ朝鮮総督府の政務総監、警務局長であった」。

 朝鮮人虐殺の扇動者はだれか?「どの官憲の資料を見ても、朝鮮人の迫害はもっぱら自警団のせい」にされているが、例えば船橋送信所長大森海軍大尉の如く、朝鮮人の来襲に怯えて自警団に対して「諸君ノ最良ナル手段と報国精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ務メラレタシ」と訓示した如く、官憲が自警団の殺人事件を惹起せしめたのである。「自警団による殺傷事件にも官憲の責は免れないのではあるが、それよりむしろ官憲は率先して朝鮮人を迫害することより、自警団に範を示したのである」。また司法省『調査書』は次のように記している。「殊ニ江東方面ニ於テハ軍隊ニ於テ殺傷ノ行為ヲ逞ウシタルカ為、民衆之に倣ヒテ殺傷ヲ敢テスルトノ巷説アリ」。警察のトップもまた、朝鮮人虐殺の責任を負わなければならない。「当時の戒厳令司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事(評者注:特別高等警察の長、)が、腕まくりをして、司令部を訪れ『こうなったらやりましょう』といきまき、阿部信行参謀をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたと語っている」。

 著者は自警団の数やその武装を詳しく調査し、その凶暴性を次のように分析している。「自警団の狂態は直接的には官憲の宣伝にのったものであるが、民衆の間に万歳事件(評者注:3・1独立運動=独立万歳事件)以来支配者のたえざる宣伝によって、植えつけられた民族独立運動に対する憎悪感と、支配者によって育成されて来た朝鮮人に対する優越的差別意識に基づく日頃の朝鮮人虐待が、何かの機会に報復を生むのではないかという恐怖心が一時に噴出したものといえよう」。

 一方、政府は3日頃から、あたかも一見すれば朝鮮人保護の如き布告を出しながら、実際には、警察・軍隊・自警団の虐殺を野放しにしてきた。それは「民衆の憎悪をいぜん朝鮮人に向けさせておくことにより、飢えた民衆の支配階級に対する憤懣をそらせるという治安保持の立場よりでたものと推測される」。

 報道については、9月3日に警保局は各新聞社に朝鮮人虐殺についての報道を禁止したが10月20日以後、解禁となった。しかし、「官憲の要請によってか、各新聞は大々的にしかも尾鰭をつけて官憲の発表を報じた。たとえば、『大阪朝日新聞』(一〇月二一日付)は、『震災に乗じ猛火のなかで殺人略奪等戦慄すべき行動をとった不逞鮮人の群れ』と四段ヌキの見出しをつけ、『東京日日新聞』は『震災の混乱に乗じ鮮人の飽くなき暴行ついに内地婦人を襲って殺害、強盗放火を随所に』などと大書している」。

 朝鮮人虐殺と同時に、警察と軍隊は「赤化日本人」対策に乗り出した。「とくに軍隊は、この機会に社会主義者を徹底的に弾圧する決意を固めた如く、第一師団長石光真臣の如きは三日午後四時在京各団長を集め『鮮人ハ必ズシモ不逞ノミニアラス、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘レルヘカラス、宜シク此ノ両者ヲ判断シ適当ノ指導ヲ必要トス』との訓示をおこなった」。この結果が、亀戸事件であり大杉事件であった。

 「もともと社会主義者が朝鮮人蜂起の背後にありとの流言はなかったのであるが、この軍隊・警察の行動は自ら流言を生み、官憲またこの流言の積極的伝播をこころみ、民衆と社会主義者の離間を策した・・・挙句の果ては朝鮮人蜂起の流言をはなったものは社会主義者だという責任転嫁のデマさえふりまくに至った。内田魯庵『恐怖の二週間』(『太陽』一一月号)は『六日だか七日だかの戒厳令司令官の告示は流言蜚語を言触らしたものは社会主義者である』と声明しておるとの事実を示しており・・・。このように戒厳令下、人民の言論の自由を完全に奪っておいた上で、自由にデマを製造し、民心を巧みに誘導したのであった」。

 事件後、殺人容疑で裁判になったのは、12件、125名、うち無罪2名、執行猶予91名、実刑32名、最高刑懲役4年2名(『法律新聞』一二月五日)、「しかも、被告の多くは翌年一九二四年一月二六日、皇太子結婚の際の恩赦を受けているのである(「大阪朝日新聞」一月二七日付)。集団殺人事件で量刑がこのように軽いのは、前後其の比を見ない。米騒動では死刑まであったのを想起するとき驚くべきものがある。これは抑圧民族が被抑圧民族に対して行った犯罪の裁判の際にしばしば見られる欺瞞的裁判の一好例と言えよう・・・そして最大の犯罪者たる官憲には、結局何の処分も行われなかったのである」。
(以上、1963年9月号)

 事件後、官憲が最も頭を悩ましたのは、迫害事件によって朝鮮人の対日反感の増大をいかに防止するかであった。まず、官憲がとった措置は迫害事実を極力隠すことであった。そのため、朝鮮人の内地渡航禁止、在日罹災朝鮮人の帰国禁止、朝鮮における言論取り締まりであった。朝鮮総督府は9月3日以来、朝鮮人事件に関する報道の禁止、日本から送られる新聞の差し押さえ、大阪中央郵便局発の関係電報の一切の没収、等をおこなった。

 しかし、「総督府は、迫害事件を全く隠しおわすことが不可能とみて、むしろその存在を内鮮人の『衝突』として部分的に認め、その責を『不逞鮮人』の『暴行』に帰せしめて朝鮮民心の不満と疑惑を解き、一方多数の朝鮮人は官憲の手厚い保護を受けていると偽って、恩を押し売りすることによって民心を安定させようとしたのである」。さらに「総督府は『不良鮮人』は独立運動に関係ありとして、独立運動を中傷し、民衆との離間を策した」。しかし、朝鮮人の動揺は一向に収まらず、これに対抗して在朝日本人が本国に倣って自警団を結成しようとした。当局はそれも禁止した。

 一方、著者は、日本国内における「この事件に対する国民の批判は、率直にいって、甚だ微弱であったというよりほかはない」、として事件後の各界の動静を紹介している。

 もとより、いわば例外として、議会において政府の責任を追及したいくつかの例はあった。「田淵豊吉(無所属)、永井柳太郎(憲政会)の二人が朝鮮人事件における政府責任を追及したことは、横山勝太郎(憲政会)らが亀戸事件の、仙波太郎(憲政会)らが中国人殺害事件の各質問書を提出したことと共に注目に値する」。とくに著者が治安警察法第五条の修正(婦人政治集会参加禁止削除)に尽力した孤高の議会人として高く評価する田淵豊吉の質問演説(1923年12月14日)は、「かつて帝国議会の檀上でおこなわれた諸々の演説中の白眉と信ずるので、長きをいとわず引用しておく」とした。その演説は、内閣諸公が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も報告しないことを「非常なる憤慨と悲しみを有する者であります。それは何であるかと言えば、朝鮮人殺傷問題であります」に始まるまさに堂々とした演説であった。「さらに彼は、中国人殺害事件についても率直に公表し謝罪せよと迫った」。だが山本権兵衛首相は全くこれを無視した。永井柳太郎は翌日、田淵演説は「将に国民の問はんと欲するところを問ひたる感がある」として政府の無答弁を攻め、続いて「政府が事件の責任を自警団におしつけている観がある」として政府を厳しく批判した。

 「大正デモクラシーの指導的役割を果たした諸新聞は・・・(政府の報道管制中は事件に言及できなかったが、解禁(10月20日)後は)、朝鮮人の『暴行』に関する政府発表を一日だけ取り上げたのみで、政府が期待したような、朝鮮人の『不逞行為』の宣伝をおこなわず、むしろ自警団の暴行事件をとりあげた。しかし、その取扱い方は、大杉事件にくらべて、著しく弱かった」。

 ただし、「その中にあって、もっとも強く政府弾劾の姿勢を保っていたのは『東京朝日新聞』であった。解禁前の九月二二日、『法治国の精神』と題して,法治国たる以上法によらずして生命を奪われることなく・・・戒厳令を好機に『火事場泥棒的行為が行われるならばそれは実に国家の深憂』であると暗に官憲を非難し、同月二六日、多数の朝鮮人に同情の意を表し・・・出版解禁後は『流言の責任は不逞の徒と民衆の軽信とにのみありとは決して信ずるを得ない(中略)軍隊と警察とがあの場合始から独り理性的に流言の道を絶ち、直ちに鎮圧することを為したといふ事実は之を知らぬ。却ってその口より此の流言を取次ぎ、之に力を加ふるの行動を採った事は各所に実例を見るのである(中略)殆ど時間的に間隔なく彼の如く広き範囲に亘って同一流言が行はれたに就いては、その背後に大なる組織的な力を感ぜしむる』。・・・殺傷事件においても『当局の調査し発表する所のみを聞けば、警察、軍隊共に頗る正常に活動し、民衆のみ狂暴なりしがごとくであるが、事実は必ずしも悉くその儘とは信じられない』」。この他、『時事新報』も自警団の殺傷事件については『東京朝日新聞』と同様の見解を伝えていた。

 「しかしこれらの言論はねばり強さを欠いていた。・・・議会で田淵・永井らが議会で政府を追及した折にも、院外でこれに呼応することもなかったのである。・・・『万朝報』の如きは・・・政府顔負けの厚顔無恥ないいぐさをふりまわすものさえあったのである。・・・(当時論壇で活躍していた)知識人の間に朝鮮人事件に対する疑惑がひろがってはいるが、これを徹底的に糾弾する気迫は乏しかった。・・・当時の三大総合雑誌『中央公論』『改造』『太陽』にしても、大杉事件だけが華々しく取り上げられ、亀戸事件とともに朝鮮人迫害事件をとり扱った文章はきわめてすくないのである」。但し、その内でも官憲の責任を追求したものとしては次の緒論が指摘される。秋田雨雀の詩「眠りから覚めよ」(『改造』一〇月号)、海軍少佐水野広徳「大災記」(『中央公論』一〇月号、三宅雪嶺「三種の虐殺事件」(『改造』一一月号)、内田魯庵「恐怖二週間、(『太陽』一一月号)。とくに「吉野作造は『朝鮮人虐殺事件に就いて』(『中央公論』一一月号)において官憲の糾弾とともに、民族的憎悪をうえつける在来の教育法方針の改善を主張し、さらに流言を国民が直ちに信じたのは『朝鮮統治の失敗、之に伴ふ鮮人の不満と云うようなことが一種の潜在的確信となって国民心裡の何所かに地歩を占めるに至ったのではなかろうか』・・・これらは、先の新聞の諸社説、および山崎今朝弥・布施辰治・田坂貞雄・片山哲ら自由法曹団のねばり強い調査活動(布施「鮮人戦騒ぎの調査」)とともに国民の良心を代表するものであった」。

 それには反して、大方の自由主義インテリに対する著者の批判は手厳しい。「上杉慎吉のような国粋主義者までが『国民新聞』(一〇月一四日付)紙上で、数百万市民の疑惑を代表して警察・官憲が(一)流言蜚語を流布し、(二)積極的に自警団を武装させ、朝鮮人を殺してもよいと信ぜしめ(三)暴行を予防鎮圧できず(四)自ら各種の人民を迫害し遂には殺戮し(五)しかも全く責任をとろうとしないことに対する官憲の明答を要求するのを見るとき、なお自由主義インテリの言論の弱さは覆いがたいものがあるといわねばならない」(評者注:上杉慎吉は、自由主義憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」に対抗する「天皇主権説」で当時の憲法学界を二分した。なお、上杉は震災当時、警察官が率先してデマをふりまき国民の武装をよびかけていたのを目撃している)。

 さて、労働運動の対応はどうであったか? 関東大震災の前年に結成されたばかりの共産党は震災直前の6月に幹部が一斉に逮捕され身動きが取れなかった。労働総同盟の幹部はすさまじい事態にたじろぎ具体的な行動はとらなかった。「この間にあって官憲のきびしい取締の中で、亀戸事件の糾弾の運動は進められ、とくに関西では京阪神の総同盟と官業労働総同盟の共催により糾弾演説会がひらかれた。しかし、労農団体が正式に朝鮮人虐殺事件に抗議の意を表明したのは、わずかに総同盟大会が翌二四年二月一一日、亀戸事件抗議に関する件上程の際、緊急動議として弾劾文を可決した一例にとどまった」。なお、弾劾文は短いもので「日本労働総同盟は・・・震災に於いて多数鮮人の虐殺された事実に同情の念を禁ずるに能わず。・・・斯の如き不祥事の発生は悉く政府当局に対して許すべからざるものと信ずる故に茲に当局の責任を糾弾する」。

 これに対して前年に結成されたばかりの東京朝鮮労働同盟会は、総同盟の決議に謝意を表するとともに、日朝労働者の団結について、階級的見地にたって、いかなる方法で日朝労働者の団結を図るべきか協議したい旨を提案した。だが、総同盟はこの提案を受け入れて協議することはなかった。

 「しかし、この問題に気付いた少数の先駆者もないではなかった。弁護士山崎今朝弥を中心に・・・三月一六日、雑司ケ谷の日華青年会館で「日支鮮人追悼会が営まれ、総同盟、信友会、機械労働組合、時計工組合その他、総同盟系反総同盟系を問わず各種の労働組合員有志および、朝鮮人労働者・学生有志合して三五〇名が参列した。演説は殆ど中止の連続で、多数の検束者を出し、ついに解散を命ぜられた・・・民族を越えた無産階級の連帯を強調するものであった。この事件は、同月二五日、中国労働組合連合会(反総同盟系)の大会が「朝鮮人組合との連携の件」を可決したこととともに、労働者階級が、この事件を契機として日朝労働者の団結の道に沿って一歩踏み出そうとする姿を示していた。以上のように、国民各指導勢力の間に、甚だ、朝鮮人迫害事件に抗議する姿勢の弱かったことは否定できない。・・・しかし一方では少数ではあるが、暗中の光明のように事件に対する批判の声があがり、そこから日朝関係 を考え直そうという気運が、微弱ながらも動いてきたことを軽視してはならない。震災の年のメーデーでは、大阪で『朝鮮における八年制令(朝鮮の治安維持法的な弾圧法規)の撤廃』が五つのスローガンの一つとして掲げられたが、一九二五年メーデーには同じ大阪で、八年制令撤廃、日鮮人賃金差別撤廃と共に『日鮮労働者団結せよ』のスローガンが示され、堺もこれと同じ、岡山に到っては『植民地の解放』が大胆にも掲げられた。ここに朝鮮人虐殺事件を契機とする日本人民の覚醒の姿が示されているといえないだろうか」。
(以上、1964年2月号)

 

■ 姜徳相[カン・ドクサン]・琴秉洞[クム・ビョンドン]『現代史資料 関東大震災と朝鮮人』普及版、みすず書房、2023年8月(初出、『現代史資料6』1963年11月

 本書は、関東大震災における朝鮮人虐殺に関する、最初の本格的で徹底的で包括的資料集で、その内容は以下の通りである。

 写真集 虐殺現場を含めて20ページ
 資料解説34ページ(以下すべて2段組み)
 本文632ページ、

第1部 政府の措置と対策
 1.治安当局の所感と戒厳令、2.船橋送信所関係、3.警視庁及び各警察管内に於ける流言状況、4.臨時震災救護事務所の設立、5朝鮮人対策の推移、6.陸軍の執りたる措置、7.近衛・第一師団の行動、8.近衛・第一両師団勲功具状、9.海軍の執りたる措置

第2部 流言と虐殺
 10.流言の流布と自警団、11.全国主要地方紙流言記事、12.目撃者の証言、13.主要新聞の事件記事、14.「震災善後の経綸について」(内田良平)、15.京浜地方震災における朝鮮人の虐殺を論じ、其の善後策に及ぶ(一朝鮮人)

第3部 強制収容と調査
 16.強制収容と労働、17.収容朝鮮人の陳述、18.人民による事件調査、19.政府による事件調査、20.国会による事件調査 

第4部 事件の反響
 21.朝鮮国内における反響、22.諸外国における反響 

第5部 論評その他
 23.日本人の論評、24.外国人の論評、25.慰霊祭関係資料
附録26.警備当途軍の所見

関東大震災関係文献目録(14ページ)

付録](16ページ)
 山辺健太郎「震災と日本の労働運動」
 松尾尊兊「関東大震災と朝鮮人」

姜徳相・琴秉洞「松尾尊兊氏『関東大震災と朝鮮人』書評についての若干の感想
 もとより、評者は本書の史料価値全体を評価し得る力量は持ち合わせないので、上述の松尾尊兊氏の次のような評価をもって代えたい。「本書は、朝鮮人虐殺事件に関する、現在知りうる限りの基礎資料の集大成である。従来とて断片的資料は幾らかその所在を知られていたのであるが、この事件の全容をほぼ明らかにしうるだけの資料がまとまって紹介されたのは本書をもって初めてとするものである。とくに旧日本政府の司法・陸軍・海軍各省関係文書が大量に再録されえたことは、本書の資料的価値を高らしめるものである。・・・これだけの豊富な資料を集めるには、さぞ多くの労苦が払われたことと察することができる。姜徳相・琴秉洞両氏の多年にわたる努力に深く敬意を表するものである」(付録、p.10)。もとより、松尾氏は専門家として、本書の正確性を確実にするため、本書における「若干の瑕瑾」と思われた点を指摘されている。①資料の配列が原典に即していないこと、②主題にふさわしくない資料が混入されていること、③関東地方以外の実例資料がかけていること、④流言の拡大は決定的に官憲の作為と信じるが、9月1日夜の流言の発生まで同様と言えるのか否か。2人の著者は、これらの指摘について丁寧に答えられているので、これについては本書を参照されたい。

 なお、評者の狭い知見の限りでは、本書を凌駕する資料集は未だ発刊されていない。逆に言えば、日本政府が朝鮮人虐殺に関する官庁資料を秘匿し続けている、ということに他ならないのである。

 

■ 江馬修『羊の怒る時―関東大震災の三日間』ちくま文庫 2023年8月(初出1925年 聚芳閣、本書は1989年10月の影書房によって復刻された単行本を底本とする)

 本小説の作者は人道主義者として出発するが、関東大震災の経験を経て社会主義者に転換し、その後はプロレタリア作家として活躍した。本書は、関東大震災を経験した小説家による恐らく最初のまとまった体験記であろうと評価されている。彼は大震災が起こり、またたく間に民衆の間に流言蜚語が広まり、民衆がパニック状態に陥り、すぐさま朝鮮人大量虐殺へと展開する過程をリアルに描いている。彼は近所の朝鮮人留学生と親しくしており、まさか朝鮮人が井戸に毒を投げ入れ、暴動を起こしているとは俄かには信じ難かったのであるが、しかし、心のどこかで自分自身が動揺している状況をも正直に告白している。状況が漸く終息した際、彼は、9月28日に芝増上寺で行われる朝鮮人の追悼会への出席を申し込んでいたが、しかし、朝鮮人のために何もしてやれなかった、という自責の念にかられて、出席を取りやめた。そして、小説の最期を次の「呪い」の言葉で締めくくった。「柔和なる羊を怒らすこと勿れ。羊が怒る時が来たら、その時は天もまた一緒に怒るであろう。その時を思って恐れるがよい」―一九二五・三・十五―

 

■ 江馬修『血の9月』、在日本朝鮮民主青年同盟岐阜県飛騨支部発行(非売品)、1947年9月、再録「季刊・在日文芸 民涛7・8号」1989年6月、9月

 江馬は、『羊が怒る時』では書ききれなかった、関東大震災における、流言蜚語と警察・軍隊・民衆による朝鮮人の虐殺過程および亀戸事件を含めて日本人社会主義者の虐殺の過程の全体を描き切るために、改めて長編の作品に取り組んだのである。したがって、その表現のリアルさは、「羊の怒る時」よりも数倍に勝ると言ってよい。

 本文は最後に、次のような指摘で締めくくられている。「階級意識ある労働者はあざむかれなかった。九月二十八日の晩には、芝増上寺で虐殺された朝鮮人のために大追悼会が催された。朝鮮人と日本の左翼労働者の主催で,弔辞、演説、いずれも臨検巡査のために次々と中止されてしまったが、しかも集まった朝鮮人はこの弾圧をとほして、犠牲者の復讐をおごそかに誓った。十一月二十日には大阪の中央公会堂で、亀戸事件労働者大会と官憲暴行応戦大演説会とが一緒に持たれた。各無産団体の代議員四百名と傍聴者五千とが、さしも広い会場を錐を立てる余地もないものにした」。そして次の決議がなされた。

 一、全国に亘って一般民衆に支配階級の暴虐を徹底させしむること。
 二、各国の労働組合に飛檄すること。
 三、虐殺された遺族を救済すること。
 四、各政党に大会の宣言決議を送附し無産階級の意思を表示すること。
 五、社会運動犠牲者のために毎年九月一日を期して招魂祭を施行すること。

 関東大震災100周年を迎えた今日、この決議の意義は未だ生きており、われわれは心してこの決議を受け止めねばならないのではなかろうか。

 

■ 「関東大震災と在郷軍人会—組織と動員」『季刊・現代史』通巻9号1978年9月

 「米騒動にはじまる大正デモクラシーの状況は、在郷軍人会の社会的評価を徐々に後退させていたのだったが、一九二三年(大正十二年)九月一日に起きた関東大震災がその状況を一変させた。震災時期、民衆レベルの動きの中で、在郷軍人の行動は文字通り中堅としてあった。・・・各町内に自警団ができると、青年団と共にその主力になって動き、にわかにその軍服姿が目立ち始めた・・・震災以後、軍と在郷軍人会の後退現象に歯止めがかかり、逆に社会的役割を高唱しつつ、ファシズム的方向へ踏み出すきっかけを作ったのである。・・・米騒動はデモクラシーへの対応を引き出し,関東大震災はファシズムへの幕あけを見せたのである。また、周知のように、震災における朝鮮人の大虐殺と社会主義者への圧迫は、権力自身の行為であるとともに、在郷軍人会が中心になった自警団が深く関与したものであった」。

 著者はこのような見地から、在郷軍人の役割、組織およびその歴史的・政治的役割について極めて詳細な分析を加えているが、評者はその内、とくに著者が最後に結論として挙げている5点に注目したい。

① 権力と民衆との思想的合意としての朝鮮人観である。朝鮮人虐殺を民衆と共に行った共犯意識が生まれ、流言が間違いであったと判明した時点でも、共犯意識が自責の方ではなく、優越意識・民族差別意識の方にずれ込んだこと。

② 権力の側から相当に流言操作が可能だということを何よりも権力側が知ったこと。したがって、放火流言と社会主義者を結びつけたこと等は明らかに権力側の操作である。これによって民衆意識の反権力への転化を防ぎ、権力との共犯意識が確保されたこと。在郷軍人会をこの虚構の任務のために動かせる見通しがついたこと。

③ 朝鮮人・社会主義者が「国体破壊者」という発見をしていること。そのため、思想善導の任務が在郷軍人会に与えられたこと。社会主義者を主要敵とする目標転換は軍・在郷軍人会関係が最も早かったこと。

④ 自警団の経験は、一つの民衆動員訓練として有効に受け止められ、国民訓練の必要が説かれたこと。在郷軍人会や青年団に訓練事業の拡大が検討されるようになった直接のきっかけを震災がつくったこと。

⑤ こうしたことが、治安維持法体制の確立を早急な課題として、権力内部で急ぎ立法化の準備が進められることになったのは歴史のよく示す通りである。(評者注:1925年「治安維持法」公布)

 

■ 佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』ちくま書房 2023年8月

 筆者の本書執筆の動機とその意図は、「はじめに」及び「結びに代えて」(巻末)に示されている。まず、「民衆犯罪の多くは、権力の思惑を超えていて、先行研究の認識枠組みから大きくはみ出している・・・何よりも自警団に関する基本的認識が不足している。・・・自警団の主力も、虐殺事件の主犯も消防組だったことが、等閑視されている」。

 この見地から、「第1部 関東大震災下の国家と民衆」においては、デマを広めたのは警察であり、戒厳令下の軍隊による朝鮮人大量虐殺を批判すると同時に、自警団の結成趣意、結成状況などについて、先行研究を凌駕する詳しい分析が行われる。自警団は権力による「民衆の警察化」方針に従って組織されたものである。この自警団を構成する消防組・在郷軍人会・青年団のうち中核勢力が消防組であり、この消防組は警察の統制下におかれていたが、一般人の組織であり、したがってこの消防組=一般の民衆こそ朝鮮人虐殺の主犯ということとなる。

 「第2部 刑事事件化した民衆犯罪の動向」のうち「2.日本人襲撃事件の実態と被害者像」において著者の独自の見解が展開される。要約すれば、日本人が朝鮮人と間違われて虐殺されたという殺害者の誤認論は、殺害者の免罪を主張する殺害者と官憲の作り話で、実際は、次のようだという。「(日本人虐殺者である)住民=土着民が見知らぬ『ヨソモノ』を襲ったのが、日本人襲撃事件の基本的な構図となる」(p.209)。この誤認論は、殺害者の虐殺に対する官憲・自警団双方の合意の上の「免罪符」として使用されたことは明らかだ。もとより誤認の有無にかかわらず、虐殺には一片の正当性もなく重罪に値することは論をまたない。

 末尾の「結びに代えて」では次のように結論される。「はたして自警団は『発話不明瞭なもの』を襲ったのであろうか。日本人襲撃事件をトレースすると、多くの場合、自警団は問答無用で襲いかかっていた。見知らぬ相手を誰何訊問しても、一旦『朝鮮人』とみなせば襲撃した。言葉づかいなど関係はなかった。被害者の多くは工場や会社、官公庁の勤め人や学生であった。地縁の薄い『近代産業』従事者という被害者像が浮かんできた。先行研究の民衆観と加害者像に対する違和感であった。国家権力に『操られ、だまされた民衆』像にはほとんど当惑させられた。民衆犯罪の残酷さと少しも見合わず、その徹底さ、無差別性を説明できないからである。一五歳で自ら参加した社会運動が狭山闘争であったかも知れない。筆者の心底には教育に、性差別や民族差別、部落差別の当事者としての民衆、自分も含めて『差別する民衆』像が横たわっている。当時の部落解放運動は、さまざまな問題を抱えながらも民衆が差別の当事者であるという認識は突き抜けていた。自分は差別主義者になり得る。この自覚は社会認識の出発点となった。・・・先行研究は、民衆の加害性を過小評価し、権力の影響力を過大評価しているのではないか」。

 著者は、民衆が扇動されて加害者になっただけではなく、能動的に加害に加わった側面を強調したいあまり、加害における権力の決定的役割を相対化してしまっている。民衆を能動的加害者に駆り立てた衝動力の衝動力が社会経済体制であること、その体制における支配階級の意思の執行者が政府であり軍隊・警察であり、それに組み込まれた在郷軍人会・消防団であったことの確認が肝心である。したがって、問題は、先行研究が指摘している通り、民衆がなぜ朝鮮人恐怖にとりつかれ、朝鮮人虐殺に及んだのかということ、つまり単に内務省・警察がデマを流布させマスコミがそれを煽っただけではなく、そのデマが民衆にとって真実だと受け止められた理由である。それは、既に先行研究が示しているように、天皇制国家による朝鮮への出兵・隷属化・植民地化、朝鮮人民に対する激しい収奪と朝鮮人蔑視と差別の強要、それに対する朝鮮人民による甲午農民戦争(1894年)、義兵蜂起(1907~10年)、伊藤博文射殺(1909年)、3.1独立運動(1919年)、等々の反抗が生じたこと、このような朝鮮人民の復讐を恐れる日本人民の潜在意識が、大震災という極度の不安定状況の中で爆発した暴走したのが真実ではあるまいか。

 

■ 姜徳相[カン・ドクサン]・山本すみ子 共編『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』 三一書房 2023年9月

 本書の「はじめに」は本書の意義を次のように記している。「『朝鮮人民虐殺の資料は、もう出尽くした』とよく聞く。また『朝鮮人虐殺の調査は絶対にやっているはずだ。だからその資料は、どこかにあるだろう』とも聞く。何とその資料が見つかったのだ。それも徹底的に隠蔽された横浜・神奈川の官憲による調査報告書である。この資料を発見したのは、朝鮮人虐殺の研究者第一人者、姜徳相先生である。100年近くの時を経て、資料が自ら先生の許にやってきたような不思議な感じがする」。姜徳相氏が発見した資料はつぎのとおりである。

① 鮮高秘収録第22号——震災に伴う朝鮮人並に支邦人に関する犯罪及び保護状況其他調査の件
 日本政府は今日に至るまで、横浜の朝鮮人虐殺の記録はゼロであるとしていたが、それが見事に覆されたのである。この資料によれば、事件は59件、殺人事件57件145人、傷害2件4人。もとより「逆殺数の多い所の記録がない」。多くの人達が目撃していた、中村橋の虐殺、交番前の虐殺、神奈川警察付近での逆殺、鉄道に沿って子安から神奈川の虐殺は余りのひどさで「筆にできない」と言われた虐殺、一番虐殺の多かった神奈川鉄橋の虐殺、等々。しかし、実態調査をしていたことは明らかだ、と本書は指摘している。

② 神奈川県知事から内務大臣、その他宛の報告(第12・9・3~9・7)
 横浜では虐殺はなかったこととされていたので、この資料は秘匿されていた。

③ 神奈川方面警備部隊法務部日誌(第12・9・3~10・30)
 この記録によって、軍隊内でも朝鮮人虐殺が行われたことが明らかとなった。

④ 神高秘発第55号——震災後の状況報告(続報)
 自警団の詳細な記録である。

⑤ 関東大震災時朝鮮人虐殺 横浜証言集
 この証言集の旧版(「関東大震災時の朝鮮人虐殺の事実を究明する会」)は2016年8月発行であるが、今回はその改訂版(「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川県実行委員会」メンバーの見直し作業)として収録された。

 旧版の前書きが(山本すみ子)が記す如く「証言は、時によって記録とおなじくらい、いやそれ以上に事実を伝える力がある」。既に東京における証言集は、西崎雅夫『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録』としてまとめられている。同書と同じく、本書に紹介されている証言によるその残虐ぶりは筆舌に尽くしがたい、という他はない。ごく少数例のみを以下に紹介する。

 「なぶり殺しにした朝鮮人の死体を川の桜並木の小枝につるす」(会社員)

 「何しろ天下晴れての人殺しですからねえ。川に飛び込んだ朝鮮人の頭めがけてトビが飛ぶ」(自営業)

 「巡査と自警団と囚人が一緒になって殺人」(「報知新聞」1923年10月17日)

 「寿署の警官が署内で朝鮮人を殺したのを実見した」(「横浜貿易新報」1924年6月25日付)

 「車坂では、刀で鮮人の首をはねて川へ投げ込む」(神奈川県立工業高校機械科3年)

 

■ 劉永昇Ryu Eisho『関東大震災朝鮮人虐殺を読む―流言蜚語(フエイク)が現実を覆うとき』亜紀書房 2023年9月

 本書の帯封には次のように記されている。「差別と排除のメカニズムを解き明かす」。著者は「人々を虐殺に駆り立てたのは、加害者自身が作り出した『イドの怪物』=〈不逞鮮人〉だとおもった。・・・実はこの怪物は人が潜在意識下に抱いた敵意が実態となって投影された存在であり、まさに〈不逞鮮人〉の幻影に重なるものだと思ったのだ」という。まさにこのイドの幻影と恐怖を人民に植えつけたのは、朝鮮を植民地化し徹底期に弾圧した天皇制政府に他ならなかったのである。(評者注:「イド」とは、「精神分析学において個人の無意識の中にひそむ本能的エネルギーの源泉を指し」(Chat Bing)、「イドの怪物」は、1956年に制作された米国のSF映画「禁断の惑星」に登場する「イドが生み出した怪物」で、かつて栄えた「禁断の惑星」を破滅させる。)

 本書は関東大震災における日本の文人たちの反応をはじめ様々な問題に言及しているが、評者は特に日本軍による「三・一独立運動と自警団」の節に注目した。「三・一独立運動と関東大震災を結びつける糸。それは自警団と在郷軍人会の存在である」。三・一独立運動が開始されるや、朝鮮派遣軍2個師団では鎮圧できないとして、在郷軍人と消防組員を中心に地域の民間人を加えた武装自警団が結成された。「三・一独立運動の鎮圧行為と関東大震災の残虐行為はほとんど見分けがつかないほどよく似ている。・・・消防団が鳶口をもって男女老若を問わず、人さえ見れば攻撃した(p.47~8)。さらに、朝鮮独立運動の拠点であった間島で現地の馬賊が朝鮮総督府の依頼により西間島で「不逞鮮人」を襲撃(1920年8月)した。その後、事件が重なり、原内閣は「居留民保護」と「不逞鮮人の禍根を一掃する」として間島出兵を閣議決定し(10月)、第19師団を派遣した。その結果、「17才以上の男子は全部殺害したという徹底した殲滅作戦だった。間島出兵による被害について中国政府が日本政府に対して、損害賠償を求めている。それによれば被害の全容は、死者3103名、捕縛者238名、強姦76名、家屋の放火2507件、学校の消失31校(姜徳相『一国史をこえて』)。

 先に紹介した関原正裕「関東第震災朝鮮人虐殺の真相」にも日本軍の間島出兵と関東大震災における朝鮮人虐殺の関連性が示唆されていたが、紛れもなく両者には密接な関係があったのである。

 本書には珍しい記録も収録されている。神奈川警備隊司令官だった奥平俊蔵陸軍中将(当時は少将)のそれである。彼は9月4日に着任したのであるが、市中に流されていた流言に疑問を持っていた。その自叙伝には次のような一節がある。「騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして、彼らは自ら悪事を為し、之を朝鮮人に転嫁し事毎に朝鮮人だと謂う。(中略)横浜に於いても朝鮮人が強盗強姦を為し、井戸に毒を投込み、放火其の他各種の悪事を為せしを耳にせるを以て、其筋の命もあり、旁々(カタガタ)之を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり。(中略)重大なる恐慌の原因と成りしものは不逞日本人の所為であると認めるのである」(p.122)。

 

■ 武藤秀太郎『中国・朝鮮人の関東大震災——共助・虐殺・独立運動』慶應義塾出版会 2023年8月

 本書は、関東大震災をテーマとした諸書と少し違った角度から、大震災の教訓をとらえようとする。テーマは大災害における国際的共助及び大震災における中国人・朝鮮人の虐殺被害、及び朝鮮独立運動の一環としての「義烈団」と関東大震災における流言蜚語との関連である。浅学の評者にとっては、未知の所見に満ちているので、少々長くはなるが敢えて紹介を試みることとする。

 東京「横網町公園」の一角に、毎年9月1日に関東大震災犠牲者を追悼の鐘が打ち鳴らされる「幽冥鐘」があるが、それを寄贈したのが、中国人・王一亭であり、彼は大震災に際して多大の援助を行なったのである。それは、中国における官民挙げての援助活動の象徴として位置づけられている。

 だが、同時に王希天の虐殺は、日本と中華民国政府との外交対立を生んだ。王希天虐殺の事実関係については、拙稿「関東大震災100周年」で紹介した通り、その下手人まで追い詰めた田原洋の『関東大震災と中国人——王希天事件を追跡する』において詳しいが、一方、本書は日中両政府間の交渉過程に焦点を絞って分析を行っている。

 王希天が失踪した噂が広まり、『読売新聞』(1923年11月7日(評者注:正力松太郎が社主になる以前)が、「王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明」と報じた。もとより、直ちに発禁処分となった。この日、日本政府は大島事件の「徹底的な隠蔽」を決定したのである。

 中華民国政府も調査団派遣(王正廷団長)を決定し、一行は12月6日に来日、日本政界のトップとの交渉にあたったが、真相は隠蔽されたままに終わった。国会でも永井柳太郎が政府に質問状を提出し、政府に真相を質す演説を行ったが、政府は従来の隠蔽方針を変えなかった。

 本書の圧巻は、これまでの関東大震関係の諸書とは異なって、「義烈団」と「大韓民国臨時政府」に焦点をあて、詳細な分析を行っている第3章である。

 周知のデマ本の代表格たる工藤美代子『関東大震災——朝鮮人虐殺の真実』では、「義烈団」が関東大震災に乗じて、帝都を襲い「まさにテロリスト集団による日本転覆の革命前夜を思わせるような状況」であったと描かれている。だが事実は、仮に「義烈団」が日本に居たとしても精々20名前後にすぎなかった、と武藤は分析し、彼は「義烈団」による「襲撃の証拠は全くない」としている。

 「義烈団」の名称は、「天下の正義の事実を猛烈に実行すること」に由来する。その団長は金元鳳(キム・ウオンボン)、その目的は、要路の大官の暗殺、朝鮮総督府、東洋拓殖会社、毎日申報社、時事新聞社等の建物を破壊し「朝鮮各道の民心を刺激し、之に依りて国家独立の目的を達せん」ことにあった。

 1920年頃から「義烈団の」の数件の破壊・殺人活動が始まったが、しかし、第一次暗殺・破壊計画はことごとく失敗した。かなり強力な爆弾を用意した第二次計画がばれて関係者は逮捕されたが、「義烈団」の活動を極度に恐れたのはほかならぬ日本政府であった。その裁判が1923年8月21日(関東大震災の前月)京城地方院で行われ、それが日本国内にも大々的に報道され、日本人の朝鮮人恐怖症や敵対感情を猛烈に煽った。武藤は「この義烈団に関する恐怖をあおる過剰な感情が、朝鮮人虐殺の引き金となる流言蜚語の大きな源の一つとなったのではないか」と指摘している。

 劉永昇に倣って言えば、まさに「人々を虐殺に駆り立てたのは、加害者自身が作り出した『イドの怪物』=〈不逞鮮人〉」であった。

 「義烈団」とは対照的に、平和裏に韓国の独立国家の目指したのが、「大韓民国臨時政府」である。「3・1独立運動」が開始された1919年、上海のフランス租界に大韓民国建国と臨時政府が樹立されたとする。フランス租界は日本政府の権限が及ばない地区であった。国務総理としてアメリカ在住の李承晩が選出されえたが、彼は国際連盟による「委任統治及び自治」を提唱したが、臨時政府内では意見がまとまらず、さらに極度の資金不足もあり、「大韓民国臨時政府」は実体を伴わなかったようである。関東大震災に際しては、臨時政府の機関紙である「独立新聞」(12月5日)は特派員の第一信として、東京・神奈川・埼玉・千葉・茨木・長野の各地に於ける被殺者総数を6661人と報じた。だが、「独立新聞」を含めて、臨時政府関係者の中では虐殺への関心は薄れ、臨時政府内では権力闘争が熾烈となり、関東大震災における「虐殺事件の調査自体は、朝鮮人留学生や宗教家およびそれを支援した日本人により行われた」。

 

■ 『歴史評論—特集/関東大震災研究の論点と課題2023』歴史科学協議会 2023年9月号

 本号では、朝鮮人虐殺事件について2論文を掲載している。

① 田中正敬「関東大震災100年」と朝鮮人虐殺研究
 本書は、著者による2004年までの朝鮮人虐殺研究史の続編をなすもので、それ以後の詳しい研究史が綴られている。その中で、二つの提言を行っている。その一つは、鄭栄桓が提言しているもので、「関東大虐殺」という呼称である。その理由は、この事件の本質は「関東大震災」という天災にあるのではなく、大震災下で発生した日本軍・警察・民衆の虐殺にある。それなば、この事件は「南京大虐殺」や「旅順逆殺事件」と同様に、と。また、関東大震災時の朝鮮人虐殺をジェノサイドとして位置付けるべきだ、ともしている。なお、このジェノサイド(民族抹殺)説は、国際法学者の前田朗氏も提唱するところである。

 著者は最後に、姜徳相氏の言葉を借りて、関東大震災における朝鮮人虐殺の研究は「時務の歴史」つまり「時の務め」であると結んでいる。

② 愼蒼宇「軍隊による朝鮮人虐殺―植民地戦争経験の蓄積という観点からー」

  1. 官憲犯罪・民衆犯罪と植民地戦争経験
  2. 著者は、姜徳相氏による「『戒厳令は朝鮮人に対する宣戦布告』であり、当時の臨時震災救護事務局警備部の中枢は、植民地戦争の第一線にいた日本帝国主義の尖兵である」との指摘を引用し、甲午農民戦争以来の一連の朝鮮人弾圧戦争の関係者が、実は関東大震災における朝鮮人虐殺の延長上にあることを指摘する。この見地は、また矢沢康祐氏が、自警団など民衆犯罪が軍隊などの権力犯罪とどう関わってきたかを、自警団の中心にいた在郷軍人会の朝鮮配属とシベリア戦争における民族独立運動への弾圧経験に先駆的に注目したこと、等と共通する。さらに、「関東大震災100周年」の第1稿でも紹介したのであるが、関原正裕が「日本の植民地戦争における兵士レベルの『不逞鮮人』「討伐」経験がどのように自警団による朝鮮人虐殺と結びついたかを事件現場の地域に即して明らかにしており、大変貴重である」と著者は指摘している。なお、付け加えれば、評者が上に紹介した劉詠昇も植民地戦争における日本軍の「討伐」と大震災時の朝鮮人大虐殺との共通性を指摘している。
  3. 陸軍首脳・関東戒厳令司令部・所属部隊司令官の植民地戦争経験の蓄積
     さて、本稿の特徴は、何よりも具体的人名を挙げ、彼らが朝鮮鎮圧戦争とどのように関わってきたのか、これを具体的指摘したことである。
     地震発生当時、陸軍首脳は次期陸軍大臣の選定会議を行っていた。参加者は、陸軍大臣山梨半造、次期陸軍大臣田中義一、参謀総長川合操、教育総監大庭二郎、軍事参議官(のち戒厳令指令官)福田雅太郎、軍事参議官内田経宇である。「彼らの多くが陸軍省あるいは参謀本部首脳として、特に三・一運動以降朝鮮人に対する軍事行動の判断の中心にいたことである」。そして、彼らが関わった朝鮮軍事支配の具体的事実が表として纏められている。その内、幾つかを例示すれば、甲午農民戦争=大庭、義兵戦争=町田、武断政治(評者注:朝鮮総督は全て陸海軍の大将で朝鮮人民に対する武力支配政治)=町田を除く5名、三.・一独立運動=田中・山梨・川合・福田、シベリア戦争時の間島虐殺=川合を除く5名。本文では、これら6名は、軍事指導部として重要な役割を果たしたことが詳細に明らかにされている。
  4. やむなく発砲」「正当防衛」こそ植民地戦争の理論
     著者は、植民地戦争の特徴を次ように指摘する。1.「植民地戦争が民族運動=暴徒と規定した軍事行動であり・・・そこでは『戦時』と『平時』が未分離で、とくに義兵戦争において、日本軍は韓国統監(朝鮮統監)の統帥権の下で、抗日運動の弾圧を平時編成で行い、憲兵・警察と連携して行動に従事した。三・一運動への対処も同じ」。2.「日本軍による『暴徒討伐』は『殲滅』と一般住民も巻き込んだ『連座』の論理が貫徹していた・・・甲午農民戦争の『ことごとく殺戮すべし』の大本営秘密命令・・・」等々。3.「植民地戦争では常に『やむなく発砲』『正当防衛』論による殺害の正当化」

最後に ―― 朝鮮人虐殺の責任を問うこと —―

 筆者は「関東大震災 朝鮮人は三度殺されてきた」と主張する。「一度目は関東大震災時の虐殺そのもの、二度目は事後処理における国家権力による隠蔽、三度目は今も日本政府による公式謝罪・補償・真相究明・責任者処罰がなく歴史改竄が広く浸透していることである」。

 日本政府はもとより、日本国民もまた、このことの重要な意味を改めて嚙み締めなければならない、というのが評者の深い思いである。

 

■ 『現代思想』—総特集 関東大震災100年— 青土社 2023年8月

 本書には多数の論説が収録されているが、とりあえず喫緊の問題が提起されている巻頭の討論「飯山由紀・朴沙羅「虐殺の歴史の延長線に立つ」のみを取り上げたい。

司会者 ——「関東大震災から100年の節目を翌年に控えた二〇二二年、飯山さんの映像作品《In-Mates》の東京都人権プラザにおける上映企画が、東京都人権部により、中止判断を受ける事件がありました。その理由の一つに、作中で言及され関東大震災後の虐殺に関する『歴史認識』の問題が含まれていたことは、虐殺の歴史に対する意図的な忘却がますます進む現在の危機的状況を象徴しているようにおもわれます」。

飯山 ——「人権プラザを運営する東京都人権啓発センターが事業計画を都の人権部に提出したところ、ものすごい内容のメールが来た。作中で歴史学者の外村大さんが『日本人の庶民』が『無実の朝鮮人を相当殺してしまったのは間違いないこと』だと述べたシーンについて、人権部は、朝鮮人犠牲者の追悼式典に小池百合子都知事が追悼文を送っていないことを示したうえで『懸念』を示したのである」。

 人権部にとって、小池百合子が真理の基準であって、今日ではヘイトスピーカーたちだけに通用する歴史的修正を持ち出して、人権部は歴史の真理を平気で否定してやまないのである。人権部は検閲部と名称を変えるべきであろう。

飯山 —— (何回かの人権部との交渉の末)「改めて示された中止理由がまた非常に酷いもので、相手が読み上げていた書面を最近ようやく情報開示請求の手続き通じてみることができたので引用しますと『使用する映像作品中に、朝鮮人は抹殺だ』及び『朝鮮人は一人残らずぶっ殺してやる』という表現がある』・・・要するにそうした表現がヘイトスピーチにあたるというのです・・・何よりも文脈を無視することが罷り通ったら、被害を訴える言葉も『ヘイトスピーチ』だと封ずることができてしまうのではないでしょうか」。

 全く、人権部の態度は本末転倒の詭弁である。映像はこれを糾弾する文脈で使っているにも拘らず、あたかもこれを肯定している、と人権部は敢えて曲解しているのだ。一方、東京都は、2019年に朝鮮人虐殺を否定する「日本女性の会 そよかぜ」の横網町公園での集会発言をヘイトスピーチと認定しながら、しかし、「そよかぜ」の横網町集会を毎年許可しているのである。

朴 ——「この件について、『ある言動がヘイトスピーチにあたるかどうかを決めるのは誰か』という問題でした。・・・間違ったヘイトスピーチ理解に基づいて、経緯や根拠が分からないうちに、行政の判断で作品の中の言動が『ヘイトスピーチにあたる』『人権そのものに抵触する』と決められてしまう恐れがあります」。

飯山 ——「人権部が示したもう一つの懸念として『在日朝鮮人は日本で生きづらいという面が強調されており、それが歴史観、民族の問題、日本の問題、などと連想してしまうところがあります。参加者がこういう点について嫌悪感を抱かないような配慮が必要』というのもあるんですね。ふつうに読めば、これはマイノリティの生きにくさ、しんどさを伝えることは大多数の『日本人』に嫌悪感をもたらすという直球の差別なのです・・・人権政策にかかわる部局の人間がそういうことを平気で言ってしまうわけです・・・国連からもずっと勧告されつづけているように、独立した国内人権機関の設置がいかに切羽つまった課題であるかを、私自身が現場で直面して改めて深く思い知ったところがあります」。

 飯山さんらは2023年、作品の上映などを求める要望書を、30,138筆のオンライン署名を添えて東京都人権部に提出した。

 近年、日本帝国主義の朝鮮植民地支配を告発する様々な企画に対して、極右排外集団と歩調をあわせた権力の側の検閲・思想表現の自由への侵害事件が続発している。評者が知るだけでも、次の諸例がある。

  • 2017年4月、群馬県近代美術館の展覧会で、「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」を館の命令で撤去。国際美術家評論家同盟の日本支部である美術家評論家同盟は群馬県知事・群馬近代美術館館長宛に抗議声明を提出。
  • 2019年8月、愛知県で開催された「あいちトリエンナーレ2019」での企画展「表現の不自由展・その後」で展示された、戦時中の日本軍「慰安婦」=性奴隷を象徴する少女像への右翼の抗議が殺到し、展示会は閉幕。
  • 「あいちトリエンナーレ2019」の大阪版である「表現の自由展かんさい」が2021年7月に開催される計画であったが、会場の「エルおおさか」(大阪府管理)が、右翼の街宣車による猛烈な抗議などに怯えて6月に開催許可を撤回した。しかし、主催者側の即時抗告によって大阪地裁は、表現の自由を制限できるのは「公共の安全に対する明白かつ現在の危機があるといえる場合に限られる」として不許可の取り消しを命じ、大阪展は開催。
  • 東京では、「あいちトリエンナーレ2019」の東京版として「表現の不自由展 東京2022年」が2022年4月、国立市の「くにたち市民芸術ホール」で開催。なお、同展は2021年6月に開催予定であったが、右翼の抗議活動が相次いだため延期となっていたのである。

 

■『福田村事件—関東大震災知られざる悲劇』五月書房 2023年7月

 評者の「関東大震災100年」の第1稿の脱稿後、同書が発行された。評者の第一稿は同書の旧版(崙書房発行)を用いたので、新版の特徴をかいつまんで紹介しておきたい。旧版は新書版で161ページ、新版は四六版の268ページで大幅増補となっている。増補内容は映画「福田村事件」の森達也監督の寄稿文や、事件に関する当時の新聞記事の多数の写真コピー、関東大震災の直後に千葉県で発生した朝鮮人や日本人の虐殺事件の表、「朝鮮人識別に関する件」(内務省警保局、1913年。庁府県長宛、秘密文書)、福田村事件で生き残こられた藤田喜之助さん(仮名)のカタカナで綴られた綿々たる手記、福田村事件関係「野田市史」、等々であり、これらは事件当時の雰囲気を生々しく伝えている。

 また、著者は福田村事件の後、少年を保護した警察官の名前は篠田巡査ではないかとしていたが、その後、福田村事件追悼慰霊碑保存会によって、松戸署野田分署の「吉田栄太郎さん」だということがわかった、と訂正している。この事実に基づいて、著者は吉田巡査が福田村の集団からは”独り“であり、吉田村の”集団の狂気“や”同調圧力“から免れていたからではないかと推測している。現在のわれわれも果たして”同調圧力”から逃れているかと自問し、この意味で、「福田村事件は”今も続いている“事件かも知れない」、との危惧を表明している。

 

■ 朝鮮大学校朝鮮問題研究センター・在日朝鮮人関係資料室編『Q&A 関東大震災100年 朝鮮人虐殺問題を考える』フォーラム平和・人権・環境 発行、八月書館発売 2023年9月

 本書は、関東大震災における朝鮮人虐殺は今なお形を変えて存在し続けているとの視点から、関東大震災における朝鮮人大逆殺の実態とその歴史的原因を解明しようとするものである。全部で79ページに過ぎない小冊子ではあるが、Q&Aという形で極めて分かりやすく説明しており、事件を知る上で格好のハンドブックと言える。項目は次のとおりである。はじめに—関東大震災朝鮮人虐殺から100年目の年に・歴史的背景・虐殺の発生とその責任・犠牲者と生存者・今日まで続く虐殺の隠蔽・犠牲者の追悼・課題—今、何が求められているのか。

 「今なお形を変えて存在し続けている」との実態は何か。評者を含めて、たぶん多くの日本人はそのごく一部しか知らない。在日コリアンたちの深い懸念・恐れを理解するためには、在日コリアンに対する絶え間ない迫害のその一端だけでも是非知らなければならないのだ。本書の「はじめに」は次のような諸例が示されている。

 一番最近では、朝鮮学校の無償化停止・補助金除外、新型コロナの際の埼玉朝鮮幼稚園へのマスク配布除外(「転売する恐れがあるから」つまり市職員の「朝鮮人は犯罪者」という偏見)、同幼稚園への相次いだ脅迫メールや電話「もらったらただでは済まされない」等々。振り返れば、石原東京都知事の第三国人発言(2000年)、京都朝鮮第1初級学校への在特会への襲撃事件(2009年)、在特会の新大久保駅でのデモ(2013年)でのプラカード「良い韓国人も悪い韓国人もみな殺せ」、「南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺をしますよ!」(中学生の暴言)、右翼による朝鮮総聨中央本部銃撃事件(2018年)、川崎ふれあい会館宛年賀状「在日韓国人朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら残酷に殺して行こう」(2020年)、民団愛知県本部・名古屋韓国学校放火事件・ウトロ放火事件(2021年)、コリア国際学園放火事件(2022年)・JR赤羽駅の横断幕「朝鮮人コロス会」(2022年)、等々。

 このような諸事件を背景にして、日本政府は漸く思い腰を挙げて『本邦出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(略称「ヘイトスピーチ解消法」)を制定した(2016年6月)。しかし、この法律には刑事罰はない。その意味では、この法律の実効性は極めて希薄である。はじめて、「川崎市差別のない人権尊重の街づくり条例」が初めて刑事罰を導入した(2019年)。

 この他、刑事罰を伴わない条例は、大阪市(2016年)東京都(2018年)等の条例があり、「川崎市条例」の後も、自治体条例制定されたが、上記の諸事件を見る限りその実効性は乏しいといえる。

 本書は今後の課題として「何が求められるか」と問い、国際法学者・前田朗の次のような主張を紹介している。関東大震災の朝鮮人虐殺は「国民、民族、種族又は宗教集団の全部または一部を破壊する行為であり」(「ジェノサイド条約第2条」1951年発効)、また流言を公認し下部へ伝達した政府の行為は「直接かつ公然たる教唆」(条約第3条)に該当する。したがって、本書は関東大震災での朝鮮人虐殺をジェノサイドであると位置づけた。

 周知の通り、今日でもなおナチス・ドイツの関係者の拘束・裁判が続いているように、「人道に対する罪」である犯罪=ジェノサイドには時効はない。だが、日本政府は未だ同条約を批准していない。2022年段階で、同条約未批准国は40カ国(国連加盟国の20.7%)である。日本はまさに、ジェノサイドを事実上、容認する不名誉極まりない代表国と言わなければならないのだ。

 

追記

 本稿で紹介した松尾尊兊論文、江馬修「血の九月」、「関東大震災と在郷軍人会」をはじめ今日では入手が極めて困難な多数の貴重な論文・資料については、倉島伝治氏(大阪唯物論研究会会員)からのご提供を受けた。これらの全てを紹介することはできなかったが、本稿を仕上げるうえで参考にさせていただいた。改めて紙面を借りてお礼申し上げる次第である。(2023年10月7日)。

 

唯物論的歴史観