検察官の定年延長法案を廃案に

政権の検察私物化を企図する
検察官の定年延長法案を廃案に
―― 安倍首相は責任を取り即刻辞任せよ ――

                                                                                                                           岩 本 勲

 検察は、まぎれもなく人民抑圧機関である。支配階級の利益を代弁し、人民を拘留して起訴し、有罪に導くことによってその「罪」を罰し、人民をして支配に服従せしめる支配機構の中心的一角を占めている。それと同時に、支配階級内部の対立の中で、時として総理大臣や大企業の役員をも起訴することがあり(近年はそのようなことは稀有となったが)、支配階級の諸個人や諸グループは、検察幹部との関係構築にこれ努めてきた。中でも安倍晋三首相は、検察幹部との関係構築に並々ならぬ力を注ぎ、遂に検察私物化の制度構築にまで乗り出した。検察官定年延長法案がまさにそれである。従って、この定年延長法案は絶対に廃案に追い込まなければならない。
 ところで、この内閣による検察の私物化に対して、コロナ事態にもかかわらず、従来の枠組みを大きく超える反対世論が盛り上がっている。「検察の独立性を守れ!」という声がうねりとなって安倍内閣を包囲し追い詰めつつある。だがマルクス主義者は、この「検察の独立性を守れ!」というスローガンを唱和することはできない。このことを踏まえた上で、マルクス主義者はこの問題にどういう見地に立って闘うべきか。以下、事態の経過を振り返りながら、検察官定年延長問題についての私見を述べることにする。

                          2020年5月28日

f:id:materialismus:20200531073505p:plain 

 

 

【1】国家諸機関に対する人民の統制。誰が誰を統制するのか?
 もとより、検察機構は権力の中枢に位置付けられる国家機関であり、支配階級が被支配階級を抑圧するための機関である。資本主義社会にあっては、資本家階級が人民を抑圧・支配するための機関であり、社会主義社会にあっては、労働者階級を指導的階級とする人民が資本家階級を抑圧・支配するための機関である。
 この意味で、国家機構全体は、またその中枢の一角を占める検察機構は、階級から「独立」ではあり得ない。検察庁幹部の定年延長問題は、検察機構の、さらには国家機構全体の階級的本質について、またそれらに対する人民の統制について、改めて考える機会を提供している。
 今回の検察官定年延長法案を巡っては、「安倍内閣が検察を私物化しようとしている」として、従来の反安倍の枠組みを大きく超え出た反対運動が急速に盛り上った。それは支配階級中枢の一部をも巻き込んでいる。元検事総長らの「反乱」は、そのことの査証であり、彼らの動きは、検察庁現役の一定のグループとの連携プレーであると見做して良い。ことほど左様に、検察官定年延長法案は、戦後の支配制度の枠組みを大きく揺るがすものであり、既存の支配体制内部で激化しつつあった軋轢を噴出させる沸騰石の役割を担ったのである。
 周知の通り安倍内閣は、憲法は言うに及ばす、諸法律を如何様にも恣意的に解釈し、法律よりも内閣の意志を優位に置き、「法治」を否定する統治スタイルを取り続けてきた。集団的自衛権の問題然り、森友・加計学園問題、「桜を見る会」問題においても、法よりも閣議決定を優先させる手法で強引に押し切ってきた。「法治」もまた人民の支配形態ではあるが、安倍内閣の統治形態は、「法治」を乗り越えた「官邸独裁」である。
 今、政治の場で争われているのは、資本主義体制そのものの是非ではない。資本家階級の支配を前提としながらも、「法治」なのか、それとも「官邸独裁」なのかが争われている。それは資本家階級の2つの支配形態を巡る争いである。だがこの争いは、人民にとってどうでも良い問題ではない。言うまでもなく、「法治」か「官邸独裁」かの違いは、人民の諸利益と密接に関係している。人民は、「官邸独裁」を阻止しなければならない。「官邸独裁」は、「法治」よりも一層人民の諸権利を制限し、より直接的な抑圧(労働争議への警察・検察の介入等)を強化するからである。
 ところで、「検察の独立性を守れ!」という声に対して、「検察は強大な権力であり、その独走を許してはならない。『検察の独立性を守れ!』という主張には危うさが伴う。」との声は、民主主義陣営の一部からだけでなく、支配階級の一部からも聞こえてくる。検察によって監獄に送り込まれた経験を持つ堀江貴文氏などがその代表格だ。
他方で、支配階級の他の一角からは、検察の「独立性」に対する別の疑問が提起されている。日本維新の会副代表でもある吉村洋文大阪府知事は、その代表格であろう。民主主義社会では、国家諸機関は国民に選ばれた内閣の統制に服さなければならない。検察庁も行政諸機関の1つであり、その最高幹部の人事権は内閣に属すべきものであるという主張だ。吉村氏の主張には、窮地に立つ安倍内閣を側面援助するという政治目的が透けて見えるが、「行政職員は首長の命令に従って当然」という価値観が深く根差していると見ることができる。
 だが理論的問題として、行政諸機関の上級幹部の人事権を内閣が持つことの是非については、明確にして置かなければならない。検察庁に対する統制は重要である。しかしその問題の核心は、誰が誰を統制するのかという点にある。資本家階級が権力を掌握している場合は、検察が全体として資本家階級の統制下にあることは最初に述べた。その中にあっても、人民が検察を監視し、その階級的抑圧を多少とも抑制することは必要でもあり可能でもある。階級的利害関係を押し隠した上で、「選挙で選ばれない役人に対して、選挙で『選ばれた』首相や自治体首長がその人事権を掌握するのが民主主義のルールだ」と主張する吉村知事のような見解の階級的本質を明らかにすることは極めて重要であり、その任務はマルクス主義者が果たさなければならない。従って、「誰が統制するのか」の問題、つまり検察に対する人民の監視・規制については、後にやや立ち入って言及する。
 いずれにしても、検察官定年延長法案反対のうねりは、黒川検事長の賭けマージャンという喜劇的一幕も付け加わって、黒川検事総長の実現という安倍首相の野望を葬り去った。後は、安倍首相の退陣と彼の諸犯罪に対する断罪が残った。ここでの後始末をきっちりと付けられないようでは、問題の再発は不可避であろう。
 再三述べているように、国家諸機関を人民の統制下に置くためには、労働者階級を指導的勢力とする人民が国家権力を掌握しなければならない。社会主義革命の成功抜きにはそれを実現することができない。ただ当分の間、わが国の現実政治において、また先進資本主義諸国において、社会主義革命が政治日程に昇ることはないであろう。それでもマルクス主義者は、この真実を粘り強く主張し続けなければならない。マルクス主義者は、現実世界の改良のための闘いに積極的に参加すると共に、未来のために、社会主義のために闘うからである。
 わが国の政治において、「法治」か「官邸独裁」か、という対立軸がいつまで続くかを予想することはできない。最大野党の党名が“立憲”民主党であるということのうちに、今の日本の政治状況が反映されている。直近の世論操作の動向を見れば、支配階級は、日本維新の会を支配政党として育て上げようとしているようにも見える。
最後に、社会主義社会における国家権力の人民統制について、簡単に私見を述べて置く。かつてのマルク主主義陣営では、国家権力と人民の統制は、労働者階級を指導的勢力とする人民が国家権力を掌握することによって解決すると考えられてきた。だがレーニンは、社会主義国家も抑圧機関であること、従ってこの国家機構を人民の統制下に置くためには、旧来型の国家を破壊して新しい国家を、否、国家の死滅への道を歩み始める「半国家」を樹立しなければならないことを強調した。その彼は、死の床にあっても、国家が人民から遊離して官僚が権力を恣意的に行使する傾向と死力を尽くして闘ったのであった。
 周知の通り、レーニン亡き後、ソ連の権力のトップに立ったスターリンは、このレーニンの思想を彼の遺体と共に廟の中に葬り去ったのであった。スターリンは、「半国家」としてのソヴェトを再び国家に再構築し、人民からの国家の遊離を推し進めた。その結果として生じた「大粛清」は、社会主義の理想とマルクス・レーニン主義の名誉を大きく棄損し、ソ連における社会主義建設事業と世界革命事業に多大な損害をもたらした。20世紀末のソ連と一連の社会主義国の崩壊は、社会主義国家のありかたをマルクス主義者に深刻に問い直させることとなった。そのような状況下で、世界の共産党・労働者党において党員の大量離党が生じ、甚だしい場合は党全体がマルクス・レーニン主義を放棄して社会民主主義政党に変容した。日本共産党もそのような党であり、その党名に「共産党」の名前を残しているけれども、その実態は完全な社会民主主義政党である。
 21世紀の社会主義は、20世紀に存在したソ連を中心とする社会主義をそのまま復活する形では実現し得ない。ソ連の経験を徹底的に研究し、その最良の成果を継承しながらも、その否定的側面を自己批判的に掘り下げ、新しい社会主義像を創り出すこと無しには実現不可能である。別けても、社会主義「半国家」に対する人民の統制を如何にして制度的に保障するかは、最重要問題の1つである。パリ・コンミューン型の国家も、ソヴェト型の国家も、いわゆる「三権分立」ではなかった。パリ・コンミューン執行委員会は、単に行政権だけでなく、立法権と司法権をも掌握する機関となった。それは旧国家警察と旧国民軍の解体を宣言し、全人民による武装を企図した。ロシア社会主義革命におけるソヴェトもまた、行政権と立法権と司法権を併せ持った国家機関となった。ソヴェトは、帝政ロシアの軍隊に代えて赤衛軍を組織し、旧国家警察を解体した。
社会主義革命の過程において、人民が国家権力の一部しか掌握できていない期間が一定以上続くと、残る国家諸機関を掌握している旧支配階級が、そこを拠点として反革命を推し進め、それに成功する例は歴史上であまた目撃され得るし、今日の社会主義志向諸国において、われわれの眼前で展開されている事柄でもある。従って、社会主義革命は、その端緒において、国家権力の一部の掌握から始まったとしても、速やかに行政権、立法権、司法権の三権を掌握しなければならないし、取り分け暴力装置である軍隊と警察を管理下に置くことに成功する必要がある。
 しかし筆者は、このことから「社会主義社会において三権分立はありえない。」という結論が導かれるとは考えていない。本来、階級そのものの廃絶を目指す社会主義社会は、その本質において自身を廃棄するという目的を持つ「半国家」である。地球規模において、資本主義と社会主義が共存する条件の下では、また国内の資本家階級の残党や小ブルジョアジーの反革命的諸行動を抑え込み、あるいは未成熟な社会主義的市民社会における犯罪を取り締まるために、暴力装置を含む抑圧機関の存続は避けがたい。だとするなら、その抑圧装置を含む国家諸機関が人民から遊離したり、特定のグループによって恣意的に運用されるのを抑制したりする仕組みを、社会主義国家は完備していなければならない。この点において最も重要なことは、すでにパリ・コンミューンで試され、マルクスとエンゲルスが強調し、レーニンがソヴェトにおいて実践しようとしたこと、即ち、①公務員の給与水準を労働者の平均的給与に近づけること、②高位の公務員を含む役付公務員のリコール制の全面的導入である。これに加えて、分化し複雑化した国家機構を効率的に運用し、かつチェック・アンド・バランスを図るためには、社会主義社会における三権分立も十分あり得る選択肢である。
 20世紀に実在した社会主義諸国においても、国家諸機関の分業が行われていたが、国家諸機関の指導部は共産党・労働者党の党員であり、党の決定によって諸機関の一体性を担保していた。しかしこの方法は、党と国家諸機関の癒着・融合を生み出し、党と国家諸機関の正常な関係を損ない、党にも国家にも否定的結果をもたらした。取り分け社会発展が、諸個人の自発性と諸機関の柔軟性を要請する社会主義のより発展した段階では、このことが経済成長の鈍化に大きく作用した。科学的な中央社会発展計画は、社会主義経済の根幹に位置付けられるものであり、これは21世紀の社会主義においても変わることはない。ただ、この中央社会発展計画は、中央官庁のエリートたちによるものであってはならないし、そもそもそのような社会発展計画は、現実の社会発展段階が要請しているものと大きく異ならざるをえない。発達した社会主義社会では、勤労人民の自発性と創意、諸要求を汲み上げた中央社会発展計画でなければならないし、その実践においても、役割と権限を分散しつつ、それらを有機的に結び付ける中央計画でなければならないであろう。
 以上のような人民による国家諸機関の統制という一般的見解を踏まえた上で、現在進行形である検察官定年延長問題を、経過を追って検討する。いささか詳細に論ずることになるが、検察機構というものが裁判官ほどではないけれども、一般行政職とは異なる性格を付与されているためであり、この点は一般には十分に理解されていないからである。

 

【2】無理に無理を重ねた検察人事、火事場泥棒を狙った安倍首相は大火傷
 安倍首相は、コロナ禍のどさくさに紛れて、火事場泥棒的に検察庁法を改訂しようとした。これは、お気に入りの黒川弘務検事長の違法な定年延長を含めて、政権による検察人事の私物化を図ろうとする以外の何物でもない。このような異常極まりない手法を用いて黒川検事総長実現を図ろうとしたのは何故か。安倍首相が、森友、加計、「桜を見る会」等々にみられる不正・違法行為を刑事告発されることなく乗り切ってこられたのも、黒川検事長の力に依るところ大であったと言われている。しかし黒川氏は今年2月に定年を迎え、検察庁を去ることになっていた。自らの長期政権が終わりに近づくにつれ、引退後に刑事訴追されるのではないかという不安が、安倍首相の脳裏で拡大して行ったからであろう。だが、安倍首相は5月18日、世論の猛反発と検察OBらの手痛い反撃を食らい、今国会での審議を中止し、次国会以後に先延ばしすることを余儀なくされた。
 コロナ対策を巡って安倍内閣は迷走を続け、一旦閣議決定した制限30万円給付を一律10万円給付に切り替えるなど、これまでに見られない混乱ぶりを呈してきたが、今回の検察官定年延長法案の挫折は、安倍内閣の極めて重大な敗北となった。世論調査でも内閣支持率が33%に急落した(「朝日新聞」2020.5.18)。これは森友事件における内閣支持率32%に次ぐ低支持率であった。もはや、次国会審議での審議を阻止するだけではなく、今や安倍内閣に最後のとどめを刺す時である。
 一方多くのマスコミと諸野党は、「司法権の独立を守れ」という論調に終始し、検察の本質が警察と並んで人民統治の暴力機関であることを忘れ去ったかのようである。検察の人民弾圧の本質は公安事件で極めて顕著である。例えば、「立川反戦ビラ事件」(2003年)や「葛飾政党ビラ事件」(2004年)の場合、警察と公安検事とが、罠を仕掛けて反戦運動を弾圧した。しかし、単なる刑事事件の場合でも、村木厚子・厚労省局長が、大阪地検の特捜部に逮捕され(2009年)、担当検察が証拠捏造を行い、その冤罪のため半年近く拘留されたことは、未だ記憶に新しい。多くの刑事事件でも検察・警察は証拠を偽造して冤罪を作りだしてきた。その典型の狭山事件(1963)であった。従って、内閣の不法とでたらめさを批判するあまり、他方の検察をあたかも人民の味方の国家機関であるかのように、これにエールを送ってはならないのである。

① 政府、検察の本質を暴露する絶好の機会
 上述したように、マルクス主義国家論の見地に立てば、ブルジョア民主主義はブルジョア独裁の一形態であり、従って労働者階級を指導的勢力とする人民は、人民抑圧機関であるすべての古い国家機関(政府、官僚制、議会、軍隊、検察、裁判所、警察、等)を解体し、過渡的国家としての社会主義国家=プロレタリア民主主義=プロレタリア独裁の樹立を目指さなければならない。だが、今日のブルジョア民主主義の階級独裁の本質と欺瞞性が、プロレタリアートをはじめ人民一般にすぐさま理解されるわけではない。人民は現実の様々な歴史的経験を何度も積み重ね、しかも、その都度、共産主義者が正確で適切な暴露活動を行った場合にのみ、その階級性と欺瞞を初めて理解し得るのである。この見地にたてば、今回の事態はブルジョア国家機関の階級性とその不法性・デタラメさを暴露する絶好の機会となっている。

② 現時点での政治的対立軸は、「法治」対「官邸独裁
 特定の具体的政治情勢における対立軸は、労働者階級と資本家階級の間の力関係だけで決定される分けではない。労働者階級と資本家階級の力関係以外に、支配階級内部の矛盾、広範な中間層の動向等々の諸力の合力として、その時々の政治的対立軸が浮上する。その対立軸を巡る階級闘争に、共産主義者は積極的に参加しなければならない。そのことを通じてのみ、人民大衆に資本主義支配体制の本質を理解させ、共産主義者の見解に耳を傾けさせることができるからである。個々の階級闘争の局面では、ブルジョア民主主義の欺瞞性の暴露とともに、ブルジョア民主主義が掲げる合法性をも最大限活用しなければならないし、ブルジョア民主主義が保障すべき基本的人権の侵害に対しては全力を挙げて闘わなければならない。ブルジョア民主主義をも否定するファシズムとの闘いでは、ブルジョア民主主義勢力と共闘する必用もある。だが、これはあくまで限定的、条件的な共闘であり、本来のブルジョア権力打倒の任務に従属するものである。わが国における政治情勢の現局面は、「内閣独裁」を阻止し、安倍内閣を打倒することであるが、共産主義者はその闘いに積極的に加わると同時に、その流れに埋没することなく、独自の主張を展開しなければならない。

③「強行採決」を狙った安倍政権
 衆議院本会議で4月16日、検察官の定年を65歳に引き上げる検察庁法改定審議に入った。改定案によれば、一方で63歳以上の検察官は高等検察庁・検事長や地方検察庁・検事正になれないと規定するが、他方で、内閣の判断によって年齢を超えても特例的にポストに留まれるようにしている。まさに、内閣の恣意的な政治的判断によって検察官の人事に介入するという、安倍政権による検察の私物化に他ならない。
 続いて5月8日、野党の反対を押し切って、委員長の職権開催によって内閣委員会が、自民・公明・維新の3党の出席のもと強行開催された。安倍内閣はコロナ禍のどさくさに紛れて、火事場泥棒的に「検察庁法改正法案」を翌週中に強行採決しようとした。
 一方野党は、これを審議する衆議院内閣委員会に森雅子法相の出席を求めたが、安倍内閣はこれを拒否し武田良太・国家公務員制度担当相に担当させることとした。検察庁法改定を法務委員会で行わず内閣委員会で行うのは、本来全く筋違いであるが、他の公務員定年延長法案と一括審議するためと称している。だが本音は、法務委員会の審議となれば森法相の出席を拒否することができないからだ。森法相は後述のように、何も理解していないので何を言い出すやら分からないのである。野党統一会派と共産党はこれに抗議して委員会を欠席したのだ。
 政府はネット上の余りに多い抗議に驚き、委員会を再開するために森法相の委員会出席に同意せざるをえなかった。森法相は案の定、検察官の定年延長を認める基準は何かと問われ、答えることはできなかった。しかも、森法相は定年延長の必用理由として、金塊密輸など、全く関係のない10件の事件を列挙し、相変わらずの迷走ぶりを発揮した。政府は、5月第3週目にも強行採決を行うつもりであったが、ネットの抗議にひるんだのと、野党が武田担当相解任決議を提出したので、それは不可能となった。

④ 検察庁法改定に抗議、ツイッターで600万~700万
「検察庁法改正法案に抗議します」という投稿が5月8日以降に相次ぎ、そのリツイートを含めて一晩で470万件を超えた。「もうこれ以上、保身のために都合よく法律も政治も捻じ曲げないでください。この国を壊さないでください」(俳優・井浦新さんの10日の投稿)には2万件以上リツイートされた。深夜にこれほどの投稿が伸びることは珍しいことだ、とのことである。
 弁護士たちの反対の声も強まった。「法の支配の危機を憂うる弁護士会」は先月22日から、この法改定が「政府が恒常的に検察官人事に介入できる仕組みを制度化するに等しく、到底看過できない」とネット上で反対をアピールし、日本弁護士連合会の会長や副会長経験者を含めて1600以上の団体やグループが賛同を表明した。荒中(あら・ただし)・日弁連会長は先月6日、「内閣や法相の裁量で人事への介入が可能になる。検察官の政治的中立性や独立性が脅かされる危険があまりにも大きい」との声明を出した。全国の弁護士会でも反対声明が相次いでいる(「朝日新聞」2020.5.11)。さらに、日弁連の大川哲也・副会長は5月11日、記者会見を行い政府の検察官人事介入に強く抗議するとともに、日弁連は、荒中会長の名で再び抗議声明を発表した。二度にわたる抗議声明発表は異例のことである。

⑤ 安倍首相、「官邸の守護神」黒川弘務検事長の定年延長を強行
(i) 検察庁法違反、黒川検事長の定年延長
事件の始まりは、安倍内閣が1月31日、国家公務員法の定年延長規定に従ったとして、検察庁法改定の以前に、黒川広務東京高等検察庁検事長の定年(2月7日)の半年延長(8月7日)を決定したことにある。これは、「内閣の守護神」といわれた黒川検事長を検事総長にするための工作であった。検察官の定年延長は、検察庁法制定以来これが最初である。検察庁法の定年規定では(第22条)、検事総長は65歳、検事長は63歳と定められ、延長規定はない。
 一方、国家公務員法(第81条三)では、国家公務員の定年延長(1年、最大限3年)の規定があるが、人事院任用局長は1981年の国会答弁で、国家公務員法の定年制は検察官には適用されない旨を明言していた。これは、内閣法制局文書としても残されている。
 検察庁法が定年制を国家公務員法とは別に定めているのは、検察官は法務省つまり行政機関に属する国家公務員ではあるが、その職務は司法職務であり、その身分制度は裁判官に準ずべき独立性、つまり行政府の人事介入等を防ぐことを保障すべきだからだ、とされている。もっとわかりやすく言えば、検察官が政府や大資本の犯罪容疑をも捜査・起訴ができる権限を行使し得るように、検察官の準司法官的独立性が認められているのである。もっとも近年は、森友事件に典型的に示されたように検察はその中立の建前を侵して安倍首相の顔色を窺い、権力犯罪である公文書改竄・隠匿を敢えて見逃し、職務放棄に陥っているのは周知のとおりである。当時の法務事務次官が黒川氏であった。
(ⅱ) 裁判官と検察官の身分保障
裁判官と準司法官たるべき検察官とは、司法権独立の建前上、それぞれに応じた形で、その身分の保障がなされている。
 裁判官の身分保障は憲法によって定められている。裁判官は、心身の故障によって職務不可能な場合を除いて、国会の弾劾裁判によるのでなければ罷免されないし、行政機関が罷免を行うことはできない(憲法第78条)。国民審査によって裁判官を罷免することはできるが、ただし、国民審査自体はまやかしで、罷免を可とする票数が多数でなければ、罷免されない(同条③)。これまで、これによって罷免されたな裁判官はいない。しかし、これもまた無いよりは有った方が良い。人民が自覚的に振舞えば、国民審査権を用いて最高裁裁判官を罷免することができるからである。
 なお、当然ではあるが、裁判官の任免や定年などについても、国家公務員法とは別の裁判所法によって定められている。裁判官の定年は最高裁裁判官70歳、下級裁判所(高裁、地裁、家裁)裁判官65歳、簡易裁判所裁判官70歳である(裁判所法第50条)。これが破られたことはない。
 このような、裁判官の「独立性」が保障されるべきなのは、司法は時の政府から独立・中立で憲法・法律と社会正義を守るため、とされている。日本国憲法にも、「すべての裁判官はその良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」と明記されている(第76条③)。
 検察官の独立性は、憲法に明記されているわけではないが、準司法官としての検察官にも裁判官に準じてその身分が保障されるべきだとされている。そのため、検察官の罷免についても国家公務員法とは別個の厳重な規定がある。検事総長から副検事に至るまで、その罷免は「検察官適格審査会」(構成:国会議員、裁判官、弁護士、日本学士院会員、学識経験者の中から選任)の議決を経ならなければならない(検察庁法第23条)。

(ⅲ) 三権分立制の歴史的経緯
 三権分立制は、ブルジョア民主主義の根本的制度の一つとされている。だが、これを民主主義の原理として金科玉条としてはならない。権力分立制の思想的淵源とされるモンテスキューの権力分立論は、絶対主義王政の下で、国王の絶対主義権力から貴族と市民(第三身分)=ブルジョア階級の権利を守るために、執行権は国王に、裁判権は貴族に、議会=三部会への参加権は市民にも与えるという、身分制度を前提とし、自由主義貴族の特権を守る原理であった。それは、人民の支配という意味での民主主義とはいかなる関係もなかった。モンテスキューは、三権分立制度はイギリスをモデルにしたとも称していたが、イギリスの政治制度は三権分立制度とはおよそ縁遠いものであった。
 18世紀ブルジョア革命以後、三権分立制が三権のチェック・アンド・バランスによって一つの権力の専横を防ぐという建前のもとに、あたかも民主主義の原理であるかのように喧伝されたが、しかし、それはせいぜい国家職務の分担の域をでなかった。むしろ、アメリカ合衆国憲法は、三権分立原理を逆手にとって、人民が参加する議会の権力を弱体化させるために、また人民の暴動や反乱を強力に抑え込むために、弾劾裁判を除いて、大統領を議会の統制から外し、大統領に専制的な権力ともいえる巨大な行政権・軍事権を与えたのである。

(ⅳ) 裁判官・検察官の最高人事権を握る内閣
 日本国憲法と法制度のもとにおいても、人民の権利を保障するという権力分立制は建前に過ぎない。日本国憲法は、国会は国権の最高機関と規定されてはいるが(第41条)、実際は、国会の多数を占める政党からなる内閣が事実上の独裁権を握っているのだ(尤も、建前としてあることは、それはそれとして意味を持つ。今回の検察官定年延長法案が支配階級の一部を含む広範な反発を生んでいることの一事からも明らかである)。
 例えば、最高裁長官の指名(憲法第6条②)と最高裁裁判官の任命(憲法第79条①)は内閣が行い、検事総長・次長検事・検事長の任免(検察庁法第15条)も内閣が行い、しかも、検察官は法務大臣の指揮権に服さなければならず(検察庁法第14条)、検察官の補職権限(具体的な職務の担当を命じる権限)も法務大臣が握っている(検察庁法第16条)。つまり、最高裁長官・裁判官や検察官の究極の人事を握っているのが内閣であるから、裁判官・検察官は自らの昇進を考慮すれば、自ずと内閣の意向を無視することは容易ではない。
 もとより、裁判官の独立性を守って、政府見解とは異なる判決を下した、ごくごく例外的な少数の裁判官も存在した。古くは砂川事件で違憲判決を下した伊達秋雄裁判官(1959年)や最近では福井原発の差し止め判決を出した樋口英明裁判官らがいる。ただし、裁判官は定年間近か、それとも左遷もしくは辞任か、いずれかを覚悟しなければ、政府見解に反する判決を下すことは不可能である。いうまでもなく「法と良心および憲法・法律」のみに従う裁判を実現し得るのは、そのような裁判を要求する国民の広範な運動があってのみことである。

⑥ デタラメ極まりない違法手続きと法解釈
(ⅰ) 国家公務員法違反
 仮に、検察官も国家公務員法の定年に関する規定を適用されるとした場合でも、黒川検事長の定年延長は違法である。定年を延長する場合、国家公務員法では「その職員の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみて、その退職により、著しい支障が生ずると認められる十分な理由のあるとき」(第81条三)という条件が付いている。ところが、検察官は犯罪捜査上、極めて高い秘密性を有しており、具体的な職務内容を明らかにしてはならないのであるから、同条件には適合しない。それゆえ、国家公務員法に基づいては、検察官の定年延長は不可能なのである。多くの特捜部検事経験者が語るごとく、もともと特定の検察官でなければ捜査・起訴が出来ない事件などは存在しないのである。

(ⅱ) 何も知らない森法相答弁と人事院答弁との矛盾
 安倍内閣は1981年の上記人事院局長の国会答弁を無視して(森雅子法相もこの国会答弁を知らなかった)、恐らくは何も“知らずに”黒川検事長の定年延長を決定したのだ。この意味でも閣議決定は検察庁法違反である。
 検察庁法違反に関する政府側の答弁が、担当者によって相互に矛盾・齟齬をきたし、あまりにもデタラメすぎるので、煩雑ではあるが、やや詳しく経過を追ってみることとする。このデタラメさは、モリ・カケ問題とも共通するものである。
 黒川検事長の定年延長について、森法相は「定年延長は国家公務員法に準拠」と答えたが(2月3日)、山尾志桜里議員が1981年の人事院任用局長の国会答弁と異なることを指摘、これに対して法相は「承知していない」つまり知らなかったと答えた。一方、人事院給与局長は「現在まで81年国会答弁を維持」する旨を回答し、人事院は検察官の定年については国家公務員法の適用範囲外であることを証言したのである。明らかに法相と給与局長との見解は矛盾するものである。

(ⅲ) 「法解釈」の変更のごまかしと違法手続き
 切羽詰まった安倍首相はこの矛盾を解消するために「1981年解釈を変更した」旨を表明した。しかし、これでも、「現在まで1981年答弁を維持している」という人事院給与局長の答弁とは矛盾する。そこで今度は給与局長が自らの先の答弁は間違ったと訂正した。またまた部下への責任の押し付けだ。このような検察庁法の根幹にかかわる重要な問題で国会答弁を間違ったとすれば、もはや給与局長の資格が疑われるべきであるが、何の責任も問われなかった。
 そこで野党は、内閣が解釈を変更した政府内協議について文書による証拠の提出を求めた。これに対して人事院給与局が1981年国会答弁を変更することを認める旨の法務省宛の文書を国会に提出した。ところが、そこには、どのような解釈からどのような理由で解釈を変更したのか、ということは一切記載されずに、しかもその文書には日付がなかった。日付のない公文書などは全く公文書に値しないし、何の証明能力もないただの紙切れにすぎない。私文書でさえ、日付のない文書はいかなる証拠ともなりえない。例えば、日付のない領収書、日付のない遺言書、等々。なぜ日付がないのか? それは、「給与局長が法務省に“手渡したからだ” 」と回答。全くの屁理屈にもならない言い訳をした。この文書について、決済を取っているかと問われて、「正式な決済はしていない。口頭で決済した」。これまた不可思議な話で、極めて重要な法律解釈の変更について「口頭決済」とは全く前代未聞の回答を行った。 
 そこで政府は改めて1月24日付の文書を提出した。これは黒川検事長の定年延長前に人事院給与局長と法務省との協議があったかのように見せかけるものであった。これに対して、野党がこの文書のもとになった電子データを出せばこの文書の日付が明確になると迫ったが、政府は提出するとの確約は行わなかった。またしても、偽造文書の疑い濃厚。法務省は、省内討議のメモ(1月24日付け)を提出した。しかし、そのメモにも1981年国会答弁をいかなる理由で変更したかについては記載されていなかった。ありていに言えば、このメモが本物と仮定した場合、上述の法相の「承知していない」答弁とを勘案すれば、1月24日の時点では、法務省も1981年の人事院任用局長の国会答弁を知らなかった、としか解釈できない。
 それにしても、内閣法制局長もこれら一連の過程を合法とみなしているのだ。結局、法相とともに、行政府内において最も厳格な法の順守を職務とする法制局自体、集団的自衛権を合憲と解釈変更して以来、「憲法・法律の守護神」というそれまでの矜持さえ失い、安倍政権の走狗と化した。安倍内閣は、「順法精神」が全体として全く麻痺するまでに、腐敗しきっているのである。

⑦ 第二の指揮権発動事件
(ⅰ) 黒川検事長をめぐる黒い疑惑
 なぜ、安倍首相は検察庁法をあえて捻じ曲げてまで、黒川検事長を次期検事総長に据えたかったのか。それは、検察庁内では次期検事総長候補である林真琴・名古屋高検検事長を抑えて、黒川検事長を検事総長に据えるためである。もとより、「検事長会議」(2月19日)では、「検察は不偏不党でやってきた。政権との関係性に疑念の目が向けられている」との発言が中部地方の検事長から出されたが、辻裕教・法務事務次官は単に「延長の必要があった」というにとどめた。
 黒川検事長をめぐって、黒い噂は絶えない。小淵優子経産相(当時)の公職選挙法違反容疑を秘書の在宅起訴に終わらせ、甘利明経済再生相(当時)の口利き賄賂容疑をもみ消した等。当時の法務省官房長が黒川氏であった。黒川定年延長が決定されたとたん、IR事件は、「立件は秋元だけ」と報道された。また、黒川検事長は司法行政において、テロ等準備罪を新設した「組織犯罪処罰法」の改定を実現したことでも、安倍首相の大のお気にいりであった。
 IR疑獄では、大手のメルコまで捜索がなされた事をめぐって、特捜部が政府・自民党中枢部まで検察の手を伸ばすためではないかとも推測されていた。だが、IR捜査を主導してきた森本宏・特捜部長はなぜか広島地検の検事正に転勤させられた。森本特捜部長は、極めて腕利きの特捜部長で東京地検特捜部勤務は5回目であった。この間、防衛庁汚職、「徳洲会グループ」公職選挙法違反事件、リニア中央新幹線の大手ゼネコン談合事件、文科省局長の汚職事件、カルロス・ゴーン事件、等々を手掛けてきたのである。
 安倍首相は周知のように、集団的自衛権の違憲説を合憲説に変更するために、これまでは集団的自衛権違憲説を維持してきた内閣法制局長の首をすげ替えることによって、強引に合憲説への解釈変更を強行してきた。今回もまた懲りもせずに人事介入という手口を使ったのである。

(ⅱ) 第二の「造船疑獄事件」
 今回の問題はさらに深刻な内容を持っている。1954年、造船疑獄事件(政府の計画造船にめぐって利子補給問題での贈収賄事件)において、4名の国会議員が逮捕され、次は佐藤栄作・自民党幹事長の逮捕を待つばかりとなった。慌てた吉田政府は、それまで一度も抜いたことのない伝家の宝刀である指揮権(検察庁法第14条)、つまり法相が検事総長を指揮できる権限を使って造船汚職事件の捜査を中止させた。このため、世論の批判の前に犬養健法相は辞職を余儀なくさせられたのであった。
 今回の検事長定年延長と指揮権発動は形態こそ異なるが、ともに内閣が検察に圧力をかけ、内閣と自民党に関わる、桜疑獄、公文書改竄・隠匿容疑、IR疑惑、等々の怪しげな諸事件をもみ消そうとするものである。この意味で、黒川定年延長事件を第二の指揮権発動事件といえるのである。

⑧ ゆきづまった森法相のデマ発言
(ⅰ) 東日本大震災の時、検察官は容疑者を釈放し真っ先に逃げた!
 森法相は検察官定年延長問題について、参院予算委員会(3月6日)では、45分間の質疑のなかで、「個別の人事」については説明できない、と36回も繰り返した。
だが、仮に国家公務員法の定年延長規定を適用するとしても、既に示したごとく、当該定年退職者の退職が公務に著しい支障をきたす具体的理由を示さなければならない(同法第81条三)。したがって、森法相の答弁では、繰り返しになるが、検事長定年延長はまったく国家公務員法でさえ不可能なのである。
 実は、法務省は昨年10月、検察幹部の定年延長は必要がない、という見解をまとめていた。3月16日の参院法務委員会で明らかになった事実は次の通りである。「(検察官は)公務の運営に著しい支障が生じるなどの問題が生じることは考えにくく(延長の)規定を設ける必要はない」(「朝日新聞」2020.3.19)。
 森法相はこのような法務省の見解を知ってか知らずか答弁に窮した結果、3月9日苦し紛れにとんでもないことを言いだした。参院予算員会で、「東日本大震災の時、検察官は、いわき市から市民が避難していない中で、最初に逃げた。その時に身柄を拘束している十数人を理由なく釈放した」と。これが事実ならば、検察官の大犯罪である。しかし、この事実は何ら証明されることがなかった。つまり、法相は国会で公然とデマを述べたのである。このような支離滅裂な理由をつけて、検察官の定年延長を正当化しなければならなかったところに、この問題の違法性、異常性があるのだ。
 もとより、このデマ発言だけでも、法相の失格は言うまでもない。法律を守る法相が国会でデマを流すのは、河井克之・元法相の公職選挙法違反容疑よりもさらにもっと悪質である。河井・元法相は犯罪容疑だけでも法相辞任を免れえなかったのだ。

(ⅱ) デマ発言をかばう安倍首相
 だが、問題は単に森法相の失態にとどまることなく、このような法相を任命した安倍首相自身の大失態であり、法相辞任どころか、安倍首相自身の辞任に相当する重大事件である。ところが、安倍首相は単に森法相に厳重注意を与えただけでことを済ました。安倍首相の参院予算委員会の答弁によれば、「森氏は法曹資格を持ち法務行政に見識がある」そうだ。「法務行政の見識」とは、自己保身のために国会で検察を貶める重大デマを平気で述べることなのであろうか。日本の検察は、このような法相と首相の下で唯々諾々として、法務行政に従事しているのである。この限り、彼らが錦の御旗とする検察の「独立性」もますます怪しくならざるを得ないといえる。

⑨ 検察官OBの怒り
 支配階級内でも、これまでになかった重要な異論が生じた。特に元検察官の間では、15日の松尾邦弘・元検事総長らの、首相を「朕は国家なり」とするフランス絶対主義王・ルイ14世にたとえる極めて厳しい意見書があり、18日には元特捜検事ら38名が法務省に「将来に禍根を残す」との意見書を提出したのである。検察官OBのプライドをかけての怒りであった。ロッキード事件捜査で名を馳せた堀田力・元法務省官房長は、新聞紙所上で公然と黒川検事長と稲田伸夫・検事総長の辞任を求めた(「朝日新聞」2020.5.14)。

⑩ 安倍首相は、賭博常習犯の黒川検事長の任命責任を取って即刻辞任せよ
(ⅰ) 賭博常習犯を検察のトップに据えようとした安倍首相
 黒川検事長は、賭けマージャンという破廉恥極まるスキャンダルが『週刊文春』(電子版5月20日)に公表され、5月22日に辞任した。黒川(以下、敬称略)は、安倍首相の言によれば「余人をもって代えがたい人物」ではなかったのか。もし、『文春』の報道がなければ、安倍首相の目論見によれば、黒川を違法に東京高等検察庁検事長に任命した後に、次の検事総長にするする予定であった。つまり、常習賭博犯が、すんでのところで日本の検察のトップの座を占めるところであった。したがって、改めて言わなければならないのだが、そのような人物を違法に定年延長した安倍首相はまず、任命責任を取って即刻辞任すべきである。
 然るに、安部首相は全く逆に、またもや人事院規則や東京高検倫理規定(後述)に違反して、懲戒ではなく訓告によって黒川の辞任を承認し、5900万円の退職金を認めた。これは、とりもなおさず「安倍内閣の守護神」であった黒川へのご褒美に他ならならなかった。これは、世間では「泥棒に追い銭」という。
 国会では、今回の訓告処分について、その決定者に関する野党の追及に対して、安倍首相と検察庁とは、その責任のなすりあいを繰り広げている。だが、処分決定のプロセスはいかなるものであれ、訓告処分の最高責任者は、検事長任命権者の安倍首相でにあり、同時に稲田検事総長は訓告処分に同意していることは間違いない。恐らく、安倍首相と稲田検事総長との間で、何らかの取り引きがあったことも推測に難くない。
 いずれにせよ、稲田検事総長は、黒川の違法な定年延長に同意したこと、及び黒川賭博事件の監督責任という二重の意味で、慣習による辞職ではなく、引責辞職すべきである。少なくとも、2010年の大阪地検検察官の証拠改竄に対しては、検事総長と次長検事が引責辞職した。2002年の公安部長の暴力団への捜査情報の漏洩事件では、検事総長と大阪高検検事長に懲戒処分が出された。
 今や、稲田検事総長の態度や後述の黒川賭博事件に関する検察庁の態度を見る限り、秋の霜・夏の烈日のごとく、犯罪と自らの志操の厳しさを象徴する、検察官誇りの「秋霜烈日」バッチが泣こうというものである。人民には厳しく・身内には優しく、という検察の基本姿勢が改めて明るみに出たといえよう。

(ⅱ) 特段に厳しい倫理責任を負う検察官
 黒川の賭けマージャンは、人事院規則「懲戒処分の指針」および東京高等検察庁非違行為等防止対策地域委員会「品位と誇りを胸に(三訂版)今一度見つめなおそう自分の行動と職場の風土」(平成25年9月。下線は筆者。以下、倫理規定と略記)に照らしても、当然、懲戒対象である。
 森法相は、訓告処分を検察庁内規に基づいて決定したと答弁しているが、恐らく、例によって、倫理規定を知らなかったか無視したのであろう。しかし、この倫理規定はとくに検察官は犯罪取り締まりという職務上、一般の公務員よりは特段の厳しい倫理が必要なことを強調し、その見地に基づいて作成された文書である。この倫理規定は具体的例を挙げて、一般の公務員よりもさらに厳しい自己規制を命じている。今回の事件の関係で、関係個所を指摘すれば次の通りである。
 接触を厳に慎むように指定されている利害関係者としてマスコミ関係者を例示していること、利害関係者からはハイヤーによる送迎を受けてはならないこと、及び、利害関係者とは、たとえ自分の費用を負担する場合でも一緒に遊技をしてはならないこと、この遊技の一つが麻雀であること、等である。まるで、今回の事件を予見しているがごとくである。
(ⅲ) 賭けマージャンを容認する法務省の見解
 法務省の調査結果(要旨、5月23日発表)の概要は次の通り。「(『週刊文春』の)記事の対象期間は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、緊急事態宣言が行われ、外出自粛等への協力が広く呼びかけられていた。記事に登場する記者A、B、Cは黒川氏を取材対象として担当するなど旧知の間柄であった。金銭を賭けてマージャンを行った。レートはいわゆる点ピン(1千点を100円換算)。1~2万円程度の現金がやり取りされた。黒川氏はマージ後、Bの手配したハイヤーに同乗して帰宅。料金は払っていない。・・・黒川氏がA、B、Cと約3年前から月1~2回程度、同じ点ピンと呼ばれるレートで金銭を賭けてマージャンを行ったことや、記者が帰宅するハイヤーに同乗したことは認められるが、具体的な日付を特定しての事実認定にはいたらなかった」(「朝日新聞」2020.5.23)。本当は、至らなかったのではなく、あえて杜撰な調査によって、特定しなかったのである。
 検察庁は国会答弁では、「マージャンの1千点を100円と計算した。賭けマージャンは許されないが、社会の実情をみると必ずしも高額とは言えない」(下線は筆者)。この報告は、賭け金の問題にすり替えて、賭博罪を否定するものである。
野党議員が、「単なる賭博は減給または戒告、常習は停職」ではないかと質したことに対して、森法相は「刑法を参考にすると、常習とは一般に賭博を反復累行する習癖が存在すること。そのような事実は直ちに認定できなかった」と述べた。これは、単なる賭博(刑法185条)に抵触するのではないかと、という質問には答えず、問題を常習賭博(刑法186条)問題にすり替えて、答えているのである。
 まず、法律違反を吟味する前に厳しく指摘するべきは、森法相をはじめとして検察庁指導部全体が、「品位と誇り」を忘れ「自分の行動を見つめなおそう」という、倫理観が全く欠如していることである。さらに、何ら証明されない「社会の実情」を基準として違法マージャンを正当化する態度は、彼らが人民を取り締まる際に常に口にする「法治国家」論も、実は検察の都合に従うだけだ、ということである。
従って、刑事局長の言によれば、点ピンで月に1~2回、賭けマージャンを行っても法律上は問題なしというのだから、今後は大っぴらに賭けマージャンもよろしい、ということだ。

(ⅳ) 検察庁による賭博常習犯の免罪
 刑法によれば、「賭博をしたものは、五十万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けるにとどまるときは、この限りではない」(第185条)。但し書きは、家族や親しい友人たちが、あまり高価でない菓子やその他のものを賭け物にして楽しむ場合である。しかし、3年前から月に1~2回(『文春』調査によれば2~3回)、恒常的に1~2万円を賭けて行うマージャンはこの但し書きには該当しない。
 ところが、検察庁の主張のすり替えとカラクリはこうだ。質問者が単純賭博・常習賭博と区別なく、賭博容疑について質問しているのに対して、検察庁はこの185条には一切言及せず、もっぱら、黒川のマージャンが常習賭博罪(第186条)ではないことを強調して無罪を主張するのだ。もし、百歩譲って常習賭博罪でないとしても、明らかに黒川の行為は第185条の賭博罪に該当するのだ。
 第186条は「常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する」とある。この常習賭博者とは、「賭博を反復累行する習性があるものをいい、必ずしも博徒の類をさすものではない」(最高裁判例、昭和26年3月15日)。黒川の場合はどうか。法務省調査によれば、月1~2回、3年間、マージャンをやってきたのだから、最大で2回×12カ月×3年だから、合計72回、しかし、『文春』報道では月2~3回・5年、あるいは「10年以上前から、時に週3回もマージャン漬けの日々を送っていたのだ」。仮に少なく見積もって、月2回・5年で120回、月3回・5年とすれば180回となる。したがって、検察庁に是非教えてほしいことは、1回の掛け金がいくらまでならいいのか、また、常習犯とは月何回、何年すれば常習賭博となるのか、ということである。
 陸上自衛隊員9人が黒川の場合と同じ、点ピンでマージャンを行い、2017年3月、停職処分を受けた。停職処分は懲戒処分(免職・停職・減給・戒告)のうち、2番目に重い懲戒処分である。防衛省によると。2017~18年に自衛隊員が賭けマージャンで処分されたのは4件、計19人が停職5~30日の処分を受けた。したがって、中谷元・元防衛相は、訓告処分は余りに軽いと批判している。同じ公務員の間での処分の不公平が許されない以上に、それも犯罪を取り締まる全検察官のナンバー2の地位にあるものが、しかも外出時自粛要請が出されている最中に賭博を行い、自衛官の処分より軽いことは不条理極まりないことである。
 なお、1回のマージャンで現行犯逮捕された例も報告されている。「漫画家の蛭子能収(72)は新宿・歌舞伎町の雀荘で9000円勝ったがために、賭博罪の現行犯で逮捕された」(Yahoo!ニュース、2020.5.22)。これが本当なら、まさに検察とは「強きを助け弱きをくじく」弾圧機関そのものの真の姿を示したものといえる。

(ⅴ) 市民団体からの告発状と新聞労連の声明
 東京都や神奈川県の市民で作る団体「検察庁法改正に反対する会」は5月26日、常習賭博の疑いで、黒川及び「朝日新聞」記者1名、「産経新聞」記者2名を東京地検に告発した。告発状によれば、常習賭博の疑いのほか、1回のハイヤー代が1万5千円~2万円だと指摘。3年間にわたる記者の肩代わりは贈収賄の疑いもあるとしている。この問題をめぐっては、東京都内の男性も25日に、同様の告発状を検事総長宛に送った。
 日本新聞労働組合連合は26日、「権力者と一緒になって違法行為を重ねていたことは、権力者を監視し、事実を社会に伝えていくというジャーナリズムの使命や精神に反するもので、許しがたい行為」との声明文を出した。声明文では当局との距離間を保ちながら、市民の疑問に応えられる取材・報道の在り方が強く求められていると指摘。
 今回の事件は、安倍首相ヨイショの「産経新聞」だけではなく、日ごろ安倍政権に批判的な「朝日新聞」も、権力機関との不正常な絡み合いの一端を暴露したものといえる。しかし、両新聞社ともに未だに、簡単なお詫びを明らかにしただけで、賭けマージャンの実態、および記者処分、新聞社の最高責任者の処分、等について明らかにしていない。「社会の木鐸」を自負しているはずの新聞社がこの問題について、曖昧で無責任な態度をとるならば、新聞社の重大な信用問題にかかわることを肝に銘じなければならない。決して読者をなめてはいけないのである。
 それは、次の世論の動向からも明らかだ。黒川の賭けマージャン事件が発覚した直後の世論調査における内閣の支持・不支持率は、「朝日新聞」(2020.5.25)で、支持29%(4ポイント減)、不支持52%(5ポイント増)。これは第二次安倍政権発足以来の最低支持率であり、不支持が5割を超えた。「毎日新聞」(2020.5.24)でも同様の傾向を示し、支持27%(13ポイント減)、不支持64%(19ポイント増)である。

(ⅵ) 林・新検事長、「信頼を取り戻すのが責務」表明
 東京高検の検事長に就任した林真琴は「今回の件で損なわれた国民の信頼を取り戻すのが新検事の責務だ」と、約30分の会見で「国民の信頼」という言葉を30回も使い、黒川の不祥事を謝罪したうえで、信頼回復への意欲を示した。
 だが、言うは簡単だが、言葉だけではだれも信用しない。まずは、市民団体等から出されている黒川賭博事件に関する告発状にどのように対処するのか、また、桜疑獄に関して、662名の弁護士や学者の東京地検宛の告発状にどのように対処するのかが、新検事長の最初の試金石である。すでに、1月に東京地検に出された桜疑獄関する告発状は、手続き不備を理由に不受理となっている。
 仮に、これらの告発状にも拘わらず、不起訴になった場合、検察審査会に起訴の請求が行われるのはほぼ確実である。第1回目の検察審議会の11名の委員のうち3分の2以上、つまり8名以上が起訴に賛成すれば、検察は公訴の是非を検討し不起訴とした場合は、第2回目の審査会で再び8名以上の賛成で起訴が議決されれば、弁護士を検事役として強制起訴が行われる。もとより、検事役の弁護士には証拠調べの権限が乏しく、過去の裁判例ではしばしば無罪となったのではあるが。
 一方、森法相は検察の刷新会議設置を表明した。これは全くお門違いと言わなければならない。刷新しなければならないのは、違法行為をかさねる安倍内閣自体であり、森法相自身の毎回でたらめな国会答弁それ自体である。
刷新会議設置の真の目的は、内閣の下に検察を従わせ、検察を私物化するという新たな方策である。差し当たっては、提出されている桜疑獄や黒川賭博事件の告発状や足下まぢかに迫っている河合克之・前法相の起訴に何らかの牽制を加えたいという安倍首相の下心が、ここには見え透いているのだ。

⑪ 検察官公選制への提案
 橋下徹・元大阪府知事も、「検察官の専横」を防ぐために、検察官を内閣の統制におくべきだと主張している。とんでもない話だ。検察官を内閣の統制のもとにおくと、第三、第四の指揮権発動が日常茶飯のこととなり、権力犯罪の一切の捜査・起訴が不可能となる。それでなくとも、公文書の改竄・隠匿を財務省が次官の命令の下に官僚を挙げて行ったことに対して、大阪地検はもみ消したのであった。ここでも、誰が誰を統制するのかが問題の核心である。「検察を内閣の統制の下に置く」という一般的論理が如何に馬鹿げた結果を生み出すかは、安倍内閣の統制下の検察を見れば明らかだろう。
 現資本主義体制下で検察官を人民統制の下に置くのは至難の業である。しかし、一歩でも人民統制へ近づく方策も考えなければならない。その一つの方策が検察官の公選制である。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(憲法第15条)である以上、検察官の統制は、人民の統制のもとに服さなければならない。もとより、憲法第15条は現在では、極めて限定的にしか実現していない。同条の国民による公務員の選定・罷免の権利は、国会議員や地方議員の選挙だけに限定され、行政官僚及び司法官僚の選挙や罷免には直接的には適用されてはいない。それでも、最高裁裁判官については、前述のごとく、いかに形骸化されたものとはいえ、一度は国民の投票による国民審査を受けなければならないのだ。
 敗戦後、GHQはアメリカの連邦検察官制を例として、検事の公選制を提案したが、日本政府はこれを拒否した。それの代わりとして、「検察官適格審査会」が誕生したのである。「検察官適格審査会」は、すべての検察官について3年ごとの定期審査と法務大臣の申請または職権で資格審査を行う(検察庁法第23条)。しかし、事実上はこの審査は有効に機能していない。したがって、憲法第15条にしたがって、同審査会の公選制を実現することが、少しでも検察官に対する国民による「統制」に近づく方法といえる。同様な意味では、都道府県の公安委員会も公選制にすべきである。

 検察制度の改革の第一歩としてはその他、その実質的効果も全くわずかではあるが、検事総長・次長検事・検事長は「国会同意人事」の対象とすることが考えられる。この制度は、内閣が以下に示す人事を行う場合、事前に国会の同意を得なければならない制度である。会計検査院検査官、人事院人事官、国家公安委員会委員、日本銀行総裁・副総裁、原子力委員会委員長・委員、等で、現在は40機関前後、250人近くである。
 この「国会同意人事」制も、衆参両院の多数が自公の与党によって占められている限り極めて形骸化の非難は免れないが、しかし、稀には様々な思惑が絡み不同意の場合もある。しかも、重要なことは、これらの同意人事の対象となる公務員が、いかなる経歴の持ち主であるか、という一点だけでも明らかになり、不同意の可能性があるという意味では、一つの牽制的意味を持っている。仮に、検事総長が「国会同意人事」であるとすれば、もしも賭博事件がなかったとした場合、「黒川検事長」が検事総長に任命されるに際しては、国会の洗礼を受けなければならず、その場合、首相の野望通りの任命が可能か否か怪しい限りである、とは言えまいか。(2020.5.28)