関東大震災100周年

—— そこから何を学ぶべきか ——

     大阪唯物論研究会会員 岩 本 勲

 まもなく9月1日がやってくる。この日は「防災の日」とされており、政府や地方自治体では、種々の防災行事を予定している。「防災の日」とされる所以は、「明治維新」(1868年)以降の日本の地震災害として最大規模の被害を出した「関東大震災」が、1923年の9月1日に起こったことによる。そして今年は、その「関東大震災」の発生から100年目に当たる。
 「関東大震災」の被害は、死者約10万5千人(推定)、全壊家屋約11万戸、焼失家屋約21万戸というすさまじいものであった。「東日本大震災」の死者・行方不明者数22,318名、「阪神淡路大震災」の死者数6,434名と比べても、その被害規模の大きさが知られる。従ってこの「防災の日」に、大規模地震災害について考え、防災問題への取組みを点検することの意義は論を待たない。
 地震災害に対する防災問題で真っ先に立ち返るべきは『東日本大震災』の経験と教訓である。その第1は、地震大国日本での原子力発電施設の存在は許されないということである。しかるに政府は、先の通常国会においてGX電源法を成立させ、休止原発の速やかな再稼働、老朽原発の事実上の無期限運転、新型原子炉の研究開発推進、放射能汚染水の海洋投棄といった原発推進姿勢を鮮明にし、福島原発事故など無かったかのように振る舞っている。それでいて、政府やそれに追随する地方自治体は、「防災の日」に、いったい如何なる経験と教訓を振り返るというのであろうか。
 政府や与党の防災対策といえば、「国土強靭化計画」といった土木・建設関連事業に偏重したものが中心に据えられているが、「東日本大震災」の経験・教訓は、避難体制の整備(避難の権利の保証、質を担保した避難所と仮設住宅、避難手段の確保、医療・介護施設の即応体制、被災者生活支援等々)が優先事項であることを教えている。
 ところで、本稿で取り上げようとするのは、以上のような防災問題ではない。われわれが『関東大震災』の100年を振り返るとき、絶対に忘れてはならないことがある。それは、極度に混乱した状況の中で、国家権力が扇動し、偏見に囚われた群衆を巻き込んで引き起こされた社会的少数者(マイノリティー)に対する、身の毛のよだつおぞましい集団暴行・虐殺事件である。
 この集団暴行・虐殺事件の被害者は、大日本帝国に強制占領(併合)され、『帝国臣民』にされて内地(日本)に住んでいた朝鮮人や台湾出身者、絶対主義天皇制の下で徹底的に弾圧されていた共産主義者、社会主義者、無政府主義者などの『危険思想分子』や、被差別部落民、等々の社会的少数者たちであった。
 この集団暴行・虐殺事件の記憶を今に伝え、その原因を突き止めることが何故必要なのか。それは、この集団暴行・虐殺事件が、百年昔の物語としてあるだけでなく、状況次第では再び繰り返される恐れのある、今日的問題でもあるからである。
 本稿はこの視点から、以下にこの集団暴行・虐殺事件の跡をたどりながら、事件の背景と原因をより深く認識し、それを読者諸氏に伝えることによって、この愚かしく忌まわしい事件を繰り返させないための民主主義的世論形成の一助となることを願う次第である。
 なお、特別の事情がない限りは、戦前における朝鮮半島出身者は「朝鮮人」と、戦後における朝鮮半島出身者は「在日コリアン」と表記する。

(1)未だに根絶されないヘイトクライムと岸田内閣の改憲志向
 今年9月1日で関東大震災100周年を迎えるが、これまであまり知られてこなかった「福田村事件」(子ども・妊婦を含む2家族などの薬行商人10人が朝鮮人と間違われて惨殺された事件。後述)の映画化が伝えられたのをはじめ、関東大震災に際して、いかなる事態が生じたのかという問題が改めて提起されている。とくに、日本政府が今日まで一貫してその解明を拒否してきた、関東大震災における流言蜚語の発生源とそれに基づく朝鮮人・中国人・社会主義者・無政府主義者・労働運動指導者らの虐殺の実態、及びそれが持つ歴史的・政治的・社会的意味の解明が重要となっている。未だに、ヘイトクライム(人種・民族・性的志向などに対する偏見と憎悪と差別に基づく犯罪)が後を絶たないからである。さらに、自民党政府は今日、「関東大震災」の際の流言蜚語と数々の虐殺を生んだ、天皇の「緊急勅令」(大日本帝国憲法第8条)に基づく「戒厳宣言」公布をモデルとして、「緊急事態」条項を憲法に新設しようとしているのだ。

(ⅰ)在日コリアンに対する差別とデマの横行
 関東大震災の90年後の2013年、東京・新大久保の路上で何が生じていたのか。そこでは、在日コリアンへの罵倒と排斥のデモを連日繰りかえした在特会(在日特権を許さない市民の会)のデモが、進軍ラッパとともに始まり、「ぶっ殺せ」「叩き出せ」といったシュプレヒコール、林立する日の丸と旭日旗、さらに「不逞鮮人」のプラカード、等々、まるで「関東大震災」時の再現のごときであった(加藤直樹『9月、東京の路上で―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』)。
 ようやく「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(略称「ヘイトスピーチ解消法」)が2016年に制定されたが、しかし、同法には罰則規定はない。しかも、国連で採択された「暴力及びハラスメント条約」(2019年)には、日本は未批准である。一方、川崎市条例(2019年)が初めて罰則規定を含むヘイトスピーチ規制を設けた。この他、大阪市条例(2016年)、東京都条例(2018年)などいくつかのヘイトスピーチ抑止の条例が制定されている(「朝日新聞」2019年6月25日)。しかし、一定の効果がみられるものヘイトスピーチ根絶にはほど遠い。
大災害に際して流言蜚語が瞬く間に拡散されるのは、「関東大震災」に限らず、今日でもその危険性は倍加されている。「大阪北部大地震」(2018年)の直後には、「関西で中国人、朝鮮人が悪事を働く」、「西日本集中豪雨」(2018年)の際にも「火事場泥棒の中国人、韓国人、在日朝鮮人たちが・・・」と云った類のデマがソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で飛び交った。また、「東日本大震災」(2011年)の際も、被災地で「外国人犯罪が横行している」とのデマが広まった。2013年に東北学院大学が仙台市民対象に調査したところ8割以上がそれを信じたという(以上は「毎日新聞」2018年8月30日、夕刊)。
 SNSによるデマの拡散スピードと拡散範囲の広さは「関東大震災」当時と比較を絶するうえに、さらにAIによる悪意のニセ画像が容易に作成される今日、この種のデマの危険性は図りしれない。
 さらに、問題は今日に至っても、在日コリアンに対する偏見の根の深さとそれを支持する無視できない数の選挙民が存在することだ。東京都知事選挙(2020年7月)では、桜井誠が党首を務める『日本第一党』が約17万9千票(得票率2.9%、第5位)を獲得した。彼は、「在特会」の元会長で、「反日朝鮮人をたたき殺せ」「日本にいる韓国人を焼き尽くせ」と街頭においてヘイトスピーチ繰り返してきた人物である。
 宇治ウトロ地区で2021年8月、放火事件あった。この地区は戦争中に飛行場建設のために多数の朝鮮人が集められたが、戦後は、使い捨ての如く放置された朝鮮人が住み続けた。放火したのは有本匠吾で、以前にも「名古屋韓国学校」に放火した。その動機は在日コリアンに対する偏見と嫌悪の情に尽きた。

(ⅱ)岸田首相が来年の改憲実施を明示
 岸田首相は来年9月末までの自民党総裁任期中に改憲し「緊急事態」条項の新設を訴えている(6月21日)。日程を逆算すると、今秋の臨時国会で条文案を取りまとめ、来年1月の通常国会で発議する必要がある。現在、衆院では自民・公明・維新・国民・有志の会の4党1派が緊急事態における議員任期の延長に合意し、しかも彼らは衆参両院で改憲発議定数を越えている。
 「緊急事態」制定がめざす真の目的は、大日本帝国憲法に規定する「緊急勅令」をモデルにしたもので、大規模災害や対外戦争の場合、政府に「独裁権」を保障し反戦運動など反政府的なすべての人民運動を徹底的に弾圧することである。さらに、この改憲を突破口として、自民党の改項目(自衛隊の憲法上の明記・緊急事態・参院選挙の合区解消・教育充実)へ進もうとしているのだ。

(2)戒厳令制定と官憲の捏造デマの急拡散
 政府は1923年9月2日、関東大震災が発生するや「戒厳令」を間髪入れずに布告した。「戒厳令」布告については、内務大臣水野錬太郎と赤池濃警視総監がその立役者であった。水野は朝鮮における「3.1独立運動(万歳事件)」の直後の1919年に朝鮮総督府政務総監に、赤池は同総督府警務局長に任ぜられ、共に朝鮮植民地弾圧のコンビであった。だから、「戒厳令」の主目的が朝鮮人弾圧にあったことは一目瞭然である。
 デマを瞬く間に全国に広めたのは警察の元締めである内務省警保局長後藤文雄であった。彼は9月3日、呉鎮守府や地方長官宛に次のような電報を打った。「東京付近の震災を利用して、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を達せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるがゆえに、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密な取り締まりを加えられえたし」(吉村昭『関東大震災』、p.189~190)。この電文は、内務省が朝鮮人に関する流言としてではなく事実として断定したことを示している。そして、それを公式の電報として各地方に発信したため、朝鮮人による暴動説は、現実に起こっている大事件として全国にまたたく間にひろがっていったのである。同時に、あらゆる新聞もそれを一斉にそれを報じたのだ。
 「東京警視庁は9月5日、正力松太郎官房主事と馬場警務部長の名で社会主義者監視の通牒を出し、さらに公安を害する恐れのある場合には容赦なく検挙せよ、と命じた。」(加藤文三『亀戸事件—隠された権力犯罪』、p.144)。なお、正力松太郎は警察官僚として既に米騒動鎮圧(1918年)の功により従6位に叙せられていた。政府・官憲は「関東大震災」を利用して、朝鮮人・中国人・社会主義者・無政府主義者・労働運動指導者の弾圧を目指していたことは一目瞭然であった。甘粕正彦・憲兵大尉が、アナーキストの大杉栄・妻伊藤野枝・甥立花宗一を扼殺し、古井戸へ投げ込んだ「甘粕事件」(1923年9月16日)もその一環であった。
 日本の民衆が、このように容易に官憲のデマを信じたのは、「日本人が朝鮮人を差別しているから仕返しされる」「朝鮮人を虐待しているから攻めてくるという先入観があった」からに他ならなかった(「毎日新聞」2018年8月30日、夕刊)。何故なら、日本国民は、日本帝国主義による朝鮮人民の過酷な支配と弾圧、国内での極端な差別を良く知り体験もしていたからだ。
 改めて繰り返すべくもないのだが、朝鮮人民に対する収奪と弾圧の歴史的事実は次のようなことを物語っている。天皇制政府は日露戦争を契機に大韓帝国の主権を奪った。これに反撃したのが朝鮮人民の義兵蜂起(参加者約14万人、戦死者1万8千人、1907~10年)であり、安重根[アン ジュングン]の伊藤博文射殺事件(1909年)であった。天皇制政府は1910年、大韓帝国を強制占領(併合)し植民地とし、過酷な収奪と弾圧を繰り返した。これに対して朝鮮の民衆は「3.1独立運動」(1919年3月)に立ち上がり、それは朝鮮半島全土に広がった。デモや武装蜂起は1491件、殺された朝鮮人7509名、負傷者1万5961人、検挙者4万6941人を数えた。

(3)政府は、関東大震災における殺戮事件の実態と被害者総数を隠蔽
 日本政府は今日至るまで、震災時に誰がどのように虐殺されたのか、そしてその総数は何名かを調査せず隠蔽している。官庁統計として残っているのは下表のとおりである(出典:「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会の報告」2009年3月、p.206)。死者数は常識はずれの少数で、合計で578人。下表の起訴事件の数は、殺害者が起訴された際の被害者数であり、殺害者として起訴された人数も殺害者の実数とは余りにもかけ離れた少数である。軍隊及び警察に殺された場合は、戒厳業務上の殺人=公務として例外を除いて起訴されなかった。結局、犠牲者数は578人と計算されたのである。

 しかし、「中央防災会議」自身、これだけではあまりに少ないと「後ろめたい」思いに駆られたのであろうか、各種の研究書を紹介している。その内、吉野作造が1923年10月までに発表しようとして禁止された原稿もあった。吉野は在日朝鮮人学生によって結成された「在日朝鮮人同胞会」の調査に注目し、それによれば犠牲者数は2613人であった。下の表は「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」によって作成された中間報告で、戦後に崔承万[チェ スンマン]が発表したものだ。「独立新聞」の数字は、1923年11月に上海の大韓民国臨時政府機関紙『独立新聞』に送付され、12月に公表された(出典:上記「中央防災会議」報告書、p.218)。

 一方、「中央防災会議」自身は、朝鮮人・中国人の犠牲者数の断定を避け、その数は、関東大震災の被災者総数約10万5000人のうち1~数パーセント(1000人台~5000人台)と推測している。しかし、現在の時点で、当時の諸記録を精査する限り、1000人や2000人の被害者総数の推定は、余りにも馬鹿げているとしか言いようがない。しかも、この「防災会議調査報告」は、逆に大量殺害を否定する排外主義勢力に利用されるだけである。
 その好例が小池東京都知事の場合に示されている。東京では1974年以来、日朝協会等が毎年、関東大震災で虐殺された朝鮮人の追悼会を行ってきた。場所は、都立横網町公園(墨田区)に併設された「朝鮮人慰霊碑」前である。その際、東京都知事が追悼文を寄せることが慣例となっていた。しかし、小池都知事は2017年以降、追悼文の送付を止めた(前年は送っていた)。それは、2017年3月の都議会で、自民党都議が、虐殺の犠牲者数に異論(下線は筆者)があるとして、「今後は追悼の辞の発信を再考すべき」と主張し、知事はこれに従ったのである。虐殺数に異論を唱えることによって、虐殺それ自体を事実上、否定したのである。
 この他、関東大震災における朝鮮人虐殺を否定する『日本女性の会 そよ風』は、碑に刻まれえた犠牲者6千余名はデマだとして2016年以来、碑の撤去を都に申し入れてきた。2019年9月の集会では「不逞在日朝鮮人によって身内が殺され、家を焼かれた」というデマを多数の参加者が発言した。これに対して、都は2020年8月、この発言をヘイトスピーチに当たると認定した。ただし、都は集会の主催団体や発言者氏名を明かさず、団体や発言者にも通知しなかった。その上で都は同団体が同様の発言をしないという「口頭」の誓約に基づいて、2020年の同団体主催の集会開催を許可したのである。

(4)慰霊碑を巡る旅
 筆者は「関東大震災」を巡る諸事件を活字によってのみ知るのではなく、「関東大震災」の犠牲者たちの悲劇のたとえごく一部についてにせよ、現地で思いを馳せ追悼したいと願い、慰霊碑を訪ねる旅を試みた。もとより関西に居住し、関東を訪れることは稀であり、数年かけてのささやかな試みに過ぎないことはお断りするまでもない。

(ⅰ)亀戸事件〔1〕 路上での大量虐殺

 戒厳令の施行とともに亀戸(かめいど)・大島(おおじま)地区(現在の江東区)に急派されたのは、近衛師団及び第一師団の騎兵連隊等であった。戒厳令が施行されるや、亀戸警察署では9月2~3日の二夜で1300余人の朝鮮人・中国人・社会主義者・労働運動指導者等の検束が始められた。当時の亀戸署は既に元の位置にはなく、跡地には雑居ビルが建っている。
 この地区は労働者の街であり、紡績工場が軒を連ね、多数の女工(当時の呼び名)が低賃金と酷使に耐えていた。この悲惨な状況は、細井和喜蔵の『女工哀史』(1925年)が詳しく描くところであった。同時に、同地区を流れる中川の水運を利用した物資の往来が激しく、多数の朝鮮人・中国人が安い労働力として酷使されていた。朝鮮人は本国の苦しい殖民地生活に耐えられず出稼ぎに来日し、また中国人の多くは浙江省・温州など貧しい地方の出身者であった。
 「関東大震災」後、直ちに「朝鮮人が襲撃する」というデマがこの地にも飛び交い、亀戸や大島の街頭では朝鮮人・中国人の惨殺が始まっていた。その殺し方は、たとえば、妊婦の腹を裂き胎児を剝き出しにしたことをはじめ、サディスチックで残酷極まりないものであり、紹介するに堪えない諸事件の繰り返しであった。その様子は、西崎雅夫『関東大震災・朝鮮人虐殺の記録—東京地区別1100の証言』に極めて詳しい。
 なお、南葛飾(現在の江東区・墨田区)では、朝鮮人死者は最低でも1300人前後(火葬記録に基づく)、中国人死者・行方不明者は関東全体で約480名、そのうち亀戸・大島地区で250名以上であった。但し、現在では中国人犠牲者は700人以上に上ることが判明しており、その名前をはじめ詳細な状況が判明している(後述)。

(ⅱ)亀戸事件〔2〕 革命戦士10名の惨殺
 いわゆる亀戸事件と称されているのは、川合義虎ら10名が亀戸署内で惨殺された事件である。亀戸駅から歩いて10分前後にある「浄心寺」に建立された「亀戸事件犠牲者之碑」が、当時の模様を次のように語っている。「一九二三年(大正十二年)九月一日関東一帯を襲った大地震の混乱に乗じて、天皇制警察国家権力は特高警察の手によって、被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者九名を逮捕、亀戸警察署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所並びに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ白色テロルに斃れた表記戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえした地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する」(一九七〇年九月四日、亀戸惨殺事件建碑實行委員会)。墓石土台には九名の名前と年齢が刻まれており、日本共産青年同盟・初代委員長の川合は若干21歳であった。なお、碑の裏面には中筋宇八の名前が、追記されている(一九九三年九月五日、亀戸事件追悼委員会)。亀戸署ではこの他、自警団員4名、柔道師範らが殺された。
 碑には殺害日時と場所は不明とあるが、後の調査によって、日時は9月4日夜から5日の未明にかけて、場所は亀戸署の中庭であった(上掲、加藤文三)。犠牲者のひとり平沢計七と思われる斬首死体の生々しい写真が残されている(上掲、西崎、p.111)。
なお、碑には遺骸の所在は不明だとされているが、実は、後述の荒川河川敷での朝鮮人虐殺・焼却の問題とに深く関係していることが、今では明らかとなっている(後述)。
 亀戸署で10名もの革命的労働者の虐殺が行われたのは、この南葛飾の地が「南葛魂」と知られる、日本の革命運動、労働運動、青年運動の中心地のひとつであったからだ。「大震災の発生した年の春から三悪法(過激社会運動取締法案、労働組合法案、小作争議調停法案)反対運動が展開されて、当時の労働運動、農民運動、学生運動の大半が結集し、これに在日朝鮮労働者同盟会や学生連合会も参加した。こうした広範な統一戦線運動の組織者の中心に亀戸事件で殺され平沢計七ら南葛労働組合員や日本共産青年同盟の初代委員長の川合義虎らがいた。また普通選挙法獲得運動にこれまで消極的であった無産運動が積極的に取り組みはじめていた」(松尾章一『関東大震災と戒厳令』(p.3~4)。
 亀戸には、後に日本共産党書記長になる渡辺政之輔も住まいしていたが、震災当時は、彼は1923年6月の第一次共産党弾圧事件で逮捕されて獄中にあり、幸いにも虐殺を逃れたのである(上掲、加藤文三)。
 一方、川合らを刺殺した習志野騎兵隊の田村春吉少尉らは、陸軍法令「衛戍勤務令」に基づいて無罪となった。この法令は、自衛や暴動の際には、軍隊に武器使用を認めるものであるが、一体どこに軍隊襲撃や暴動があったのであろうか?
 関東大震災における数千人の朝鮮人・中国人や川合らの虐殺は国際的にも知れ渡った。コミンテルンはこれらの蛮行に厳重に抗議するとともに、日本人民への救援活動を全世界に呼び掛け、ソ連は救援物資を積んだ「レーニン号」の派遣を日本政府に申し入れた。だが日本政府はこれを拒否した。当時、「朝鮮人はボルシェヴィキの手先だ」との言説が流布されていたが、全くデマに過ぎなかった。もちろん朝鮮人の中にも共産主義者がいて、独立運動に積極的に関わっていたが、「朝鮮人=ボルシェヴィキの手先」という言説は、民族排外主義と反共主義が結合した政治扇動(プロパガンダ)以外の何物でもなかった。

(ⅲ)亀戸事件〔3〕 王希天殺害事件
 京浜地区には約6000人の中国人が在住していたが、日本政府は1919年頃から在日中国人労働者の取り締まりを強化し始めた。日本人労働者も、より安い賃金で働く朝鮮人・中国人労働者に対して強い反感を抱いていた。大島町をはじめ江東区で働いている中国人労働者の困窮を救うためにやってきたのが、第一高等学校・第八高等学校に留学・中退した王希天[ワン シ-ティエン]であった。彼は、賀川豊彦に思想的影響を受け、中華YMCAを拠点にして同胞の救済事業に専念し「僑日共済会」を設立した(田原洋『関東大震災と中国人―王希天事件を追跡する』)。
 一方、中国人・朝鮮人を酷使していた日本人労働手配師や亀戸警察の特高は日頃から、王希天を目の敵にしていた。王希天が中国人労働者に味方し手配師たちとやり合い、中国人労働者の間で人望が高かったからである。このような状況の中で生じたのが、関東大震災と中国人虐殺事件であった。王希天はわが身の危険をも顧みず、中国人同胞の安否を尋ね歩き、その救済に奔走した。
 一方、亀戸に駐屯していた戒厳令軍の将校たちは、中国人や朝鮮人を殺すことを手柄としていた。そこで、まずは王希天を血祭りにあげることとした。既に亀戸署に検挙されていた王希天に、警察は「中国人が騒いでいるからなだめてくれ」と騙して、旧中川に架かる「逆井橋」のたもとにおびきにだした。そこに隠れていた戒厳令軍の垣内八洲夫中尉が背後から王希天に切りかかり「彼の顔面及び手足等を切りこまさきて、服は焼き捨ててしまい、携帯の十円七十銭と万円筆を奪ってしまった」(上掲、田原、p.69~70)。
 筆者は夕暮れ、「逆井橋」を見上げる川原に降り、暫くそのあたりを彷徨しながら、警察と日本軍人の余りにも残酷さに激しい怒りを感じるとともに、当時の王希天の無念に思いを致さざるをえなかった。
 なお、「吉林義士王希天君紀念碑」が1926年に温州に建立されたが、1944年に進軍してきた日本軍に破壊された。「王希天は日本の軍隊によって二度殺されたことになる」(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』、p.202)。
彼の生誕地である長春では、陵墓に烈士として祀られ、記念会館も存在する(上掲、松尾、p.13)。
 大震災後暫くして、中国人虐殺事件が中国でも大々的に報じられ、中国側の調査は徹底していた。虐殺数は判明しているだけで総計716名(A王兆澄[ワン チャオヘン]調査1923年10月14日+中国外交部調査1924年2月25日)にのぼる。しかも、犠牲者の氏名、原籍、震災前所在地、被害時間、被害場所、加害者の手段、被害状況等すべてが明らかにされたのである(上掲、仁木、p.237~266)。
 中国政府は日本政府に厳重に抗議し、問題は両国政府の外交問題に発展した。しかし、両政府は警察・軍隊の責任を問うことなく、中国人犠牲者すべてではなく468人に対して、ひとり当たり約400円の慰謝料を払うことで一旦は合意した(1924年)。だが、日本政府は後に難癖をつけ、結局はこれを履行しなかった。
 ここ数年来、王希天及び中国人犠牲者の遺族が来日し、追悼式を行ってきた。今年も、東京と大阪で追悼会や集会が行われる。日本政府に対する中国人遺族たちの要求は次の通りである。①日本政府は国家の責任を認めて謝罪すること。②1924年の日本政府の賠償方針を履行し、金額は国際慣例と物価水準に照らすこと。かつ受難者数を正確に算定し、それに基づいて実施すること。③次世代にこの歴史的事実を伝える記念碑を設立し、中国人・朝鮮人の虐殺を伝える記念館を設置すること④日本の歴史教科書に虐殺の事実を記載すること。だが、日本政府は現在に至るまでこれらを一切認めていない。

(ⅳ)東京都慰霊堂と「追悼碑」

 「関東大震災」における日本人犠牲者の納骨と慰霊のために1930年に横網町公園に「震災記念堂」が建てられた。それが1951年、東京大空襲遭難者の納骨と慰霊とを併せて行うため、「東京都慰霊堂」と改名され今日に至っている。地下鉄大江戸線・両国駅を降り、「国技館」の前を通って暫く行くと、大きな建物が目に入りすぐわかる。
 慰霊堂に併設された「復興記念館」(1931年)には、震災当時を伝える絵画等が展示されている。その中には、ねじり鉢巻きに日本刀や鳶口等の凶器を携えた自警団の絵はあるが、朝鮮人虐殺の図は一切ない。しかし、ごく目立たないところにポツンと展示された警視庁の1枚のビラが当時の状況の一端をうかがわせている。「有りもせぬ事を言触らすと處罰されます。朝鮮人の凶暴や大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言傳えて處罰された者も多数あります」。このビラを見るだけでは、あたかも警察は朝鮮人の虐殺を防ごうとしたかのような錯覚にとらわれる。だが、デマの拡散で処罰された者など、誰もいない。デマを拡散したのは他らぬ警察自身であったからだ。このビラの展示の目的は警察のアリバイ作りにほかならないのである。
 上述の、「朝鮮人慰霊碑」が「慰霊堂」近くの片隅に、遠慮がちにひっそりと建てられている。碑の追悼文は以下の通り。「追悼 この歴史 永遠にわすれず 在日朝鮮人は固く手を握り日朝親善 アジア平和を打ち立てん」と。また、追悼の説明文は次の通りだ。「一九二三年九月に発生した関東大震災のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため、六千余名に上る朝鮮人が尊い命を奪われました。私たちは震災五十年をむかえ、朝鮮人犠牲者たちを心から追悼いたします。この事件の真実を知ることは、不幸な歴史をくりかえさず、民族差別をなくし、人権を尊重し善隣友好と平和の大道を拓く礎となることを信じます。思想、信条の相違を超えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本、朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼行事実行委員会」。
 敢えて、誰が殺したのか、虐殺者の警察・軍隊・自警団については触れていない。もし、この問題に触れると、恐らくは公園内には慰霊碑の建立はできなかったのであろう、と推測することもできる。

(ⅴ)群馬県「藤岡事件」
 群馬県藤岡市は、JR八高線の高崎駅からワンマンカーで約15分である。小さな駅前は閑散としており、こんなところまで、朝鮮人虐殺が広まっていたのか、と改めて驚かざるをえなかった。
 事件の概容は、藤岡市史によればおおよそ次の通りである。「関東大震災」の2日後の9月3日、この地にも例の数々のデマが伝わった。警察官の多くが京浜地方の応援に駆けつけているので、町の警備が手薄となり、在郷軍人会・消防組合・青年団に自警団を組織するように、との通達が町役場から発せられた。このため、住民の緊張感はますます高まり9月5日、同町の砂利会社に雇用されていた朝鮮人14名を警察署の留置場に保護した。これに対して、住民が朝鮮人引き渡しを求めて押しかけてきた。警察では、折悪しく署長が不在なので要求には応じられないとしたが、自警団は警察の阻止を振り切って留置場の14名を引き出し惨殺した。翌6日には別の村の自警団が朝鮮人3名を警察に引き渡したが、この3名も押しかけて来た藤岡町の自警団に惨殺された。事件後、9月19日から、殺害者の検挙が始まり36人が起訴され、懲役25名、執行猶予10名、無罪1名であった。
 この事件の反省として、慰霊碑が17名の犠牲者を埋葬した「成道寺」境内に建てられた(大正13年6月3日)。発起人は、藤岡町長、在郷軍人会会長、警察署長、消防組合長、藤岡青年会会長らである。現存する碑は昭和32年11月1日に建て替えられたものである。

 碑文には、17名の犠牲者の名前が刻みこまれた。発起人は、市長、市議会議長、警察署長、教育長、日朝協会群馬県支部代表、群馬県地方労働組合代表らであった。
 碑文は次のとおりである。「すぐる大正十二年九月一日 突如として起こった関東大震災の依って、世情極度の不安に襲われた時、朝鮮人暴動の流言が伝わり、各地において犠牲者を出すにいたった。藤岡市においても、東京―埼玉方面より、避難してきた十七名の者が最後を遂げた。非情の死を遂げた霊を慰めるため、地元有志の手によって成道寺内に慰霊碑を建立したが、時世変転とともに原形を失うにいたったので、日朝両国人有志が再び建立する議を起こし、各方面の浄財を募り茲に竣工を見た。願うことは、今後再びこのような惨事の叢生を絶ち、アジアの兄弟とともに手を取り合って世界平和への貢献に邁進したい。はるかに犠牲者の冥福を祈り建立の記とする。一九五七年一一月一日」(注:殺害された朝鮮人に関する記述については、碑文と市史との間には違いがあるが、筆者には、いずれが真実か知る由もない)。
 筆者が碑の文面を書き写しているとき、同じく碑を熱心に観察しておられるご夫婦に出会った。失礼は承知でお声がけしてみると、女性の方は碑再建の発起人の一人である警察署長のご息女であった。彼女はその父から「この事件は決して忘れてはならない」と教えられていたとのことであった。
 地元ではここ20年以上、慰霊祭が行われている。韓国でも2017年8月、「関東大震災」で虐殺された犠牲者の遺族会が結成され、2018年には初めてそのメンバーの2名が訪日され、その内のひとりは、「藤岡事件」の犠牲者の遺族であった(「毎日新聞」2018年9月12日、夕刊)。

(ⅵ)荒川放水路河川敷での虐殺と追悼
 亀戸・大島地区の東に流れる荒川放水路の河川敷には、虐殺された多くの朝鮮人の死体が埋められた。この事実の解明と遺体の掘り起こし、並びに河川敷での追悼碑建立のために結成されたのが任意団体「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(1982年)で、さらに一般社団法人「ほうせんか」が創立され(2010年)、二者を総称する名前として「ほうせんか」がある。
 東京の地理に疎い筆者は地図を頼りに、押上駅で地下鉄浅草線から、京成線に乗り換えたのだが、野呂栄太郎が特高に逮捕されたのがこの駅か(1933年)とふと思いながら、ぐるっと見回して八広駅に着いた。目指す「ほうせんかの家」と「追悼碑」は、少し狭い通りに面してではあったが、すぐに分かった。
 どっしりとした追悼碑の表には、「悼」は一字が大きく彫り込まれ、「関東大震災時 韓国・朝鮮人受難者追悼碑」とあり、裏側には次の一文が彫られていた。「一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国人・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。 二〇〇九年九月 関東大震災に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 グループ ほうせんか」。この碑は、珍しくはっきりと加害者に言及している。
 碑のまわりには、現在は韓国の国花となっている「むくげ(無窮花[ムグンファ])」やつつじ等の花木が植えられ、静かなたたずまいを見せていた。碑の隣の家が「ほうせんかの家」としてミニ資料館となっている。筆者そこで懇切丁寧な説を受けたうえ、荒川放水路の河川敷に案内していただいた。
 ことの始まりは1975年頃、小学校の先生をしていた絹田幸恵さんが教材作りのため、聞き書きをしていたところ、「関東大震災」の際に多くの朝鮮人が虐殺され死体は焼かれ河川敷に埋められた、という話を聞いたことにあった。そこで、この話を知った有志が上記の「追悼する会」を結成し、1982年9月1日に発掘を開始した。ユンボを使って3カ所、4.5mも大規模に堀り下げたが、しかし遺骨は発見されなかった。
 それもその筈である。震災後の11月、布施辰治弁護士らが亀戸署に14名の犠牲者の遺骨の引き渡しを求めたところ、署長は「死体は荒川放水路堤防において・・・○○死体百余名とともに火葬しているから、どれが誰の骨か分からない」(○○は例によって「鮮人」のこと)と答えた。そこで布施弁護士や日本総同盟代表者が遺骨を掘り起こしに行くことにした。これに先手を打って、証拠隠滅のため警察は警察官多数を動員し交通を遮断し、人夫に変装した警察官が河川敷を掘り返して遺骨を持ち去っていたのであった。
 1992年の発掘調査は大きな反響を呼び、新しい証言がいくつも出てきたとのことである。その後、「追悼する会」は、荒川放水路の河川敷に追悼碑を建てることを目ざして、毎年、河川敷で慰霊祭を行った。墨田区当局には慰霊碑建立の陳情を繰り返したが、結局は拒否された。しかし、幸い荒川放水路の堤防のすぐ近くに土地を見つけ、費用は膨大であったが、有志がお金を出し合って2007年に土地を取得し、慰霊碑建立となったのである。碑建立の翌年、それまで「グループほうせんか」として墨田区を中心に活動してきた組織を「一般社団法人 ほうせんか」に改編した。私有地での碑の維持管理は長期にわたるので、継続性のある体制が必要だったからである。
 毎年行われている追悼式の際には「鳳仙花[ポンソンファ]or[ポンスンガ]」が必ず歌われる。この歌は、大韓帝国が日本に強制占領(併合)された後の1920年、洪[ホン]ナンパ作曲、金[キム]ヒョンジュン作詞のもので、鳳仙花は日本に奪われた朝鮮を象徴している。「3.1独立運動」の際にも、冬が来ても必ず春には蘇生する鳳仙花に朝鮮民族の願いがこめて歌われ、植民地時代には歌うことが禁止されていたのである。

(5)多くの追悼碑が関東各地に
 筆者が訪れたいと願いながら、それを果たしえない多くの慰霊碑や追悼碑が関東各地に存在しているが、その内2例のみを挙げておく。なお、『飴売り』具學永碑については文献紹介で述べる。

(ⅰ)関東大震災福田村事件犠牲者 追悼慰霊碑
この追悼碑は、福田村事件の発生現場に近い、「圓福寺」の大利根霊園に高さ2.5mの黒御影石で、裏面には「本碑ヲ以テ慰霊ノ場トシ幽魂ノ墓ヲ兼ネルモノナリ」と説明書きがあり、犠牲者10名の氏名と年齢も記されている(辻野弥生『福田村事件—関東大震災・知られざる悲劇』。以下の記述は同書に基づく)。
 事件は利根川沿いにある千葉県東葛飾郡福田村大字三ツ堀(現在は野田市三ツ堀)で1923年9月6日に生じた。犠牲者は香川県の貧しい被差別部落出身者であった。出身地では耕地が少なく、行商によって生計を立てる他に道はなかったのである。彼らが現場近くの神社で休んでいたところ自警団に見つかり、警鐘が乱打され、たちまち武器を持つ数百人の自警団が集まった。犠牲者の讃岐弁を朝鮮訛りと間違われ惨殺されたのである。事件後、殺戮に参加した者の内、8名が逮捕され、その内で最高は10年、最低で3年の刑が確定したが、大正天皇の死去に伴う恩赦により全員無罪となり、被告の1名は後に村長にもなっている。しかも、村民は被害者に同情を寄せるのでなく、逆に殺害者に同情を寄せ、多数が義援金を送り、田植えなども手伝った。
 この事件とは別に、1978年に漸く千葉県における「関東大震災」と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会が結成され、八千代市神津地区で虐殺された6名の朝鮮人の掘り起こしと慰霊碑建立にも漕ぎつけた(1999年)。このような活動の中で、福田村事件の存在が浮かびあがってきたのである。そこで2000年に香川県側に「千葉福田村事件真相調査会」が設立され、千葉県側では「福田村事件を心に刻む会」が設立され、元福田村村長・新村勝雄氏が「個人的ではあるが」と謝罪の意を表した。一方、「千葉福田村事件真相調査会」は野田市当局に対して2002年、福田村事件に対する見解を質したが、市側は「福田村事件は、地元自警団と行商団一行との間の民事事件」として突き放し、追悼碑建立にも関わらない態度を明確にした。なお、最近になって初めて、鈴木有・野田市長が犠牲者に対する哀悼の辞を述べたことが報じられている(「朝日新聞」2023年6月22日、電子版)。
 この事件は、現在もなお解決されていない様々な差別が凝縮される事件であった。追悼碑除幕式と80周年記念追悼会における高畠追悼会副実行委員長の次のような指摘はこのことを明確に示した。「事件の背後に、故郷を遠く離れた関東地方まで仕事に来なければならなかった厳しい部落差別の実態、朝鮮人を人間扱いにしなかった民族差別の実態、行商人への職業差別があり、『さまざまな差別の悪相が重なった事件』であった」(上掲、辻野弥生、p.146)。
 まさに、天皇制権力が教育・マスコミ通じて国民に刷り込んだ、朝鮮人・中国人に対する民族差別、被差別部落に対する根強い偏見・差別、等が典型的な形で現れた事件であったと言える。

(ⅱ)「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」
在日本朝鮮人連盟中央総本部が1947年に、千葉県船橋市立馬込霊園内に建立した碑がある(Wikipediaより引用、原文はハングルと漢文)。碑の裏面「世紀一九四七年 三・一革命記念日竣成 関東大震災犠牲同胞慰霊碑 在日朝鮮人連盟中央本部建之」。説明分は以下の通り。「世紀1923年9月、関東大震災時に、軍閥官僚は、混乱の中、罹災呻吟する人民大衆の暴動化を憂慮し、自己の階級に対する憎悪の感情を進歩的人民解放の指導者と少数異民族に転嫁させ、これを抑圧、抹殺することによって、軍部独裁を確立しようと陰謀した。当時山本軍閥内閣は、戒厳令を施行し、社会主義と朝鮮人たちが共謀暴動を計画中であるとの無根言辞で、在郷軍人と愚民を扇動、教唆し、社会主義者とわれわれの同胞を虐殺するようにした。在留同胞中で、この凶変蛮行による被害者は6300余名を算え、負傷者は数万に達した。この犠牲同胞の怨念は、実に千秋不滅であろう。(後略)
 —在日本朝鮮人連盟中央本部 委員長尹槿筆[ユン グンピル](1947年3.1革命記念竣成)」

(6)朝鮮人を守った数少ない日本人
 ごく少数ではあるが、朝鮮人を守った例もある。加藤直樹『九月、東京の路上で』(p.142~147)がいくつかの例を紹介している。千葉県船橋市丸山では、凶器を持って朝鮮人を襲うおうとした自警団に対して、農民たちが命をかけて「あの朝鮮人に指一本ふれさせねえぞ」と二人の朝鮮人を守った。朝鮮人を空き家に隠した下宿屋。日本刀を手に職工を守った工場経営者。朝鮮人を守って自らも半殺しの目にあった親方。子供を含む七〇~八〇人の朝鮮人を匿った青山学院の寄宿舎。またよく紹介される話では、横浜の鶴見署署長・大川常吉は、収容した300人の朝鮮人を守るために、警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を殺す前にまずこの大川を殺せ」と宣言したそうである。上記著書とは別資料には、彼は「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマに対してその井戸の水を1升飲んだとも伝えられている。「ほうせんか」の聞き取り調査でも朝鮮人を匿った話も幾つかある(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』、p.126~130)。
 今日の日本政府よる、欧米人以外の外国人蔑視・偏見・差別(韓国徴用工問題、日本軍「慰安婦」=性奴隷問題、入管難民法改定問題、等)は今日でも根本的には改められてはおらず、しかも冒頭に紹介したデマの拡散の危険性を考える場合、いかなる場合においてもデマには決して惑わされない理性的な判断と覚悟が極めて重要である。したがって、関東大震災における少数ではあるが理性的、人道的であった日本人の対処に改めて思い致さざるを得ないのでる。

(7)日弁連の勧告書
 日本弁護士連合会は2003年7月、関東大震災における虐殺事件に関する人権救済申したて事件について、詳細な調査の結果、内閣総理大臣・小泉純一郎に対して,会長名で勧告書を提出した。その要旨は次の通りである。
 第一 勧告の要旨:朝鮮人・中国人の被害者・遺族に対して、
  国はその責任を認めて謝罪すべきである。
 第二 国は朝鮮人・中国人虐殺の真相を調査し、
  その原因を明らかにすべきである。
 だが、日本政府は今日に至るまで、一切の調査もせず、責任も認めていないのである。

 

【参考文献】
 もとより、関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺に関する文献資料は夥しく存在するが、以下はその内の一部で、筆者が利用させていただいた文献のごくごく簡単な紹介・寸評に過ぎない。
姜徳相『関東第震災』中公新書 1975年11月
 姜徳相[カン ドクサン]は戦後30年に至るにも拘わらず、日本の研究者やジャーナリズムは「甘粕事件」を多く取り上げるが、大杉栄が自警団に参加していたことを無視し、また6000人以上の朝鮮人が虐殺されたことについては余り言及しない事態についての抗議の意味を含めて、同胞の虐殺の実態の解明に努力した。
吉村昭『関東大震災』文春文庫 2004年8月(初出は1977年8月)
 関東大震災における人身・家屋等の被害を含めて全体の被害状況に詳しい。中でも流言及び新聞報道の状況、さらに警察自身が流言を急拡大させたこと、個別事件では亀戸警察における社会主者・労働運動指導者の虐殺及び「甘粕事件」に言及する。
大江志乃夫『戒厳令』岩波新書 1978年2月
 関東大震災時を含めて日本における戒厳令の法的性格とその施行の全ての実態を解明した。とくに、「大日本帝国憲法」における「緊急勅令」(第8条)
の法的性格と「戒厳令」制定の過程が詳しい。岸田首相が来年の任期終了までに改憲を行い、「緊急事態」条項を制定しようとしている今日、評者は改めて再読した。
田原洋『関東大震災と中国人—王希天事件を追跡する』岩波書店 2014年8月(初出、1982年8月、三一書房)
 多数の関連資料・文献の調査・聞き取り等に基づいて、王希天事件に関する読みやすい著書である。
加藤文三『亀戸事件 —— 隠された権力犯罪』大月書店 1991年1月
 亀戸事件の全体像を分かり易く描いた好著である。亀戸事件糾明の第一歩がどのように踏み出されたかも明らかにした。川合義虎ら犠牲者が警察に連行された後、亀戸署は彼らをどのように処置したかについては明らかにしなかった。だが、「甘粕事件」の取り調べを受けた被疑者が、軍は亀戸署内で「主義者」8名ばかりをやっつけたと供述したことから、それを知った山崎今朝弥弁護士がそれを手掛かりに警察を追求し、漸く川合らの虐殺があきらかとなった。巻末に収録されている、山崎今朝弥弁護士らが行った、関係者や目撃者の聴取書は、当時の事情を良く伝えている。
仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』青木書店 1993年7月
 著者は中国で初めて中国人虐殺の資料に接し、驚きと憤りを感じ帰国後に徹底的に調査した。事件の内容、王希天事件、中国マスコミと世論の動向、中国政府の動向と日中両政府の交渉、日本政府の逃げ、日本の民衆の意識、等々について詳しく分析する。とくに印象に残ったのは、著者が、生き残って中国に帰った犠牲者やその子孫を広く訪ね、その証言を聞き取っていることである。上述(ⅲ)亀戸事件〔3〕王希天殺害の項に示した通り、中国人虐殺の実態が極めて詳しい。
松尾章一『関東大震災と戒厳令』吉川弘文館 2003年9月
  著者は軍隊が虐殺に直接かかわったことを示す決定的な資料「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」を発見し、本書では戒厳令下における軍隊の動向の分析が詳しい。
関東大震災85周年シンポジュウム実行委員会『震災・戒厳令・虐殺・シンポジューム―事件の真相究明と被害者の名誉回復を求めて』三一書房、2008年8月
 「『真相究明』にとって重要なことは、関東大震災の前史と後史を統一的に見ることです」(p.ⅳ)とし、日韓両国研究者のシンポジュームは朝鮮人虐殺事件を大韓帝国強制占領(併合)、米騒動、「3.1運動」など震災前史および震災後1930~45年までの日本ファシズムと中国・朝鮮における反帝闘争の歴史の中で位置づけて分析を行った。シンポ実行委員長の結論はこうである。虐殺事件が起こされた原因は「天皇の軍隊がこの自然大災害を好機として、一挙に反国家勢力を鎮圧してアジアへの侵略戦争を遂行するためのファシズム体制を構築することを企図して、戦争が起きてもいないのに戒厳令を実施したためです」(p.ⅴ)。
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後—虐殺の国家責任と民衆責任』創史社 2011年9月
 著者が虐殺の国家責任とともに民衆の責任にも鋭く迫っていること、これが本書の特徴の一つである。とくに、犠牲者の追悼・慰霊碑について重要な指摘を行っている。上記「グループほうせんか」の追悼碑を除いて、「無縁仏乃墓」とか「無縁供養塔」など犠牲者が朝鮮人であることを明記しなかったり、あるいは上に紹介した群馬県藤岡市の碑などの如く殺害者が誰であるかを明示しなかったりする例を紹介し、批判する。もとより、殺害者を批判した場合、まだその地に殺害者の子孫が残っており、追悼碑建立が不可能などの事情もあったかも知れないが、著者の批判には真摯に耳を傾けなければならない。
辻野弥生『福田村事件—関東大震災・知られざる悲劇』崙書房 2013年7月
 本書の初版が10年以前に発行されていたにも拘わらず、今回のように事件の映画化の運びになるまで、本件に気づかなかったことについて、評者の怠慢を恥じ入るばかりである。
加藤直樹『九月、東京の路上で―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』ころから 2014年3月
 著者は、先に紹介した新大久保での「在特会」の横暴に連日反対する行動に立ち上がり、改めて大震災時における小学生から小説家まで幅広く体験記を集めて、当時の生々しい状況を掘り起こしている。
関東大震災90周年記念行事実行員会編『関東第震災 記憶の継承—歴史・地域・運動から現在を問う』日本経済評論社 2014年10月
 記念行事実行委員会は、関東大震災時の虐殺事件の追悼に携わってきた団体、市民運動や歴史教育・研究等からこの問題に関わってきた団体、等の諸団体から構成されている。1973年に発足し90周年に当たる2013年、本書の発行となった。排外主義が強い状況のなかで、本書は、関東大震災時の虐殺事件の現代的意義と検証を行う必要があること、地域でも埋もれた記憶の掘り起こしの運動と成果があること、新しい研究動向のあること、等々に鑑みて編集されたものである。内容が膨大であるので、これらを紹介することは評者の手に余り、到底不可能であるので、読者には一読を願う他はない。
姜徳相[カン ドクサン]・山田昭次・張世胤[チャン セイン]・徐鐘珍[ソ ジョンジン]ほか『関東大震災と朝鮮人虐殺』論争社 2016年2月
 本書の原本は、2013年にソウルで開催された「関東大震災90年韓日学術会議 関東大震災と朝鮮人虐殺事件」の報告集であり、今回の出版は翻訳版である。報告者は韓国人5名、在日コリアン1名、日本人3名である。
 本書では様々な観点から関東大震災朝鮮人虐殺についての研究が紹介され、いずれも興味深いものであったが、評者がとくに印象に残ったのは次の研究であった。虐殺を最初に報道したのは、先に紹介した、上海に存在した亡命政府である「大韓民国臨時政府」発行の「独立新聞」であった。これについての研究が深まっていることである。また、虐殺を追慕する市民運動が始まったのは漸く1985年頃からであり、市民運動の働きかけで2007年に国会で事件関係のパネル展示を行い、安倍首相に対して、虐殺された在日朝鮮人の名誉回復と韓日真相調査団の結成を促す声明書を発表した。さらに、国会議員、弁護士、牧師、学者、市民、遺族などにより、「関東大震災虐殺事件の真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法推進委員会」が2014年に結成された。今後とも、韓国の市民運動の発展と日韓研究者の学術交流や市民運動相互の交流が期待される。
西崎雅夫『関東大震災・朝鮮人虐殺の記録—東京地区別1100の証言』現代書館 2016年9月
 本書は、関東大震災における朝鮮人・中国人の虐殺についての人々の実際の体験、新聞記事、デマ宣伝、警視庁記録、等々に関する生の記録を蒐集した511ページの大作である。しかも、証言集めは並みの苦労ではなかった。虐殺の関する記事が掲載されていそうな資料にあたりをつけ、10編の資料を精査してもその内1編に記述があれば「よし」としなければならないほどの手間と根気を要する作業であった。それだけに、これを一読する限り、朝鮮人・中国人虐殺の余りの凄まじさに圧倒される。本書を読まずして、朝鮮人・中国人虐殺について語るなかれ、と言いたい。
 さらに本書は、権力による虐殺隠蔽工作をも明らかにしている。著者は最初、初等教育研究会編『子供の震災記』(目黒書店、1924年)を読んだ時、朝鮮人関連の記録がないので、参考にしなかった。ところが、である!著者が国会図書館所蔵の同書のデジタル版を読んだところ、刊行本が全く改竄・削除されていることに気づいた。改竄の内容は、デジタル版にある「不逞鮮人」「朝鮮人」、「鮮人」の記述が全て「変な人」や「泥棒」など改竄され、一言も朝鮮人虐殺の記述がない、ということである。例えば、「鮮人がひなんしたのを殺されたりした」→「知らない人が来たのをぶったりした」。「不逞鮮人を殺せ」「不逞鮮人を皆殺しにしてしまえ」→削除。著者はその実例を19ページにわたって示している。権力の本質が実によく示されているといえる。
西崎雅夫編『証言集・関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫 2018年8月
 本書は、子供の作文・文化人らの証言(当時の記録・その後の回想)・朝鮮人の証言・市井の人々の証言・公的資料に残された記録・編者解説と云う風に区分され、非常に読みやすい。
加藤直樹『「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち―トリック』ころから 2019年9月 
 本書はまず、当時の新聞や権力側のデマ宣伝の資料をずらりと並べて、そのインチキぶりを徹底的に暴露する。次に虐殺否定論を発明した工藤・加藤夫妻のやり口を明らかにする。工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版2009)と加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(WAC2014)が批判の俎上に乗せられる。一口にいえば、この夫妻は当時の流言蜚語とそれを報じた新聞記事を真実の「証拠」として虐殺はなかった、というのだ。これを口移しで繰り返しているのが百田尚樹の「日本国記」で、「一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を行ったのは事実である。(警察記録もあり、新聞記事になった事件も非常に多い)」「司法省の記録には、自警団に殺された朝鮮人犠牲者は233人」。これを真実とする。もはや論評にも値しない。
渡辺延志『関東大震災「虐殺」否定の真相―ハーバード大学教授の論拠を検証する』ちくま新書 2021年8月
 「慰安婦は契約による売春婦だった」という趣旨の論文を発表して物議をかもしたハーバード大学教授のマーク・ラムザイヤーが今度は、「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を投げ入れた」という流言は真実で、その上で虐殺された朝鮮人はそれほど多くはない、という論文をケンブリッジ大学出版局が刊行する出版物に収録されるとのことであった。
 この論文のサーベイを依頼されたのが著者である。論文が資料とするものを調べると、それは当時の新聞報道されたデマ記事や政府側の見解であった。その手法は、全く工藤・加藤夫妻と五十歩・百歩と言える類のものだ。結局、ケンブリッジ・ハンドブックの編集者が、その許に届いた多くの疑問をラムザイヤー教授に質したところ、教授は書き直しに応じたとのことである。それにしても、ハーバード大学教授の名が泣くお粗末な話であったが、常に繰り返されるトリックであることだけは確かである。
 著者は新聞記者出身にふさわしく、当時の新聞の論調を詳しく分析していることも、この著書のひとつの特徴である。
新井勝紘『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』新日本出版社 2022年8月
 著者は「国立民族歴史博物館」の助教授として、初めてナショナルミュージアムに関東大震災を扱った絵画を展示した(第五展示室)。「描かれた虐殺」そのものは資料入手困難のため展示できなかったが、液晶ビジョンなどを通じて虐殺そのことには触れた。著者はその後、「高麗博物館」の館長を歴任し、同館で「虐殺絵」の展示会を行った。著者は震災関係の絵画の蒐集に努め、「まるで虐殺の『実況中継』のよう」な河目悌二の水彩画(本書口絵②、「歴博」所蔵)や萱原白洞、柳瀬正夢、樫山南風らの絵画に出会った。さらに震災100周年を目前にしてオークションで手に入れたのが「関東大震災絵巻」(1巻が「立幅36㎝、横の長さ14.8m」の2巻)であった。作者の淇谷(但し現在のところ誰であるかは不明)。その自序において、この絵を描いた想いを次のように記している。「この惨禍に遭遇せざりし多数の人々に示し、もって省慮の念を促し、或は後世紀念の一片と為すに足らば、余輩の希望是れ達せるなり。大正十五年春」。果たして今日、作者が念じたこの「省慮(せいりょ)の念」(反省して考えること)は十分に実現しているのであろうか。
東京市立小學校兒童『震災記念文集』尋常一年の巻~高等科の巻 展望社 2022年9月
 この文集は上に西崎が紹介した「子供の震災記」とは異なって、東京市学務課が小学生を対象に募集した文集である。ここでは、僅かではあるが、朝鮮人虐殺の記録は残されている。「多数の人が竹槍を持ったり、鐵棒を握ったり、すごいのになると出刃包丁逆手に持つて警戒をはじめた。而して○○人だと見ると寄つてたかつてひどい目にあわせる」(六年生、p.235~6)。しかし、朝鮮人は悪いという観念と流言蜚語が小学生の中にも刷りこまされていたことは、本書にも現れている。
ほうせんか『風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺・追悼のメモランダム』現代書館 2021年
 本稿「(ⅳ)荒川放水路河川敷での虐殺と追悼」の項は、本書に基づくものである。
金[キム]ジョンス文/韓[ハン]ジョン絵、山下俊雄・鍬野保雄・稲垣優美子訳『飴売り具學永[ク ハギョン]―関東大震災で虐殺された一朝鮮人青年の物語』展望社 2022年4月
 具學永は関東大震災で虐殺され朝鮮人で、埼玉県の「正樹院」に埋葬され墓碑も建てられた。墓碑の裏面には次のように彫り込まれている。「朝鮮 慶南[キョンナム] 蔚山[ウルサン]郡 廂[サン]面山田[サンジョン]里 具學永 行年 28才」。この物語は、事実を基にした創作であり、当時の状況がヴィヴィッドに描かれている。具學永が日本に来たのは、他の多くの朝鮮人と同様に、東洋拓殖株式会社に土地を奪われ大韓帝国強制占領(併合)によって国を奪われた朝鮮人たちが、生きるためにやむなく日本に渡ってきたのである。
職業は、当時多くの貧しい朝鮮人が従事を余儀なくされていた飴売りだが、なかなか評判も良かったらしい。しかし、関東大震災に狂った民衆は彼を朝鮮人であるというだけで、竹槍や鎌でズタズタに切り裂き虐殺した。止めに入った警察署長は逆に民衆から「アカだ」だ、と罵られ他の警官も逃げ虐殺を阻止できなかった。具學永は息を引き取る前、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いた。この意味が「日本人 罪のない者を罰する」というのか「罪のない私が日本を罰する」という思いかは分からない。はっきりしていることは、朝鮮人として哀れみを乞うたり、助けてくれと哀願したりするものではなく、朝鮮人としてはっきりと抗議の意思を示した事である、と著者はいう。

追慕の詩 金ジョンス  まだ眠らないでください

 まだ眠らないでください
 まだ眠る時ではありません
 手足を引き裂かれ、心臓を貫かれ
 今なお苦痛に身もだえするあなたの 
 霊魂に捧げるものもないのに

 まだ眠らないでください 
 まだ眠る時ではありません
 不逞鮮人の濡れ衣を着せる声が
 再び兇器となり
 あなたの名誉を踏みにじっているのに
 どうして許そうとするのですか
 どうして神の御許へ行こうとするのですか

 まだ眠らないでください 
 まだ眠る時ではありません
 虐殺者が己の口で心から罪を告白し
 己の体から軽蔑の根を抉り出すときまで
 あなたはあなたの怒りを忘れないでください
 あなたを虐殺した彼らの罪悪が
 満天下に暴かれますように 

関原正裕『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相―地域から読み解く』新日本出版社
 2023年7月
 著者は大学や高等学校で歴史を教える教員であり、彼の調査によれば、現在の大学生が関東大震災時の朝鮮人・中国人の大虐殺事件を知るのは31.9%に止まるとのことだ。このような状況の中で、著者は高校の歴史の時間には必ず1時間を割いて関東大震災の朝鮮人虐殺事件を説明してきた。
 埼玉県南部にある北足立郡片柳村染谷で、朝鮮人青年・姜大興[カン デフン](24歳)の虐殺事件が生じたが、同県では、早い時期からこの事件の調査活動が行われてきた。朝鮮人犠牲者の名前が明確な例が極めて少ない中で、具學永の場合とともに名前がはっきりしている珍しい例でもある。事件現場の近くの「常泉寺」に墓があり、その墓は虐殺後にすぐに建てられている。「日朝協会埼玉県連合会」は2007年から犠牲者の命日である9月4日に追悼会を毎年開いている。著書の特徴は、本書のサブタイトルにも示されているごとく地域に密着して徹底的に調べ上げたことにある。その内、他書にはみられない注目すべき指摘がある。朝鮮人虐殺に加わった在郷軍人の履歴と朝鮮人虐殺の関係を洗い出し、日本帝国主義の侵略主義と朝鮮人虐殺が繋がっている歴史的事実の一端を示していることである。姜大興虐殺に加わった在郷軍人は歩兵第六六連隊に所属していたのだが、日本のシベリア出兵の際、この部隊は朝鮮独立運動の拠点であった、沿海州・間島での朝鮮人虐殺事件に六六連隊が参加した可能性が強いということだ。

 

(本稿の内「慰霊碑を巡る旅」(ⅰ)~(ⅴ)は、『わだつみのこえ』日本戦没学生記念会・わだつみ会の機関誌No.149掲載の旧稿の部分を利用させていただいた.)

 

《終》

 

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