大阪唯物論研究会会員 岩本 勲
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はじめに
本稿は、フランス共産党の衰退をもたらした同党の固有の原因、およびその背後にあった国際共産主義運動の動向を同時に明らかにすることを通じて、レーニン亡き後、フランスのみならず国際的規模で拡大しているマルクス=レーニン主義の修正主義潮流の端緒を探ることを目指している。この作業は実に困難な作業である。というのも、フランス共産党および国際共産主義運動の歴史には、われわれの窺い知り得ない極めて複雑な事情が存在し、その上、筆者のマルクス主義と国際政治史に対する理解能力も極めて限られたものだからである。
ロシア革命を成功に導き、コミンテルン(共産主義インターナショナル/Communist International)を創設しその指導に当たったレーニン亡き後の時代は、国際共産主義運動の指導問題が、また同時に国際情勢が、著しく複雑な様相を示した。1930年代以後の世界情勢を瞥見すれば次のとおりである。
誕生したばかりのソ連社会主義は第一次5カ年計画(1928~32年)を成功裏になし遂げ、その目覚ましい発展は世界の共産主義者や社会主義者たちに大きな誇りと希望を抱かせた。
一方、1929年に始まる世界恐慌のなかで帝国主義世界では、政治経済情勢は大きく変わり始めていた。イタリアではこれより一足先にムッソリーニのファシスト政権が成立し(1922年)、エチオピア侵略を開始した(1935年)。日本帝国主義は柳条湖事件(1931年)をきっかけに本格的な中国侵略を開始し、ドイツではヒトラーのナチズム政権が成立したのである(1933年)。
ファシズムはフランス、スペインなどにも波及した。これに対抗して、コミンテルンの基本方針は混乱した。コミンテルンはレーニンの「労働者統一論」から「階級対階級論」(第5回大会、1924年)に転換したが、その後、第7回大会(1935年)では「人民戦線」戦術に大きく舵をきり直した。その中で1936年には、スペインでは左翼共和党、社会党、共産党等による人民戦線政府が成立し、フランスでは共産党、社会党、急進社会党による人民戦線が成立した。チリでも人民戦線が結成された。
だが、フランス人民戦線の敗北(1937年)およびフランコ将軍の反乱と独伊ファシズムのそれへの加担によるスペイン人民戦線政府の敗北(1939年)の後、ドイツのポーランド侵略に始まる第二次世界大戦が開始された(1939年9月)。第一次世界大戦がドイツ帝国主義とオーストリー・ハンガリー帝国主義とイタリア帝国主義(三国同盟)に対する英・仏・露帝国主義(3国協商)との帝国主義間の戦争であった。
これに対して、第二次世界大戦は、仏・英帝国主義とドイツファシズムとの帝国主義戦争を端緒としたが、独ソ戦(1941年6月)を契機として、結果的には英・米・仏帝国主義とソ連社会主義との一時的軍事同盟である連合国とこれに敵対する日・独・伊のファシズム帝国主義との戦争となった。
一方、「共産主義インターナショナル執行委員会幹部会」は1943年5月、各国共産党が成長した結果、コミンテルンの国際的な統一方針と組織形態が必ずしも実情に適合せず、コミンテルンの寿命が尽きたことを理由として、解散を決定した。このコミンテルンの解散については不明な点が幾つかあり、筆者は解散の妥当性についての判断を留保している。ただ、何らの共産主義国際組織も創らずして解散したことは、明らかに誤りであったと考えている。
1945年、連合国は勝利したが、大戦をめぐって形成された複雑な国際関係は後に詳述するごとく、戦後の共産主義理論と運動に重要かつ深刻な影響を与えた。レーニン以後、国際共産主義運動の基本原則は「帝国主義戦争を内乱へ」であった。しかし、第二次大戦後はソ連と国際共産主義はこれとは別の道を進むこととなった。
大戦後、英米仏帝国主義と共に頑強に戦ったソ連社会主義の輝かしい勝利と反ファシズム・レジスタンスを果敢に戦いぬいたフランス共産党とは、諸国民の強い共感を呼び起こした。フランスでは1944年のドゴール臨時政府(アルジェリアで結成された「フランス国民解放委員会」)には2名の共産党員が入閣し、共産党は戦争直後の1945年の総選挙では第1党に踊り出た。ソ連から帰国したトレーズ書記長と他4名がドゴール政府に入閣した。これまでのコミンテルンの方針とは異なって、ブルジョア政府に共産党が参加する新しい時代が始まったのである。
それはフランスだけではなく、イタリアでも同様の現象が生じた。イタリア共産党も国内ではパルチザン闘争によってファシズムと果敢に戦った。1943年7月、イタリアで反ムッソリーニのクーデタが発生した。連合国軍のシチリア島上陸を受けて、イタリアの支配階級は徹底抗戦派のムッソリーニに見切りを付け、連合国との講和に乗り出したのである。ムッソリーニは逮捕・監禁され、バトリオ元帥を首班とするバドリオ政権が誕生した。イタリア中北部に進駐していたドイツ軍は9月、ムッソリーニ救出作戦を成功させ、イタリア中北部を支配地域とする「イタリア社会共和国」を建国させた。だが同国は、事実上ドイツの傀儡政権であった。以後イタリアは2年近くにわたる内戦状態に入る。それは同時にナチス・ドイツからイタリアを解放する戦いでもあった。
イタリア王国で新たに成立したピエトロ・バドリオ政権の下、ソ連から帰国したトリアッティ共産党書記長は副首相に就任する。2年にわたる内戦・解放戦争で、共産党はその組織力と勇敢さを発揮し、人民内部での支持を急速に拡大する。1945年4月、傀儡国家イタリア社会共和国は崩壊し、ムッソリーニはドイツへの逃避行中に逮捕され処刑される。翌月にはナチス・ドイツが降伏する。
トリアッティは、戦後直ぐの1945年12月に成立したアルチーデ・デ・ガスペリ(キリスト教民主党)を首班とする政権に法務大臣として入閣した。彼の指導の下でいわゆる「サレルノの転換」が始まった。その基本的主張は、暴力革命を否定し議会制民主主義の下で社会主義社会を実現するというものであった。
これらのフランス、イタリア両共産党の方針転換は、あたかも1960年代末に始まる「ユーロ・コムニズム」を予告するがごとくであった。
フランス、イタリア両共産党は、以上のような根本的な方針転換を出発点として、時々の盛衰はあったが、イタリア共産党は1980年代末まで、フランス共産党は1980年前半までその勢力を誇った。しかし、イタリア共産党は東欧社会主義諸国・ソ連の崩壊(1990~91年)と時を同じくして突然崩壊した。フランス共産党は1980年代後半からジリ貧となり、2000年代には国民議会選挙や大統領選挙での得票率は5%を切るに至り、今日では極少政党に没落したのである(後掲第10章第5節「付表」参照)。