『令和』と天皇制

                    岩 本 勲

 「『令和」』『万葉集』典拠、初の国書」(『朝日新聞』)、「『令和』新時代を象徴」(『日本経済新聞』)などの大見出しが4月2日の各紙上で一斉に踊り、「街で歓声、商機に熱気」(『毎日新聞』)と囃したてた。中西進氏に年号原案を特別注文した安部首相の目論見は、ひとまず成功したかに見える。新元号発表直後の安部内閣支持率は一挙大幅に上昇し、支持率52.8%(前回比9.5ポイント増)、不支持率32.4%(8.5ポイント減)となった(『毎日新聞』2019.4.3)。時あたかも、統一地方選挙・参院選挙の緒戦開始の時期であった。低迷していた株価も8日には一時的ではあれ、4ヶ月ぶりに21,900円を上回る高騰を示した。しかも、このような政治ショーは天皇の代替わりの諸儀式と絡めて、参院選を挟んで11月の『大嘗祭』、来年の4月の『立皇嗣の礼』まで、繰り返し延々と続けられることとなる。
 もとより、元号をめぐる問題は、単に安部内閣の当面の思惑を超えて、改めて象徴天皇制の存在そのものに関する基本的問題を提起しているのである。

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 天皇が時を決める元号制度
 元号の起源は古代中国にあり、前漢の武帝が紀元前140年に『建元』を定めたことに始まる。それは天の子=天子である皇帝が人民のみならず、時間をも支配するという思想に基づくものである。これが、日本に導入・模倣され、最初の元号が『大化』であるとされている。しかし、飛鳥時代は天皇死後も元号が定められない時期もあり、その後、同一天皇の下でも複数の元号が採用され、1331年から1392年の間は、『建武』の一時期を除き、二つの元号が競合した。
 元号が天皇の一世に限るという一世一元の制度そのものは、日本の古来の伝統では全くなく、大日本帝国憲法(以下『旧憲法』)の制定と同時期に定められた『旧皇室典範』に基づくものに過ぎない。『旧皇室典範』は『旧憲法』と同様に、国会で定められた法律ではなく、枢密顧問の諮詢を経て、天皇が定めた命令である。それによると、「踐祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト」(第12条)とし、天皇の踐祚即位礼を定めた「登極令(とうきょくれい)」(1909年公布の皇室令)もまた、「天皇踐祚ノ後ハ直チニ元号ヲ改ム」(第2条)と定めた。
 これらの『旧皇室典範』『登極令』は、『旧憲法』の基本原理に基づくものである。『旧憲法』は記紀神話に基づいて、天皇の権力は天照大神から神武天皇いたる祖宗の権力を継承するという日本版王権神授説に依拠し(告文)、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラス」(第3条)、と天皇主権と天皇神格化を定めたのである。
 しかし敗戦後、昭和天皇が自らの神格性を否定し(1946年)、その後、象徴天皇制を定めた日本国憲法(以下『新憲法』)と『新皇室典範』が発効した結果、『旧皇室典範』および『登極令』が廃止されたのは当然のことであった。これらに代わって、『新皇室典範』が、国会によって制定された。この法律名称自体が新憲法にそぐわないという国会論議もあったが、吉田政府は旧名を押し通した。『新皇室典範』はほぼ『旧皇室典範』を踏襲したが、異なる主な点は、皇位継承者から庶子を除いたこと、および元号に関する規定を削除したこと、等である。元号が『新皇室典範』から除かれたのは、占領軍総司令部(GHQ)の意向によるものであった。日本政府はそれにも拘わらず憲法が公布された1946年11月、『一世一元』を盛り込んだ『元号法』を閣議決定した。しかし、GHQは改めて、それを「天皇制を強化する意図がある」として却下した。

憲法違反の『元号法』

 したがって、昭和という元号は、1947年5月3日以降は、その法的根拠を失うこととなったが、政府は「事実たる習慣」を盾に、元号を存続させてきたのである。
このことに危機感を募らせたのは、右翼勢力であった。彼らにとって、天皇は天子であり、宇宙をも支配する至高の存在であらなければならず、したがって、それを具体的に表す元号の法的復活は最重要課題であった。資本の側もこれに同調し、右翼勢力の積極的な運動によって、元号法の制定となった(1979年)。同法は、『旧皇室典範』『登極令』の基本的見地を踏襲した、「第1条・元号は政令で定める。第2条・元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」という条文2条のみの法律である。
同法が、『旧憲法』の精神に基づく『旧皇室典範』『登極令』と同様の原理に基づくものであり、象徴天皇制に反する違憲立法であることは明らかである。それは、当時から一部の憲法学者の指摘するところでもあった。 
 なお、元号法には附則があり、「昭和の元号は本則第1項に基づき定められたものとする」とした。つまり、『新憲法』・『新皇室典範』が発効した1947年5月3日から『元号法』が施行された1979年6月12日の前日までは、昭和の元号には法的根拠がなかったのを、遡及的に『合法化』したのである。刑事法では原則として遡及効は認められないが、行政法・民事法などでは、当事者に利益を与えるか不利益を与えない場合にのみ、遡及効は可能であるという理由からだ。

元号決定方法は『登極令』を踏襲

 しかも、元号法による元号決定方法は、『登極令』と同様の手口を採用している。『登極令』によれば、天皇践祚の後、元号は枢密顧問の諮詢を経て天皇が勅裁し、一方的に国民に告知されるのである。今回の元号に関しても、政府がお手盛りの少数『有識者会議』に諮って、国会には一切関与させず秘密裏に元号を決定し、国民に告知する以前に天皇に内奏し、国民には結果だけを一方的に押しつけたのである。
内奏というのは、首相や閣僚等が天皇と会見し、天皇の臣下として国務・軍務を報告することで、これは戦前からの慣習であった。天皇はこの内奏を通じて天皇の意思を内閣・軍部に伝え、政治的影響力を発揮してきたのである。もとより、内奏は『新憲法』に規定されず、天皇と臣下の関係を引き継ぐ慣習で、「天皇は、この憲法が定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能は有しない」と定めた『新憲法』(第4条)に明確に違反するものである。
 今回の内奏についていえば、首相は2月21日に天皇と会見し、翌22日には皇太子とも会見し、さらに3月29日、天皇と皇太子に会見している。元号発表の当日、発表が予定より11分遅れたが、それは、首相官邸から御所に向かう使者の自動車の到着が遅れ、最終的な内奏が遅れたからに他ならない。天皇には、国民に遅れて情報を伝えてはならないのである。
 これらの一連の事態の発端は、昭和天皇が退位表明をしたいわゆる『お言葉』にあり、これによって「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(2018.6.26)が定められたのだが、この『お言葉』自体が法律制定という国政の端緒となったという意味で、これも明らかに憲法第4条違反であった。

出典のオリジナル版は中国古典

 マスコミは一斉に、新元号の出典が歴史上初めて和書であること、および、これには安倍首相の意向が強く働いたという首相礼賛を報道し、日本文化礼賛、国粋主義のムードと安倍の『功績』をことさらに煽りたてた。だが、和書とはいえ、出典の『万葉集』の当該箇所は漢文であり、その漢文自体が、中国の原典にあることは間違いない。
 新元号の出典は、『万葉集』第5巻、天平2年(730年)正月13日、帥(そち)の老(おきな)の家(九州太宰府の大伴旅人の邸宅)に集まって宴会をしたときに、梅花32首につけた序の一節である。32首は万葉仮名で綴られたが、その序は漢文であった。「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」(時に初春の令(よき)月、気淑(よ)く風和(なごみ)、梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、蘭(らん)は珮(おびたま)の後の香を薫(かお)らす(佐佐木信綱編『万葉集』上巻、岩波文庫)。
 当時、日本の政治家・知識人は唐を政治・文化の模範と仰いでいた。唐文化の移入は、遣唐使派遣の期間(630~839年)、約200年間続いていた。『万葉集』の主な編者のひとりは大伴家持であり、その父が大伴旅人、旅人の友人である山上憶良は遣唐使の随員(702~704年)であった。太宰府は、「漢詩文と和歌の融合を特徴とする『筑紫歌壇』が旅人・憶良を中心とする官僚や僧ら筑紫に住む知識人によって形成されるところ」となっていた(佐佐木幸綱『万葉集』)。当時、日本の知識人たちは、漢文化を懸命に学びこれを模範とし、その強い影響下にあった。中国古典を下敷きとして、作詩・作文を行う「本歌取り」は、作者の漢籍への深い造詣を誇示するものであった。
 彼らにとって、作文の最高のテキストは『文選』(6世紀頃成立)であった。そこに収められた、文人政治家の張衡(1~2世紀頃)が官を辞して一時故郷に帰った時の詩『帰田賦』に「於是仲春令月、時和気清」(さて春も半ばで月は麗しく、時候は穏やかで、空気は清々しい)(『帰田賦』、東京古典研究会訳)の一節がある。
旅人の宴は、遣唐使派遣の玄関口である大宰府で新春、梅を愛でる集いであった。梅は憧れの中国を代表する国花で、その馥郁たる香りは人々を魅了する異国情緒豊かな花であった。因みに、中華民国の継承を掲げる台湾政府は梅を国花としている。

『令』の字源

 『』の字源は、「礼冠をつけ、跪いて神意を聞く人の形。・・・政令を発する意とする・・・神意に従うことから令善の意」となる(白川静『字通』)。このことから、令は命令の令であり、同時に令嬢や令息の例ごとく、良いという意味をも含むこととなる。しかし、一方で、「巧言令色鮮矣人」(「巧言令色すくなし仁」『論語』)という言葉もあり、「令和」を推しとおした安倍首相にぴったりなのかもしれない。
 外国報道をみれば、とくに『令』の多義性とそのねらいとするところが、却ってわかりやすい(『毎日新聞』2019.4.4、参照)。

英ロイター通信:令はcommand(指令)であり、good(良い)、beautiful(美しい)の意味もあり、和はpeace(平和)やharmony(調和)の意味。
英BBC放送:令和はorder and harmony(秩序と調和)を意味する。令はcommandやorderのほか、auspicious(縁起がよい)、goodなどの意味があり、和はharmony(調和を希求する)やpeace(平和)を意味する。
米AP通信:令和はpursuing、harmony(調和を希望する)意味。令はgood、beautiful、
和はpeace、harmony、mild(優しい)の意味。万葉集からの引用は国威発揚を狙う安倍晋三の試みを反映。
米紙ニューヨーク・タイムズ:令和はorder and peace、auspicious、harmony、joyful、harmonyなどと解釈出来る。令にはorderやlawの意味もあり、軍事的役割の拡大を主張する安部内閣が選んだとの指摘もある。

 特に、APやニューヨーク・タイムズの報道は、日本のマスコミの『安倍お追従』報道とは異なって、『令和』の秘められた本当の意味を衝いているようにも見える。
 外務省は海外の反響に驚いて、『令和』とはBeautiful Harmonyと説明するようにと、在外公館に指示したが、後の祭りであろう。
 日本人では例外的に、作家の高村薫が次のように述べている。「現代人にとっては『令』という字は、国民を律する『規則』のイメージが強いと思う。『和』との組み合わせは、『国民を律して和を図る』といった意味にもとれて正直、違和感を覚えた」(「毎日新聞」2019.4.2)。
 『令』という字義には、なるほど、「命令の意から官長の命、または使役の意となる」(上掲『字通』)。
 皮肉なことに、天皇制を支持する立場から、令和に異議を唱える意見もある。「『令』の文字は天皇にふさわしくない。まず、これは『皇太子とそれに準ずる親王、三后(皇后など)』の命令を示す文字である。皇太子や親王の命令は『令旨』といい、・・・天皇の命令は何かというと『綸旨』である。これは中世史研究者の常識だ」(本郷和人、『日本経済新聞』2019.5.18)。この筆者は、専門家を招いて十分検討すればこのような初歩的ミスは防げる旨の忠告で文を結んでいる。首相をはじめ、『令和』を称揚する人々の歴史的考察を欠いた浅薄さをやんわりと衝いたものに他ならない。

『万葉集』の文化的基礎となった中国文化

 『万葉集』の成立時期は、おそらく奈良時代末期から平安時代初期の頃までであろう。平安遷都を行った桓武天皇の母・高野新笠(にいがさ)の出自は、その真偽のほどは分からないが、百済武寧王の子孫とされ、百済系の渡来人であったことには間違いない。桓武天皇は百済文化の源流である中国文化の具現化に力を注いだ。「朝廷は、急速に大陸色を色濃くしていく。中国文化の浸透は、一般にいわれる唐風謳歌の時代(国風暗黒の時代)をもたらし、やがて嵯峨朝に『凌雲新集』『文華秀麗集』、淳和朝に『経国集』として結実し、著しい漢文学隆盛の一時代を迎えるのである。『万葉集』というテキストが成立してくるのは、漢文学隆盛の時代のただ中であった。・・・ある意味では、ほぼ近江朝に始まる万葉歌の時代とは、漢詩文が隆盛の一途をたどろうとする時代であり、和歌と詩賦・文とはつねにパラレルの関係として存在していたというべきであろう。舶載の膨大な中国文化が彼らの漢詩・賦・文に与えたのと同様に、和歌表現のおおいなる滋養ともなった」(多田一臣編『万葉集』ハンドブック)。
 このように、『万葉集』の和歌は、中国文化の存分の吸収の上に成立したものであり、『万葉集』をことさら、『国書』としてのみ称揚することは、『万葉集』を育てたその文化的基礎を知らないという、一知半解さを天下に晒すのみである。
 
日本文化に長期にわたって影響を与えた漢文化
 漢字文化が日本の文字文化形成の基礎となり、日本思想そのものにも長期にわたって深い影響力を与え、日本文化の豊かさを築いてきたことは、繰り返すまでもなく、厳然たる事実である。唐の衰退と日本の独自文化の発展の中で、遣唐使は正式に中止(894年)されたが、しかし、日本の知識人の漢文化への傾倒は続いた。江戸時代に入って、12回の『朝鮮通信使』の訪日があり、この間、日本の文化人たちは、『通信使』たちの行路各地で、競って漢文の学識豊かなその一行との交流を求め、漢詩の添削などを願った。将軍の侍講となった儒者・新井白石が自作の漢詩集『陶情詩集』を朝鮮通信使の文官に贈り、その序文を請い、朝鮮通信使の間で高い評判を得たことは有名な話である(仲尾宏『朝鮮通信使』)。
 明治初期に、近代日本文学に基礎を築いた森鴎外や夏目漱石らも、彼らの学識の基礎として漢文に対する深い知識の裏付けを持っていたことも、周知の事実である。
今更ここで、以上のような中学・高校の教科書にも掲載されているような、蛇足に過ぎない自明の事実を繰り返えして確認しなければならないことは、まことに気恥ずかしい限りである。それも、安倍首相やほとんどのマスコミ・論壇が日本文化の基礎と伝統を無視し、国粋主義に眼を曇らされた見解をなんら臆面もなく披露しているからに他ならない。

天皇賛美の宮廷歌集『万葉集』

 『万葉集』は、最初に雄略天皇の歌を次に舒明天皇の歌を掲げ(これらが両天皇の歌か否かの真偽は別として)、8世紀半ばまでの宮廷和歌集を集大成したものである。その基本的性格は言うまでもなく、「雄略天皇に始まり、聖武天皇に至るまでの皇統の歴史を描こうとしたものであり、天皇のための古代理想像の歌集」(小松靖彦「歌集は格下、戦争利用の過去も」『毎日新聞』2019.4.16、夕刊)であり、特に柿本人麻呂は「専制王権の確立に呼応した天皇神聖観を基調とした王権賛美の姿勢が著しい」(上掲、多田一臣)。大伴家持は「海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ」(巻18・4094)、と勇ましく歌ってもいる。
 このように、『万葉集』は宮廷歌人たちの雑歌、相聞歌、挽歌が収録されたが、希には山上憶良の貧窮問答歌のような下級官吏の嘆きも収録されている。
ただし、例外的には、長歌・短歌合わせて4500余首のうち、東歌230首、防人歌98首が収録されている。それらの歌は、文字通り庶民の喜びや悲しみを率直に表現している。しかし、中には「今日よりは 顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出立つわれは」(巻20・4373)という、天皇にとってはまたとない忠義の歌もある。庶民の歌といっても、彼らが万葉仮名を正しく表記できたわけではなく、したがって、収録されたのは庶民の間で歌われた歌謡や口承であった。収録者の大伴家持は、拙劣歌として約半数の82首を削除している。
 『万葉集』の文化的意義は別のところにある。つまり、漢字を基とする万葉仮名の発明によって、表音文字である平仮名・カタカナが生み出され、漢字と仮名文字によって構成される日本独特の文字文化が成立したこと、および明治以後、正岡子規やその門下の伊藤左千夫らが中心となったアララギ派をはじめとする近代短歌の成立に大きな影響を与えたということ、等である。

『万葉集』と近代天皇制国家

 天皇制賛美を基本とする『万葉集』が、明治国家の成立とともに、天皇制国家の下における民族的文化的統一を図るための『古典』として新たに登場させられたことは、当然の成り行きであった。近代天皇制が古代天皇制を模し、明治政府によって新たに「偽造された構築物」(安丸良夫『近代天皇像の形成』)であったとすれば、品田悦一(『万葉集―国民国家の文化装置としての古典』)が指摘しているように、『万葉集』もまた、国民詩として新たに『発明』されたのである。
 『万葉集』は古代から存在したが、江戸時代まではほとんど注目されることはなかった。幕末、民族意識の高揚とともに、『万葉集』への関心が国学者のなかに呼び覚まされた。それが一大国民詩としてもてはやされるようになったのは、『旧憲法』が施行され、『教育勅語』が発布された1890年頃からであった。
『万葉集』は,天皇制道徳の規範である『教育勅語』と同じく、国民は学校教育を通じて、天皇賛歌の民族的古典として刷り込まれてきた。『万葉集』に載る4,500余歌のうち4割以上は相聞歌であるが、もとより国語教科書に登場するのは、そのような色恋沙汰の歌ではなく、その中心は天皇賛美や天皇への深い臣従の意を表明する歌が中心であった。とくに日中戦争開始の1937年には、日本軍国主義と天皇制賛美を鼓吹する意図のもとに、上記の家持の「水漬(みづ)く屍(かばね)」がNHKの依頼によって信時潔が曲を付けた『海ゆかば』の歌が人々に広く膾炙されるようになった。
 学校教育における天皇賛美は、戦前だけのことではなく、今日も続いている。今回の天皇代替わりに関してだけをとっても、文部省は初等中等教育長の名よる「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位について・・・国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させることが適当」と通達を発した(2019年4月22日)。早速、大阪市立泉尾北小学校の小田村直昌校長は5月8日、児童朝礼で新天皇を126代と紹介し、明治時代の唱歌「神武天皇」や「仁徳天皇」を「愛国の歌姫」山口采希(あやき)氏に歌わせ、戦前の皇国臣民化教育の定番である「民のかまど」の話を行った。

有害無益の元号

 改めて、元号は必要か、という問いを繰り返さなければならない。天皇制廃止論からはみれば当然、元号は不必要であり、有害無益である。あるいは、一歩譲って、象徴天皇制論から見ても、天皇が時を支配するという原理は憲法に違反する理論である。
 実用から見た場合でも、元号は有害無益である。河野外務大臣が今後は外務省文書は西暦のみで記述する旨の至極当然の見解を述べたところ、安倍首相に一喝されて主張をひっこめた。ことあるごとに、国際社会化とか英語教育の必要性をお経のごとく唱えているはずの日本政府の二枚舌もボロをだしたというべきか。
 日本社会も、およそ有史以来今日まで、近隣諸国はもとより世界史の一環として存在してきたのであり、日本を知るためには常に、世界との比較の中でしか考察できない。たとえば、1929年世界恐慌といえば、いつの時代でその前後に何が日本内外で生じたのか、それが結局は第二次世界大戦勃発の最も深い原因であったことが理解できる。だが、仮に昭和4年恐慌といえば、全く世界史との繋がりが遮断され、その世界史的意味は消え失せてしまうこととなる。
 日本の5大全国紙のうち、『日本経済新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』はいうに及ばず『読売新聞』でさえ、日刊紙の日付を西暦で示したうえで(令和元年)と記している。全世界を瞬時にしてネットで繋ぐ現在、元号はもはや無用の長物以外の何物でもないのである。

天皇制反対・共和制獲得の主張を粘り強く

 今回の令和問題をめぐる一連の現象は、象徴天皇制の君主制としての本質の一端を如実に示した。世襲制度に基づく天皇が時を支配し、天皇の『お言葉』という行為によって新たな法律を制定せしめ、首相は、臣下が天皇に伝える内奏という形で元号名を報告し、国権の最高機関(憲法第41条)である国会が臣下の礼をとって、「天皇皇后陛下のいよいよのご清祥と、令和の御代の末永き弥栄(いやさかえ)をお祈り申し上げます」と賀詞を奉呈した。これらは、象徴天皇制が『人民の支配』を原義とする民主主義と根本的に対立することを典型的な形で示したといえる。
 だが、国会には、この賀詞に賛成した共産党を含めて、もはや象徴天皇制に反対する政党は存在しない。敗戦前には、生命を賭けて天皇制に反対し、戦後も長く天皇制には批判的な唯一の政党であった共産党も綱領改定(2004年)によって、それまでの立場を翻して象徴天皇制支持に転向した。それでも、国会における平成の賀詞(1990年)に反対し、前天皇の在位30年を祝う賀詞には国会を欠席した。だが、今回は上記の賀詞に賛成した。さらに志位委員長は6月4日、女性天皇制を含めて象徴天皇制を全面的に支持する立場を表明した。共産党の天皇制支持は新しい段階に入ったといえる。
 人民の多くも、冒頭に示したように『令和』に唱和し、世論調査でも80%以上が象徴天皇制支持を示している。
 だが、人民の支配、つまり民主主義を闘いとるためには、いかに少数派で長期の闘争が不可避であろうとも、象徴天皇制を含めて天皇制それ自体に反対し、共和制獲得という基本的主張を改めて粘り強く守り通さなければならない、といえる。

                               (2019.7.12)。