【書評】――『人工知能はなぜ椅子に座れないか』――                              情報化社会における『知』と『生命』 (松田雄馬著 新潮選書)

                                                                                                              兵庫正雄

 「人工知能が人間の知能を超える地点」とされるシンギュラリティが到来すると叫ばれて久しい。今も本屋の店頭には実に多くの著者による『AI関連本』が山と積まれている。その大半は、『AI万能論』と呼ぶべきものである。著者たちの主観的意図は別にして、今後予想される第2のリーマン・ショックの到来と新たな世界経済恐慌の下で生じるだろう労働者の大量解雇を、AIの発展による不可避的な結果だとして労働者に受容させる役割を担っている。

 本書は、『AI万能論』が洪水のように溢れ出ている中、AIの発展を歴史的に辿りながら、AIの『知能』と人間の『知能』の根本的相違を明らかにして行く。その象徴的な表現が、「人工知能はなぜ椅子に座れないか」という本書のタイトルである。

 著者は、生命科学の一分野であり、数学を用いて生物を理解しようとする『数理生物学』の研究者である。数学を武器として『生物』の本質に迫ろうとしてきた著者が、『数学万能主義』と深く結び付いた『AI万能論』を批判するのは一見奇妙に思えるが、数学を縦横に駆使する生物研究者だからこそ、その『数学万能論』批判の持つ意味は重い。著者は、自らの研究を通じて『数学(コンピュータ)万能論』の限界を痛感し、『数学(コンピュータ)』は道具であって万能ではないとの確信を持つに至る。『生物(生命)』を支配する法則は、諸部分の不断の相互作用によって生み出されるもので、諸部分の算術的総和によって生み出されるものでない。著者は、『弁証法』という概念を使用していないが、著者が述べている生物の運動法則は、機械論的なもの(算術総和的なもの)ではなくて、文字通り弁証法的なものである。

 本書は、生命というものに対する考察から、『人工知能』と生物が持つ『知能』との決定的な違いを浮き彫りにしてゆく。『無生物対生物』、『機械対人間』、という古くて新しいテーマが本書の根底に流れている。そして、本書のキーワードは『生命』である。そのことがまず、序章で述べられる。以下、終章までの主要な論点を辿ってみることにする。

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 【序章】人工知能を通じて感じる生命への疑問
序章において、数学を縦横に駆使する著者が、『数学万能主義』と深い関係にある「最近の『AI騒動』に対して違和感を感じるようになった」理由について述べる。コンピュータ(電子計算機)によって人間が支配されてしまうかのような社会のイメージに対して、著者は、「『生命』というものをまるで感じることができないために、現実のこととして捉えられない」、「科学技術の発展は、人類と大自然(生命)との相互作用の中に築き上げられたものであり、科学技術について理解するためには、生命と向き合わなければならない」と主張する。

 著者は、科学技術やそれを支える物理や数学が、生命と共に進化してきた歴史を辿ってゆく。「科学技術と生命との対話の中にこそ、科学技術文明の未来がある」。これが、本書を貫いている根本思想である。

 

【第1章】 人工生命、そして、人工社会とは
 コンピュータというものが発明されて以来、多くのコンピュータ科学者たちは、「コンピュータの性能を向上させ続けることによって、やがては人間の知能を凌駕するものを生み出したい。」という夢を抱いてきた。「コンピュータ上で人工的に生命を作ることができれば、その『人工生命』を進化させていくことで『人工知能』が誕生するかもしれない。」と。著者は次の三つの例を解説しながら、人工生命と人工知能の発展の歴史を俯瞰する。

(1) 一つは、コンピュータ上に『細胞』作り出し、それが自分自身で子孫を増やすという『セル(細胞)・オートマトン(自動機械)』。この研究は、コンピュータ科学にとって重要な『計算万能性』の実現に寄与したが、自己増殖の仕組みがあまりにも単純であり、コンピュータ上で『生命』を創り出すことはできなかった。
(2) 二つ目は、『群知能』研究。アリやミツバチのような生物種が、群れて行動することで発揮される高度な知能は、数学上の『最適化問題』を解くことに等しい。そのことを応用して、アリの群れをコンピュータ上に再現させることにより、『最短経路探索問題』を解くアルゴリズムが発明され、都市計画への応用のみならず、人間を凌駕するロボット棋士をも誕生させることになった。しかし、この『群知能』に学んでつくられたアルゴリズムは、人間が最初に、解決したい問題を設定しなければ動作しない『道具』の一つに過ぎなかったため、コンピュータ科学としての群知能の研究は、次第に『生命』の研究対象としては除外されていった。
(3) 三つ目が、生物進化のメカニズムにヒントを得た『遺伝アルゴリズム』。この手法も『最適解を解く』という目的で、再生・交叉・突然変異といった遺伝の仕組みを真似てコンピュータ・プログラムそのものを進化させようとするものだ。これは、膨大な数の分子構造の『設計』を試行錯誤的にシミュレートすることによる創薬への貢献など、多くの分野で利用されている。しかし、問題ごとに特殊な設定を与える必要があり、プログラムが勝手に進化して高度な知能が生まれる、というわけにはいかないのが現実だという。

 以上の三つの例を挙げ、「『人工生命』の研究が、『生命』の研究から乖離していった。」と著者は指摘する。人工生命の研究が進めば進むほど、生物の持つ力とコンピュータの力の質的相違が一層明らかになっていったのである。一方、コンピュータを利用することで、複雑に見える人間社会に起こる様々な現象を説明し、予知しようとする『人工社会』と呼ばれるアプローチについても同様である。壮大なシミュレーションの結果得られる『人工社会』なるものは、現実の社会とは別物であり、交通渋滞の予測とか、災害時の避難ルートの選択といった分野で一定の成果が得られたものの、シミュレーションという方法論の限界性も示した実験であった。

 著者は、人間社会というものを理解するには、『生命』としての人間の理解は勿論、人間の心理や行動を理解する、すなわち、人間の『知能』を理解する必要があること、そして人間の知能をコンピュータで実現しようとする『人工知能』の研究は、『人間』の理解そのものであると主張する。

 

【第2章】 人工知能の研究はどのように始まったか
 では、『人工知能』とは何なのか。それを理解するため、著者は『人工知能』が開発されてきた歴史について振り返る。

(1) 17世紀に、ドイツの数学者ライプニッツが機械式計算機を作成。これは人間が行う四則演算(加減乗除)を機械に行わせる、現代でいう『電卓』に過ぎないものではあったが、人間の知能の一部を代替する機械の研究の始まりとみなせるものだ。
(2) 19世紀に入って、イギリスの数学者ブールは、形式的論理を数学的に記述するブール代数を確立、『論理的推論』を四則演算によって行う『論理演算』を体系化する試みを行った。例えば『AまたはB』は『A+B』のように足し算で、『AかつB』は『A×B』のように掛け算で表現することで『論理的思考(論理的推論)』を四則演算により行わせる道を開いた。これはまさに、現在の『プログラム』の考え方そのものであった。
(3) 20世紀に入りイギリスの数学者チューリングが、アルゴリズム(計算方法)さえ与えれば、どんな(形式的)論理演算もできる計算の仕組みである『チューリング・マシン』を考案した。そしてその仕組みは、アメリカの数学者ノイマンらによって、『真空管計算機』として実現された。この計算機の仕組みは、現在のコンピュータの仕組みそのものであった。それから間もなく、1956年にアメリカのダートマス大学で行われた国際学会で、『人工知能(Artificial Intelligence:AI)』という言葉が初めて使われた。

 今日、AIの一分野としての『顔認識技術』や『指紋認証技術』が高い精度で実現され、広範に導入されている。しかし、このようなレベルに達するまでの道のりは決して平坦なものではなかった。これらの技術は、研究室から一歩出ると、コンピュータ自身が『想定外』の環境の変化に遭遇し、容易に対処することができず、実用レベルに達しなかったのである。その欠点を解決するために、①環境の変化が生じないようにする、②環境の変化を全て予測して入力する、③環境の変化をシステム自体が認識して自分のパラメータやプログラムを変更する、の3点が考えられた。①については、工場などの環境の変化が極めて少ない場所で働く産業用ロボットの誕生につながった。2000年代に入り、ウェブを通して膨大なデータが収集可能となり、②の『環境の変化』の多くを予測するということが実際に行われている。しかし、その膨大なデータは何らかの形で処理しなければならない。それを可能にする技術として登場したのが、『人間の脳の仕組みを模した』といわれる『ニューラル(神経細胞の)ネットワーク』である。

 人間の脳は神経細胞により動かされており、神経細胞は電気信号により発火と非発火を繰り返していることがわかっている。この性質を0と1(OnとOff)の動きにモデル化(アルゴリズム化)し、さらにネットワーク化したものが『ニューラルネットワーク』と呼ばれているものである。電気信号による神経細胞の運動、そして隣り合う神経細胞同士の同時発火によるシナプス増強という『事実』、それに対しシナプス増強が脳の中での記憶の形成の鍵を握っているのではないかという『仮説』、こうした『事実』と『仮説』に基づいて工学的に設計されたデータ処理の道具がニューラルネットワークである。著者は、「ニューラルネットワークといえば、あたかも人間の脳と同じような動きをするかのように誤解しがちだが、ニューラルネットワークは、人間の脳の仕組みのほんの一部を模したものに過ぎない。身体を持たず、それゆえ『経験』することができないがゆえに、人間と同等の『認識』や『理解』には到底到達することができないのがニューラルネットワークの現状である」という。逆に、そのことを通じて、われわれ人間がものを見てそれが何かを認識するということが、単なる画像処理ということを越え、感覚を持った身体による豊かな経験に基づくものであるということが浮き彫りにされてくる。

 

【第3章】 脳はどのようにして世界を知覚するか
 では、人間は一体どうやって世界を知覚しているのだろうか。著者は、次章で「実は、『人間がどのようにものを見ているのか?』という問いこそ、最大の謎の一つ」と指摘している。人間は、外界からの情報の87%を視覚に依存しているといわれる。それほど重要な視覚であるが、身の回りの世界というものは、目に光が入ってくるだけでは『見る』ことはできず、成長とともに『見える』ようになる。そして、その成長は、積極的に『動き』に着目し、動きから『空間』を、そして『構造』を発見するという段階をたどる。「視覚は身体の運動と切り離すことができず、世界は、自ら能動的に働きかけを行うことによってはじめて『見える』ように、すなわち認識することができるようになる」のだという。

著者は、目の錯覚(錯視)を例に、外界が目の網膜上に映しだされたあと、脳の中で形成される像は、主観的な性格を持っていると指摘する。それは「主観的に世界を作り出す」能力であり、『部分』を見ただけで『全体』を想像しうる能力でもある。そして、このような能力は、変幻自在に変化する環境の中で生きて行かなければならないため獲得された能力であり、厳密に記述されたアルゴリズムがないと動作しないコンピュータには備わっていないものである

 著者は、さらに「生物一般が、環境との相互作用により、『自己』を見出し、環境との調和的な関係を作り出すことによって、この不確実な世界を生きていくことができるという。そして、それこそが生物の持つ『知能』の役割であり、知能が『生命知』と呼ばれるゆえんである」と主張する。そのことが、次章で詳しく論じられる。

 

【第4章】意識に見る人工知能の限界と可能性
 20世紀の後半に入り、すぐにでも人間を超える人工知能が実現すると考える楽観主義に対し、人間の脳が未解明の段階では無理だとする立場から批判が起こり、論争が繰り返し起こったが、そのことが人工知能の概念を深化させていった。そのような中で、アメリカの哲学者ジョン・サールは、『弱い人工知能』と『強い人工知能』という二つの概念を提唱した。

 これは、人間の知能の一部を代替する機械を『弱い人工知能』、人間のように精神を宿し、知能を持つ機械を『強い人工知能』、と呼んで区別する考え方である。『弱い人工知能』は、人間の知的活動をサポートする道具であり、既に実用化されているが、精神を宿す『強い人工知能』は、現状では実現されていない。

では、『強い人工知能』を実現するためのカギは何なのか。著者は、そのためには『精神』に関する理解が不可欠であるとし、『精神』の問題の根幹には、『認識』の問題があるという。コンピュータ(弱い人工知能)が、仮に猫の画像を認識することができても、猫を認識しているということを認識しているわけではない。それに対し、人間は、猫を認識しているという自分自身を客観的に認識できる能力を持っている。これは、形式論理学において『自己言及』(主体が自分自身について言及すること)といわれ、矛盾を含む構造を持っている。紀元前から指摘されていた『嘘つきのパラドックス (注) 』を含む『自己言及』に関する問題が、コンピュータ科学においても問題となる。しかし、著者は、人工知能研究の長い歴史の中で、「自己を認識する」という人間特有の『認識』の問題については軽視され、情報科学分野において『不良設定問題』を生じさせているという。

(注) 『嘘つきのパラドックス』というのは、次のようなものである。例えば、A氏 が『私は嘘つきだ』と言ったとする。これを命題Xとする。では命題Xは『真』か『偽』か。すなわちA氏は『正直者』なのか『嘘つき』なのか? A氏が『正直者』なら、A氏が言ったことすなわち命題Xが『真』なので、A氏は『嘘つき』だということになる。A氏が『嘘つき』なら、A氏が言ったことすなわち命題Xは『偽』でなければならず、A氏は『正直者』だということになる。このように、どちらの場合も仮定と結論が矛盾する。

 ところで、形式論理では矛盾に陥る『自己を認識する』という行為を、ヘーゲルは『意識の二重化』と呼んだ。人間の意識は、意識する主体と意識される客体に分裂(二重化)しながら、それでいて統一を保っている。この分裂した自己矛盾を内包する論理を弁証法と呼ぶ。ヘーゲルは、もっぱら精神の活動にのみ弁証法を認めたが、マルクスは弁証法を自然(人間を含む)の運動の中に見出し、「精神の弁証法」を「自然の弁証法」の内に位置付けた。前述したように、本書の著者は『弁証法』については述べていない。だがその主張している内容は、人間を含む生命体の運動は、形式論理で解明できるものではなく、弁証法に基づかなければならないことを示している。
   
 このことについて、東北大学矢野雅文氏の言葉を引用しながら、著者は説明する。これまでの自然科学は、系の時間発展を記述するために、初期条件、境界条件、パラメータがすべて既知であることを要求した。すなわち、情報が完全でなければ方程式は解けなかった。問題が解けるという意味での、情報が完全な『良設定問題』を自然科学は探求してきた。しかし、人間を含め、生物が生きている世界は、次の瞬間に何が起きるかわからない無限定で予測不可能な世界である。その中で、生命システムは、部分的で不完全な情報を頼りに、この無限定空間を生きている。これは、生物が『不良設定問題』を不断に解いていることに他ならない。では、生命システムはどうやって、どのような情報処理をしてそれを可能にしているのか、そのことと対比して、人工知能の限界はどこにあるのか。主な要点は次のとおりである。

(1)生命システムは、身体を持ち、外界に能動的に働きかけ、世界を自分と相対化して、この世界を認識している。
(2)その際、生物は、環境適応以前に、安定した内部状態を一定に維持する必要がある。その働きをホメオスタシス(生体恒常性:体温、血中酸素濃度、体内pHなどの自動調整を行う)と呼ぶ。ホメオスタシスの働きは、生物が、時々刻々変化する不確定な無限定環境を生きる上での『基準』を作り出すことであり、常に変化する環境に自己を適応させるための『意思決定』の『基準』を作り出すことでもある。その働きこそが、生命と機械(コンピュータ)の違いの根幹である
(3)弱い人工知能は、身体を持たず、実空間を生きていないので、生きていくために必要な『意思決定』の『基準』を持たない。そのため、無限定空間では『フレーム問題』に遭遇する。すなわち、数多くある事柄から、問題解決のために関係した事柄だけを枠組み(フレーム)として選び出すことができないため、意思決定に無限の計算時間を要する(爆弾処理に失敗する作業ロボットの悲劇が例示されている。ただし、囲碁・将棋のようにルールが決まったゲームや、特定作業をする産業用ロボットのプログラムでは、実行する事柄が限定されているのでフレーム問題は解決できる)。
(4)人間や生物は、周囲の全事象に注意を払うことはできないので、フレーム問題を完全に解決しているというより、うまく回避できる仕組みが備わっている。それがホメオスタシスであり、生物は体内の状態を安定に保つホメオスタシスの働きによって、自分の身体に影響を及ぼすだろう多数の可能性の自動的なランク付けをし、身体に対する良し悪しから何らかの意思決定ができるようになっているという。
(5)一方、コンピュータは、前もって与えられたプログラムによる『中央制御』方式であるため、想定外の事態に対処できない(ごみ収集ロボットが、ごみをこぼしたまま立ち去る例が示されている)。
(6)生物が持つ細胞は、一つ一つが生きており、それらが集まって、組織、器官を形成し、それぞれが自己の役割を果たしながら、全体として統制の取れた動きをするという『自律分散型制御』となっている。生命は、『自己言及システム』(矢野)により環境との調和的な関係を作り出す。このシステムは、自己を規範とし、自分自身をも認識し、環境変化にも『フレーム問題』を回避しながら柔軟に対応できる。
(7)『弱い人工知能』は、不完全情報から全体を推論できないので、数多くの教師データを学習させなければ、特定のものを正しく認識できない(『不良設定問題』)。したがって、『強い人工知能』の実現のためには、人間のように、「認識していることを認識する」『意識』を持ち、主観的にものを見たり、部分的情報から全体を推測したりすることで、『フレーム問題』と『不良設定問題』を解決しなければならない。 
 
【第5章】シンギュラリティの喧騒を越えて
 ここまで著者は、人工知能の限界について『生命知』との対比の中で考察してきた。本章では、この『生命』というものについて考察し、人間とコンピュータが共生する社会の在り方について考察する。
(1) 「生命はなぜ発生して、なぜ進化し続けるのか?」
この根源的な問いを解く鍵は、「原始地球のダイナミック(動的)に変化する環境にある」と、物質・材料研究機構中沢弘基氏の言葉を引用する。地球内部にある熱は、対流により外部に放出され、太陽からの熱エネルギーと相まって、地球規模での熱の『循環』が引き起こされる。生命の発生と進化は、この『循環』と何らかの関わりがあってもおかしくはないという。逆に、これまでの進化論は、この『循環』と切り離されて議論され、進化そのものの原動力については説明していないという。『遺伝的アルゴリズム』(第1章)をはじめとする、生物進化のメカニズムを取りいれた『人工生命』の設計思想は、この『循環』と切り離された進化仮説に基づいているため、『最適化問題を解く』以上のことができない、と指摘する。
(2) 種の定向進化則=「ある種は、誕生後、巨大化し、特殊化し、絶滅する。」
 中沢氏によれば、この進化の一般則は、個々の生物種には当てはまっても、生物界全体には当てはまらない。著者は、「ある生物種の絶滅は、より高度な組織を有する種へ飛躍的に進化するための前段階であるとも考えられる」と述べている。その最たる例として、恐竜が始祖鳥を経て鳥類へ、すなわち爬虫類から鳥類へと進化したことを挙げている。そして生物は、生命現象の誕生以来、巨大化・特殊化・絶滅と、飛躍的な進化の繰り返しにより今日に至っており、これを著者は、単に『元通りにならない』のではなく、『螺旋状の循環的な進化』(文字通りの弁証法である―― 兵庫)と表現している。
(3) 著者は、熱力学第2法則[エントロピー増大の法則 (注) ]を引き合いに出して、無生物と生物との違いを論じている。コップ内の水に一滴の醤油を落とすと均一に拡散し、勝手に元には戻らないように、無生物界では、一般にエントロピーが増大する方向へ状態変化が起こる。これは、秩序から無秩序へ、不安定な状態から安定な平衡状態へと変化することを意味している。それに対し生物は、食べ物など形あるものを壊しては自らの体内に採り入れ、自分の体の一部として再生(すなわち無秩序から秩序へと構造化)させている。これは、「まるで自然界の掟を超越している」と著者は指摘しながらも、この謎を解き明かすためのカギを『超自然的な力』に求めてはいない。

(注) エントロピー(entropy)とは、「熱力学および統計力学において定義される状態量である。統計力学において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされ・・・系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。」(Wikipedia)
 エントロピーは系の秩序性を、あるいは無秩序性(乱雑さ)を示す量と見ることができる。外部から孤立した系では、状態は時間と共に秩序から無秩序に移行する。例えば、濃度や温度差のある2つの流体を一つの系に閉じ込めておくと、2つの区別された構造(秩序)が崩壊し、区別がない状態(無秩序)に移行する。この法則を『エントロピー増大の法則』と言う

(4) 生命は、遺伝子に書き込まれた情報の解析により理解できるとする生命科学の基本的な考え方には懐疑的な一部の物理学者が存在した。著者は、シュレジンガーをはじめとする物理学者たちの考えを紹介している。そして、生命現象の特徴を、「マクロな系に秩序(生物的秩序)が自発的に出現することである」と表現する。『マクロな性質』というものは、ミクロの状態を単純に足し算するだけでは出現せず、その連鎖反応などから突如として出現する『非線形性』を持っている(著者は、形式論理の範囲内の表現である『非線形性』の概念を使用しているが、より正確に表現すれば、先に著者が引用した『螺旋状の循環的な進化』である――兵庫)。例えば、水は、水蒸気・水・氷というように気体・液体・固体の三つの状態を持つが、どの状態も水の分子を共通の要素として持ちながら、水分子間の相互作用の度合いにより3つの相の違いが生まれる。このことは、逆に言うと、要素に分解すると、全体(マクロ)の性質がわからなくなってしまうとも考えられる。
(5) 生命現象がその内部に自発的に生み出す高い秩序は、動的な秩序である。これは、無生物界でも、川の流れの中にできる渦などに見られる。水の分子は、常に入れ替わっているのに、全体としての渦の形が維持される。一方、人間の身体を構成する物質は、一か月でその90%が入れ替わるといわれているが、一カ月前の私と今の私には断絶はない。著者は、生物がより高い次元で生み出すこうした動的秩序を、第2章で登場したチューリングの考え方を紹介しながら説明する。すなわち、生命の持つ動的秩序の自己形成の働きは、エネルギーを取り込み構造化する『反応』と、形あるものが崩壊することによるエネルギーの『拡散』というふたつの現象の相互作用によるものだ、としている。
(6) 生物が行う動的秩序の自己形成は、生命現象の本質に迫るものではあるが、人間が持つ高度な知能を説明できるものではない。著者は、それを説明する第1のカギは、『身体』とその『運動』にあるという。第3章で指摘されたように、世界の認識は、自らが動き、環境との相互作用を作り出す中で生まれる。人間が持つ『脳』は、身体を持って運動を行う動物にのみ与えられたものであり、動物の脳は、その運動を複雑化、高度化させるにしたがって肥大化した、と言われる。
   著者はさらに、第2のカギとして、『コミュニケーション』を挙げている。身体の運動自体がすでに環境との相互作用(コミュニケーション)であるが、それは複雑な言語を扱うコミュニケーションに進化してきたという。
(7) 『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』
   ここで初めて、著者は本書のタイトルの問いに答える。人間であれば「体を休める」、「仕事をする」、「人と話をする」などの『意図(目的)』を持って、その目的に適した椅子を選んで座ることができる。しかし現行のAIはすべて『弱い人工知能』であり、感覚を持った身体を持たず、周囲の無限定な環境との相互作用の中で自己を認識する『意識』を持たず、主体的に『意図(目的)』を持った行為ができない(この『意図(目的)』を持つことは、人間の本質的属性である。ヘーゲルは、客観性は3つの関係を内包しているとし、『目的的関係(Zweckbeziehung)』をその最後に位置付けている)。したがって人工知能には、疲れるという感覚はなく、座るとか、休むとかいう『行為の意味』が分からず、当然、椅子が何のために存在するのかわからない。仮に、AIロボットが椅子に座れたとしても、それは人間の命令通りの動作をしているに過ぎない。これが、本書のタイトルへの解答の核心である。
(8) 結論として著者は、「私たち人間と、道具である『弱い人工知能』との関わりは、主体である私たち人間自身が、主体的に物語を生きていくかどうかによってはじめて、決定づけられる。」と述べている。『強い人工知能』の出現を待つまでもなく、人間が主体的に生きようとしないならば、『弱い人工知能』にすら支配されてしまうと警告し、「人とコンピュータが共に生きる」思想に基づき、具体的な物語を描けば、人類の発展が可能となる、と主張する。

 

【終章】情報化社会における『知』と生命
 著者は、本書を『AI万能論』に対する疑問の表明から始めたことを振り返り、『弱い人工知能』の発展がもたらす光と影について言及する。一方にスマホの普及に見られる利便性があり、他方に『情報難民』といわれる情報格差社会の形成や新たな失業問題がある。
 著者はまた、AI社会(情報化社会)は、「人々に同じような生き方をすることを益々加速させ」、「一度情報の流れに乗り遅れると、社会から脱落し、職を得ることも困難になるのではないかという強迫観念にとらわれる」状況を生み出していることを指摘している。そしてこの状況は、学問や科学者の世界の中にも形成されており、専門誌が掲載してくれる確率の高いテーマにシフトして、皆、似たり寄ったりの内容の薄い論文の量産に至っているという。
 著者はまた、車の完全自動運転には情報通信システムにおける想定外の障害という、原理的に困難な問題が横たわっていると述べ、『弱い人工知能』に対する過大評価も戒めている。
今後の展望として著者が提起しているのは、『人が主体となる情報化社会』の創造である。『弱い人工知能』と人間の『共同』によって新しいサービスを創造することができるとしている。

 

【評者のまとめ】
〇 本書は、コンピュータと人間を対比させつつ、現状の人工知能の限界を論じ、その限界が生まれる原因を探ってゆく。そして、そのことを通じて、人間の認識の仕組み、生命が持つ自己保存の知恵、ひいては、「生命とは何か」にまで迫ってゆく。本論評は、主要な論点のみの整理にとどまっており、豊富な写真や図による興味深い解説については、ぜひ本書を手に取って読んでいただきたい。


〇 既に何度も指摘したことではあるが、本書の著者は、弁証法という概念を使用してはいない。しかしその内容的は弁証法に満ちている。望むらくは、アリストテレス⇒ヘーゲル⇒マルクスによって発展させられた弁証法思想に著者が出会われ、稿を発展させられることを期待したい。

 

〇 第3章、4章を通じ、著者は人間の認識の方法の特徴について、主観性があり、正確性には欠けるが融通性があること、そしてそれは、生命体が、生命を維持する機能と深くかかわっているということを、丁寧に論証している。一方、生物一般と人間との差異についての言及が少ないように思われる。本書では、人間が他の動物から隔てられる重要な特徴としての言語や、高度な知能の発達については、身体とその運動、環境(社会)とのコミュニケーションとの関りが論じられているが、必ずしも十分ではない(第5章p238~)。言語の発生や、抽象的思考力というものについて、エンゲルスは、『猿が人間化するにあたっての労働の役割』(1876年)において、次のように述べている。

 

 労働は人間生活全体の第一の基本条件であり、・・、労働が人間そのものをも創造した。・・・
 猿から人間への移行の数千年間に、われわれの祖先たちは、徐々に自分たちの手を様々な作業に適応させることを習得していった。・・・
 手は労働の器官であるばかりか、手は労働が作り出した産物でもある。・・・

 重要なのは、手の進化が身体の他の部分に及ぼした直接の、証明できる反作用である。手の発達に始まり、労働に始まる自然に対する支配は、・・・人間の視野を拡大していった。
 労働の発達は必然的に社会の諸成員を互いに一層緊密に結びつけることに寄与した。生成しつつあった人間は、互いに何かを話し合わなければならないところまできた

・・・

 欲求はそのための器官を作り出した。すなわち、猿の未発達の咽頭は・・・音調変化を向上させ・・・確実に改造されてゆき・・・口の諸器官は区切られた音節を一音ずつ次々と発音することを次第に習得していった。
 言語が労働の中から、また労働とともに生まれたのだ。・・・

 初めに労働、その後に・・・労働とともに言語 ―― この二つが最も本質的な推進力となって、猿の脳はその影響のもとに、猿のものと瓜二つではあってもそれよりはずっと大きく、ずっと完全な人間の脳へと次第に移行していった。
 脳とそれに隷属している諸感覚の発達、ますます明晰さを増していった意識と抽象及び推理の能力の発達は、労働と言語とに今度は反作用して、この両者に絶えず新しい刺激を与えてそれらのより一層の発達を促した。・・・(下線の強調部分はエンゲルス)。

 

 今から140年以上も前の論文ではあるが、今日でもなお多くの示唆に富んだ内容ではないだろうか。


〇 第5章で著者は、生物進化の歴史には、飛躍が存在し、それが『螺旋状の循環的な進化』であることを指摘する(p221)。また、自然をその構成諸要素に分解し、それらを統べる法則性を見出すことで自然全体が理解できるとする要素還元主義を批判(p223)し、マクロな系(生命体)は、諸要素(細胞)の算術的な総和ではないこと(p223)、ミクロな状態の相互の連鎖反応の蓄積(量的変化)は、ある時点で、急激な相転移(質的変化)をもたらすこと(p226~233)、そして生命体の内部に存在する、相対立する二つの働き(反応と拡散、エントロピーの増大と減少)の相互作用により、生命活動が維持されていること(p236~238)、など『弁証法』という言葉こそ使ってはいないが、『自然は、弁証法の検証である』(エンゲルス『反デュ―リング論』)ということを、自然科学者の言葉で語っている。


〇 人間の身体や精神をDNAに還元して説明する考えが蔓延している。DNAの解析が完全に終了しても、あるDNAを持つ1個の細胞が分裂を繰り返して全体を形成するメカニズムは未解明であり、その形成された全体が如何なる運動をするのかをDNAから演繹することはできない。さらにそれらが類を成したとき、個々の生命体がもつ能力の算術和ではない能力を発揮する。これは機械論的発展ではなく、明らかに弁証法的発展である。それに対し、コンピュータは、原理的に算術和(機械的積み上げ)で作動している。


〇 「人間が主体的に生きようとしないならば、『弱い人工知能』にすら支配されてしまう」と著者は警告する。実際は、AI(弱い人工知能)を使って支配階級が民衆を支配するのである。資本家階級はAIを使って、かなりの数の労働者や職員を職場から放逐すると予想される。それをAIのせいだと諦めさせたり、生き残るスキルを身に着けるために必死に競争させたりしようとするイデオロギー攻勢が強められている。『AI万能本』が書店に溢れ、マスメディアがAIのことを報じない日はない。そして実際、コンビニやスーパーや銀行では、レジ係や行員のリストラとAI化が進行しており、医療や介護の現場にもAI化による人減らしの波がヒタヒタと押し寄せつつある。従って、このイデオロギー攻勢に的確に反撃することが極めて重要になっている。このことを著者に要請するのは無理であろう。それは弁証法的唯物論の世界観を身に着けた者の役割である。もちろん弁証法的唯物論の世界観を身に着けたAI研究者が登場することが望ましいのだが・・・。

 

〇 他方で、AIの導入によって生産性が飛躍的に増大するなら、人々の労働時間を大幅に減少させることができる。生産力の発展水準は、世界から貧困を無くし、労働時間を大幅に縮小することを可能にする水準に達している。「社会の全員に対し、物質的に十分満ち足り、その上に日々豊かになって行く生活を保障すること、・・・彼らの肉体的および精神的能力の完全にして自由な発展と活動とを保障する可能性」(エンゲルス『空想から科学へ』)が形成されているのである。
○ だが資本主義社会では、AIの導入は、技術的な考慮からだけではなく、決定的要因はむしろ利潤率向上による企業の生き残りであり、そのための人件費削減である。従って、著者の示す展望『人が主体となる情報化社会』の実現のためには、資本家によって私的に占有されているAIを労働者・勤労人民が自分たちの手に取り戻さなければならない。またそのためには、労働者階級が他の勤労諸階級を糾合して政治権力を獲得することこそが根本的な課題となってくる。つまり社会主義が問題となっているのだ。

                                                                                                              (2019.1.25)