書評:「AI vs 教科書が読めない子どもたち」(新井紀子著、東洋経済新聞社)

                                 兵庫正雄

 「AIが神になる」・・・・・ならない。
 「AIが人類を滅ぼす」・・・・・滅ぼさない。
 「シンギュラリティ(注1)が到来する」・・・・・到来しない。
 囲碁でも、将棋でも、人工知能(AI:Artificial Intelligence)を搭載したロボットが、プロのトップ棋士を倒す時代が到来した。人間がロボットに征服されてしまうのでは・・・・。そんな、巷に広がる不安を吹き飛ばすように、本書はAIに対する過大評価をいきなりバッサリと切り捨てる。著者の新井紀子氏は、東大入試に合格できるロボット「東ロボ」を作るプロジェクトの責任者であった数学者だ。

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  著者は、内閣府総合科学技術会議ICTワーキンググループ委員、文部科学省科学技術・学術審議会総合政策特別委員会委員などの委員を務めており、政府や財界との距離が近いため、本書について左翼系やリベラル系の人々からは正当に評価されていないように思われる。しかし著書はその内容に即して、また科学的に評価されるべきである。AI研究の最先端に立つ著者だからこそ、本書のAI万能論に対する批判には力があり、教わる点もまた多い。
注1)シンギュラリティ:後述の「真の意味でのAI」が人間の能力を超える地点。「技術的特異点」とも言われる。グーグルのAI開発者レイ・カーツワイルは、2045年にごく一般的なコンピューターが、地球上の全人類の能力を超越すると予測している。

 

【1】AIに対する誤解と、AIの到達レベル
 著者は、世間で使われている「AI」なる言葉は、「AI技術」と混同されており、人工知能としての「真の意味でのAI」は、まだどこにも存在していないことを指摘する。人工知能というからには、人間の一般的な知能と全く同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければならない。しかし、現存のAIはコンピューターであり、たとえば画像を認識するためにも、コンピューターは行列の計算をしているだけだ。所詮AIといえども計算機であり、計算機は計算しかできない。“人工知能”といわれるが、決して自らの意志で考える力をもっているわけではない。それどころか、人間が簡単に行う推論や比較同定すら、最先端のAIにはできないという。
 とはいえ、計算や暗記物が多い試験問題は、記録・計算・確率処理・統計処理によってAIが十分に解決できる分野だ。著者は2011年に「ロボットは東大に入れるか」と名付けた人工知能プロジェクトを始める。そして最終的に、「東ロボ」を、東大には合格できないが、MARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)や関関同立(関大、関学、同志社、立命)といった有名私立大学に合格可能なレベルにまで到達させた。

 

【2】AIがなぜ東大に合格できないのか
 2011年から東ロボは、猛勉強した(実際に頑張ったのは「家庭教師」を務めた100人以上の研究者)した結果、5教科8科目の偏差値で57.1にまで到達した。(ちなみに世界史Bの偏差値は66.3、数学ⅠAが57.8、英語は50.5、国語は49.7であった)しかし、東京大学の偏差値は77以上(受験生全体の0.4%未満)であり、前述の有名私学合格圏内とはいえ、東大には遠く及ばない。これは、コンピューターの計算の速さの問題ではないと著者は言う。コンピューターの限界を示す一例として、こんな問題を挙げている。「平面上に四角形がある。各頂点からの距離の和が一番小さくなる点を求めよ」。正解は、「対角線の交点」なのだが、スパコンを使っても一向に答えが出ないらしい。
 AI技術を構成する物体認識や音声認識において、正答率9割を達成するためには、最低数十万単位の、いわゆるビッグデータを覚えこ込まさねばならない。一方、東大合格者のセンター入試の正答率はおおよそ90%。過去の入試問題や模擬試験問題を集めてもせいぜい1000問程度にしかならず、東大合格レベルまで正答率を上げられない。大学入試では、ビッグデータは集めようがないのだ。
 著者はこのあたりが潮時だと考えている。偏差値60までは、達成可能でも、偏差値65を超えるのは不可能とみているのだ。数学者として著者は次のように説明する。コンピューターはすべて数学でできている。AIは単なるソフトウエアだからやはり数学でできている。数学が説明できるのは、論理的に言えること、確率・統計で表現できることだけなのだが、一方、人間の認識、知能をすべて論理、統計、確率に還元することはできない。しかも数学には「意味」を記述する方法がないために、AIは決して言葉の意味を理解することができない。前述のように、「対角線の交点」が回答不能だったり、偏差値が英語50.5、国語49.7と相対的に低くなったりするのは、こういう理由からだ。
著者は、東大不合格の「東ロボくん」を引き合いに出しながら、AIに対する世間の買い被りを警告し、誤解を解こうとしている。最近話題の量子コンピューターでも、量子コンピューターだからこそという本質的なアルゴリズム(問題解決手法)は、たった数種類しか見つかっていないという。
 以上から著者は、現存技術の延長線上では、AIが人類を征服する心配はないと断言する。しかしその反面、近未来には大量の失業が予測され、AI恐慌の嵐に晒されると警鐘を鳴らす。

 

【3】AIが仕事を奪う
 実は、「東ロボくん」プロジェクトの本当の目的は、東大に合格するロボットを作ることではなく、AIにはどこまでのことができるようになって、どうしてもできないことは何かを解明することだった、と著者は述べている。そうすれば、AI時代が到来した時に、AIに仕事を奪われないためには、人間はどのような能力を持たなければならないかが自ずと明らかになる、というわけだ。
 新技術が人々の仕事を奪うのは今に始まったことではない。人類の歴史はそれの繰り返しであったことは著者も認めている。しかし、AIについては、これまでの技術革新とは質的な違いを感じるという。
 本書では、オックスフォード大学のチームが予測したコンピューター(AI)化によって「10年から20年後に残る仕事、なくなる仕事」を紹介している。それによると、702種に分類したアメリカの職業の約半数が消滅、全雇用者の47%が失業する恐れがあるという。アメリカのことだと安心はできず、日本も資本主義社会だから、企業は利潤を追求する。コンピューター化で労働コストが軽減できるなら、多くの企業がそれを選択するだろう。だから、アメリカで起きることは日本でも起きると指摘している。左翼でもなんでもない著者が、イノベーションにより労働者が分断されていること、イノベーションにより代替可能なタイプの人の労働価値が急激に下がっていること、それが、最高水準の企業内部留保の下で、労働者の賃金が下がり続ける原因だと指摘しているのだ。

 

【4】人間は「AIにできない仕事」ができるか?
 前述のように、AIが苦手とするのは、「意味を理解すること」だ。従って、意味をつかみ取る能力、読解力こそAIに置き換えられない人間的能力である。ところが、日本人の読解力が著しく低下している事実が存在する。(本書を読めば、「子供たち」だけの問題ではないことがわかる)
 著者らは、東ロボくんプロジェクトをスタートさせた2011年に、「大学生数学基本調査」を実施。その結果、多くの大学生が問題文を理解できていないのではないか、そう感じた著者は、続いて小中高生と上場企業の、累計2万5000人を対象に「基礎的読解力」を調査する。その結果わかったことは、英語の単語や世界史の年表、数学の計算などの表層的な知識は豊富かもしれないが、中学校の歴史や理科の教科書程度の文章を正確に理解できないという驚愕すべき実態だった。
 英単語や年表を覚えたり、正確に計算したりすることは、AIが最も得意とする領域だ。一方、教科書に書いてあることの意味を理解することは、既に述べたようにAIは苦手である。すなわち、現代日本の労働力の質は、実力をつけてきたAIの労働力の質に非常に似ているということだ。では、AIに多くの仕事が代替された社会ではどんなことが起きるか。仮にAIができない仕事が新たに生まれたとしても、その仕事をこなすことのできる人材は不足する。その一方で、巷にはAIに駆逐された労働者や最低賃金の仕事を掛け持ちする人々があふれている。結果、経済はAI恐慌の嵐が吹き荒れる・・・・。著者は、そのような灰色の近未来に危機感を持ったことが、本書を世に問う強い動機となった、と述べている。

 

【おわりに】
 著者は、学力の中核をなすものとして読解力があるということを、各科目の偏差値との相関性から明らかにしている。学力低下の問題と読解力低下は、ほぼ同じ現象といえるだろう。読解力低下の原因や歴史的な経緯については、必ずしも明確にされていない。しかし著者は、文科省や中教審の直近の教育方針には批判的であるとともに、低所得世帯の児童の読解能力が低い傾向があるという結果も示している。教科書が読めない現状での、アクティブラーニングや、小学校からの英語教育にも批判的な態度をとり、国語(読解力)教育の重要性を強調している。本書は、AIに関心を持つ人々だけでなく、教育や子育てに携わる幅広い人々にぜひ読んでいただきたい一冊だ。
 最後に著者は、AI社会を生き延びるために、競合者のいない市場で需要が供給を上回るような商売を起業することを提案するが、それは一部の知識人だけがなせる業であろう。利潤獲得を根本原理とし、街頭に失業者をあふれさせるような社会の枠組み=資本主義体制を変える時期が来ていることを、AI問題を通じても訴えてゆく必要がある。もっともこれは、政府や財界との距離が近い著者に期待することではない。

 

「AI vs 教科書が読めない子どもたち」(新井紀子著、東洋経済新聞社)2018.2.15第1刷発行 本体1500円