核兵器禁止条約の成立とその意義 ― 反核平和運動の歴史を振り返って ―

                                                                                                               岩本 勲

はじめに
 今から73年前、広島と長崎に原爆が落とされた。今年の「長崎平和宣言」は、原爆による被害と惨状、核兵器禁止の意義と今日の課題を、次のように、的確かつ簡潔に指摘している。長崎だけでも、一瞬にして15万人が死傷し、何とか生きたのびた人たちも心と体に深い傷を負い、今も放射線の後遺症に生涯苦しみ続けている。1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器等大量破壊兵器の廃絶を国連総会第1号決議とした。そして昨年、漸く国連で核兵器禁止条約が採択された。しかし、今なお世界には1万4450発の核兵器が存在している。一方、日本政府は核兵器禁止条約に反対している。これに対して300を超える地方議会が条約の署名と批准を要求している。さらに今日、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつある。この絶好の機会を生かして日本と朝鮮半島全体を非核化する「北東アジア非核地帯」の実現に向けた努力が求められている。

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  だが、安倍首相の式典挨拶では、核兵器禁止条約について、昨年と同様に、一言も触れられなかった。長崎県被爆者協議会・田中重光会長は安倍首相に尋ねた。「広島、長崎でのあいさつで、核兵器禁止条約に一言も触れられていませんが、その真意を」と。これに対して、首相は相変わらず、壊れたレコードのように、「異なる国々の橋渡しを」、と繰り返すだけであった。田中さんは首相会見後、「心がこもっていない。爆心地に来て、条約に触れないというのは、私たちを無視しているのかと思う」と述べた。昨年、長崎平和運動センター被爆者連絡協議会の川崎浩一議長は安倍首相に「あなたはどこの国の首相ですか」と迫ったことも、まだ記憶に新しい。
 核兵器禁止条約の成立は、戦後、長期間にわたって営々として闘われてきた国際的な反核平和運動の貴重な歴史的成果である。もとより、この条約が成立しただけで、直ちに核兵器が廃絶させられることは決してあり得ない。だが、核兵器の製造・使用を含めて包括的に核兵器が国際法違反であることを明確に定めた、という意味で画期的な成果であり、今後の国際的な反核平和運動の統一目標が設定されたといえる。この条約の成果を生かすも殺すも、今後の国際的な反核平和運動の成否如何にかかわっている。
一方、かつて日本共産党は中国の核実験を擁護するために、「いかなる国の核実験反対」「部分的核停条約支持」に反対して、日本の原水禁運動を深刻な分裂に追いやった。この日本共産党とは別に今日、同条約を積極的に評価しない、あるいは過少評価する見解が存在する。中国がこの条約に賛成していないことがその理由だと言われている。だが、このような見解はアメリカ帝国主義をはじめとする核保有国や日本のような「核の傘」依存国の「核兵器禁止条約」反対を免罪するに等しい。
したがって、核兵器禁止条約の歴史的意義を明らかにするため、戦後の国際的反核運動の歴史を簡単に振り返り、そこでの理論対立と運動の成果を改めて検証することが必要となっている。


(1)ストックホルム・アピール運動
 第二次世界大戦は終わったが、早くもチャーチル英首相は1946年2月、「鉄のカーテン論」の演説によって対ソ対決を宣言し、続いてトルーマン米大統領は1947年3月、「トルーマン・ドクトリン」によってソ連封じ込め戦略を明らかにした。米欧帝国主義は、NATO(北大西洋条約機構)を結成し(1949年)、軍事的な東西対決、冷戦を明確にした。アメリカは対ソ威嚇の意味を込めた対日原爆投下の実例によって、いつでも対ソ核攻撃を行う準備のあることを誇示していた。一方、ソ連はこれに対抗して、原爆実験に成功した(1949年)。まさに核戦争の危機は現実のものとなりつつあった。
 このような時期、パリとプラハ(プラーグ)で第1回平和擁護世界大会が1949年に同時に開かれ(当時フランス政府が東側諸国の入国を認めなかったため)、戦後の国際的な世界平和運動が出発した。大会の常設機関である世界大会委員会は1950年、緊迫した国際情勢を打開するため原子力兵器の禁止と軍備縮小を要求する世界的カンパニアとして、原爆反対署名活動のストックホルム・アピール運動を全世界に呼びかけた。それは、具体的には原子力兵器の絶対禁止・原子力兵器の国際管理・原爆の最初の使用者は戦争犯罪人とする、ということ内容としていた。
 この署名は短期間のうちの世界の5億人の賛成を得ることに成功した。日本では米軍占領中であり、この署名活動は禁止されたが、それにも拘わらず非合法活動によって645万筆が集められた。
 この運動の成果は直ちに明らかとなった。1951年、マッカーサーが原爆使用をトルーマン大統領に提言したが、国際世論の非難を恐れたイギリスのアトリー首相が急遽、トルーマンの許に飛び、これを断念させた。

 

(2)原水爆禁止世界大会の開始
 アメリカの大規模な水爆実験がビキニ環礁で行われた(1954年)。これによって、焼津や高知を母港とするマグロ漁船が大量に被曝し、第五福竜丸の久保山愛吉さんが急性放射能障害で死亡したのをはじめ、乗組員全員が深刻な放射能被害を受けるという大惨事が生じた。母港で次々と陸揚げされるマグロにあてられたガイガー計数管は、まるで日本中に核実験の致命的な危険性を訴えかのように、ガリガリと高音を鳴り響かせた。
 米軍占領中は黙らされていた日本国民の怒りの声が、一挙に爆発した。そのような中で、東京杉並区の公民館に集う女性たちが始めた原水爆反対署名が、まるで燎原の火の如く瞬く間に日本中に広まり、集まった署名は3000万筆以上、このように原水爆反対の広範な世論が結集された。この世論を背景に第1回原水爆禁止世界大会が開催された(1955年)。
 これ以後、毎年夏になると広島を目指す、平和行進が全国津々浦々で行われ、街々では平和行進参加者に地域の婦人会などが冷茶で接待するなど、文字どおり超党派的な国民運動が行われた。このような全国的運動によって日本の原水禁運動は世界の反核平和運動の重要な一角を担うに至った。

 

(3)国際平和運動および国内原水禁運動の分裂
(ⅰ)いかなる国の核実験にも反対すべきか
 国際共産主義運動においては、「共産党・労働者党代表者会議の声明」(1960年、略称「81声明」)をめぐって、中ソの理論的対立が顕在化していた。ソ連を代表とする多数派は、国際平和方針の基本的綱領として、「平和共存」と「完全軍縮」を掲げたが、中国など少数派は「民族独立」を基本とすべきであるという意見であった。この対立が、国際平和運動の分裂として1962年に公然化した。
世界平和評議会(上掲の世界大会委員会の継承団体、1951年発足)は、「全般的軍縮と平和のための世界大会」(1962年)を企画したが、中国など少数の国々は「民族独立、平和、軍縮」の対案を提出し、日本共産党が指導する日本平和委員会会長もこれに同調した。翌年の「ワルシャワ大会」でも日本平和委員会は、部分的核実験停止条約(後述)はアメリカ帝国主義の核開発を隠す煙幕だと称して、これに反対する決議案を提出した。
 日本国内でも運動の分裂が始まり、第8回原水禁世界大会(1962年)において、それが顕在化した。ソ連が1961年、ベルリン危機打開のため、核実験モラトリアム(1958年、核保有国が国際条約ではなく自発的な核実験停止)を破って1メガトン級の水爆実験を行ったが、このソ連の核実験に反対すべきか否かの問題をめぐって、運動内に深刻な対立が生じた。
 問題の本質は、原水爆禁止の大衆的平和運動の立場から、「いかなる国の核実験に反対」するのか、社会主義国の核実験は容認するのか、という問題であった。この問題は、大阪唯物論研究会の内部でも熾烈な討論となった。結論は次のような内容であった。「いかなる国の核実験反対」は真面目で、自然発生的な国民感情であり、このような大衆を組織して反核平和運動を組織すべきか否かが問題の核心である。ソ連社会主義の支持者たちは核実験が防衛的であることは十分に理解できるが、もし、ソ連の核実験賛成を掲げるならば、ソ連社会主義支持者しか反核平和運動に結集できず、党派・信条を超えた大衆的な反核平和運動は成立しない。当時、ソ連は「平和共存」「完全軍縮」を掲げて国際平和運動の発展に尽力していた。もし、国際的な反核運動の盛り上がりによって世界が核軍縮と核兵器廃絶向かうならば、社会主義国も核武装・核実験を必要としなくなり、全体として核廃絶の道を大きく開くこととなる。なお、社会主義国の核実験の防衛的性格は運動の中で説明すべきである。

(ⅱ)部分的核実験停止条約をいかに評価すべきか
 「いかなる」問題に加えて、「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって鋭い対立が生じた。日本共産党は、「部分核停」が核戦争の危険にも全く何らの歯止めも与えないばかりか、アメリカの「核兵器開発」を合法化するものであるとして、これに強く反対した。だが、この見解は国際世論を冷笑し、部分核停の政治的、歴史的意義を全く無視した暴論であった。
 「部分核停」は極めて緊迫した米ソ冷戦激化の中で生まれたものである。ことの発端はキューバ革命(1959年)であったが、翌年のアメリカの対キューバ断交、アメリカに支援された反カストロ軍のキューバ上陸と撃退(1961年)、この間、ソ連ミサイルによる米偵察機U2撃墜事件(1960年)等、の重大事件が重なっていた。緊張激化の頂点は、キューバの要請を受けたソ連の中距離ミサイル配備とアメリカのキューバ海上封鎖であった(1962年)。キューバ支援のソ連船とそれを護衛する潜水艦が刻々とアメリカの海上封鎖線に接近し、世界は初めて核戦争勃発の危機に直面していることを実感した。幸い、米ソの13日間のぎりぎりの交渉で妥協に達し、ソ連ミサイル撤去とアメリカのキューバ侵攻の中止となった
 この恐怖を経験した世界の世論は、何とか米ソ核競争に歯止めをかけなければならないという願いを強くした。アメリカはそれまで、強いソ連不信のためソ連とは核軍縮を交渉に極めて消極的であったが、国際世論に押されて、核実験の制限に関して、初めて対ソ交渉に臨むこととなった。ソ連は宇宙空間・大気圏内・海中・地下の核実験の全面停止を強く主張したが、しかし、アメリカは地下実験禁止を除くことに固執し、結局、部分的核実験停止でも大気中への放射性物質の放出を減少させ、また次の全面核停への足掛かりとなり得るので、一歩前進であるとするソ連の譲歩によって、条約が誕生することとなった
 現に、この条約によって、大気圏内の核実験による残留放射物質の増加を基本的に抑えることができた。さらにその後、アメリカ帝国主義も、部分核停の合意の現実を踏まえて、米ソの核軍縮交渉が進展し、核拡散防止条約、米ソ中距離核兵器禁止条約、米ソ戦略核削減交渉SALT、戦略兵器削減条約STARTなどが締結された。

(ⅲ)原水協の組織分裂
 第9回原水禁大会(1963年)については、「いかなる国の核実験反対」「部分核停支持」を主張する総評・社会党とこれらに反対する共産党との話し合いが広島大会当日においても決着がつかず、大会は、大混乱のうちに開催されなかった。翌年、事態打開のために、総評社会党系の「被爆三県原水協連絡会議」(静岡・広島・長崎)が結成されたが、これに対して共産党は一方的に分裂主義者と決めつけ、自らは各地で第二原水協づくりに邁進した。その結果、三県連を中心に「原水爆禁止国民会議」が結成されるに至り(1965年)、原水禁運動の組織的分裂が固定化されることとなった。
なお、ソ連を含む外国代表は、「いかなる国の核実験反対」「部分核停支持」を掲げる1964年の主催の原水禁大会にも、原水協の第10回原水禁大会にも出席することを表明した。一方、中国の代表は第10回大会準備会に出席したソ連など外国代表団に「第10回大会を破壊し米帝に奉仕するためにやってきた人たち」「君たちは出て行け」と誹謗し、日本共産党の指導者達もこれに同調し、ソ連代表らの第10回大会参加を不可能にした。

(ⅳ)「部分核停賛成」「いかなる国の核実験反対」に反対する共産党の本音
 日本共産党はこれらの二つのスロ―ガンに対しては「すべての核実験と核兵器の禁止」を対置した。だが、部分核停の評価が当面の問題になっているときに、それを無視して一歩先のスローガン(すべての核実験停止)を対置し、いかなる国の核実験にも反対するかという差し迫った問題に対しては、抽象的一般的スローガン(核兵器の禁止)を対置することは、まともに大衆運動を発展させようとする見地ではなく、大衆運動を愚弄するに等しかった。
 日本共産党がこの二つのスローガンに対して、何故かくも執拗に反対したのかといえば、それはソ連の核実験を擁護するためでも、ましてや大衆的な反核平和運動の擁護のためでもなく、予定されている中国の核実験(1964年)を擁護するためであった。反ソ的立場を明確にして、この論理を明らかにしたのは、当時の日本共産党の最高のイデオローグ上田耕一郎であった。彼は、毛沢東の言葉を少しデフォルメして、誰も核をもたないのが上策、社会主義陣営が核を持つことが中策、中国が持たないのが下策とし、中国の核実験は「フルシチョフを先頭とする現代修正主義者の国際的潮流によって、ソ連の核政策がわい曲、アメリカ帝国主義の核脅迫の前に中国が『下策』の状態に突き落とされる危険に直面した事態の中で行われた」(『文化評論』1965年4月号)と述べた。

(ⅴ)日本共産党の中国支持からの一転離反
 だが、1966年の日本共産党団の訪中を機として、中国共産党のエピゴーネンとしての日本共産党の立場は一転する。毛沢東と宮本書記長との会談で、毛沢東は対米危機感を語り「戦争で一億や二億犠牲になっても大したことはない。日本の人口はいくらか」と聞き、また「日本の情勢も危険だ、あなた方も準備しておかないと殲滅的な打撃を受ける恐れがある」と日本共産党の対米闘争の弱腰をなじったようだ。これに対して、宮本書記長は「われわれは極左冒険主義の誤りは絶対に繰り返さない」と答えた(小島優編「日中両党会談始末記」)。このやり取りから、毛沢東が日本共産党に極左冒険主義(1950年代の武装闘争を含む反米闘争)を強制した、と推測される。帰国した宮本書記長は早速、党内の中国派を除名し、日中両党間の蜜月は終わりを告げた。
 だが、日本共産党は「いかなる」及び「部分核停」については、一切自己批判することはなく、今日では「いかなる国の核実験に昔から反対してきた」かのように振舞っている。その後、日本共産党は、反ソ連、反中国の見地から、中ソの核開発が「単純に防衛的上余儀なくされたものとは見られぬ」という評価替えを行った(岡崎万寿秀「原水禁運動の原点と『いかなる国・・・』問題」(「赤旗」1973.8.4)。この評価の変化は、露骨な反社会主義国という意味で、いっそう悪質なものであった。
 このような変化は実は、原水協が1973年に原水禁との組織統合、つまり事実上の原水禁の吸収合体を提案するための理論操作であった。だが、原水禁で実際の闘争している下からの強い批判のもとに、この提案は粉砕された。とはいえ、総評・社会党が存在しない現在、「連合」自身が原水禁を重荷としている現状で、再び原水協の原水禁吸収合同策が台頭する兆候は見逃せない。

 

(4)核拡散防止条約(NPT)
 核拡散防止条約が1963年、国連で採用され、1968年に62カ国の調印が行われ、1970年に発効した。条約は5大核兵器国にのみ核兵器保有を認める不平等条約ではあるが、その代償として核保有国は核軍備競争の速やかな停止と核軍縮条約の交渉に入ることを義務とした(第6条)。ただし、核保有国は核軍縮の義務を厳守せず、米ソの限定的な核軍縮が行われたのみである。NPT参加国以外では、インド、パキスタン、イスラエル、朝鮮民主主義共和国(条約脱退)が核保有国となった。現在では世界で、約15000発余の核兵器が存在している(露7000、米6800、仏300、中270、英215、パキスタン130~140、印120~130、イスラエル80、朝鮮共和国10~20、2017年7月、ストックホルム国際平和研究所発表)。
 日本政府は、NPT参加に逡巡を重ねた。日本政府の基本方針は一貫して、当面は核武装はしないが、核保有の潜在能力を維持することによって抑止力の一端とする、というものであるからだ。しかし、国内外の世論に押されて日本政府も1978年、同条約の批准を余儀なくされた。但し、日本政府は署名にあたり、条約脱退の権利を留保し(条約第10条)、日米安保が存続することを条約参加の条件とした。
NPTはその実施状況を監視するために5年ごとに再検討・延長会議が行われるが、1995年に条約の無条件・無期限延長が決定された。2000年NPT再検討会議において、非核保有国のイイニシャティブによって、核軍縮の義務、非核国への核兵器使用禁止、核兵器の全廃、等を定めた最終文書が採択された。だが、2005年の会議では核保有国と非核保有国の鋭い意見対立で最終文書は出されなかった。2015年再検討委員会は主として、2000年最終文書の履行を求めることとしたが、非核保有国と核保有国・「核の傘」依存国との対立によって、最終文書をまとめ得なかった。なお、再検討委員会準備会には長崎、広島の市長が参加するなど、両市の市長の活動も注目すべきである。
再検討委員会は、何らの決定権を持つものではないが、それにも拘わらず、非核保有国の諸努力を結集する場として極めて重要であり、核兵器禁止条約の成立の国際世論を形成するうえで、大きな影響力をあたえるものとなった。
 
(5)包括的核実験停止条約(CTBT)
 包括的核実験停止条約が1996年、国連総会によって採択された。この条約は、地下核実験を含むすべての核実験を禁止するものである。2016年段階で署名185カ国、批准164カ国だが、アメリカ、中国、エジプト、イラン、イスラエルの5カ国は署名・未批准、朝鮮共和国、インド、パキスタンの3カ国は署名もなし、このため、条約は未だ発効していない。なお、発効要件は(44カ国)は、ジュネーブ軍縮会議構成国であって、IAEAの表(原子力発電炉かつ研究用原子炉を有する国)のすべての国の批准である(以上、外務省情報)。

 

(6)核兵器使用の違法性に関する法的見解
 核実験や核兵器の制限に関する国際的条約の整備が徐々に発展すると同時に、核兵器使用の違法性についても、法律的な規制の必要性が認識され始めた。
(ⅰ)東京地裁判決(1963年)
 核兵器禁止を最初に裁判所判決として下したのは東京地方裁判所であった。裁判は、広島で被爆した下田隆一氏が国家賠償を請求したものであった(シモダ・ケース)。判決は、アメリカの戦争行為を日本の国家賠償責任として問うことは限界ありとして国家賠償責任を退けたが、しかし、「ハーグ陸戦条約・陸戦の法規慣例に関する規則」(1907年)の次の条項に基づいて核兵器使用は国際法違反とした。
 「交戦者ハ、害敵手段ノ選択ニ付、無制限ノ権利ヲ有スルニアラス」(第22条)、具体的には、「不必要ナ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」を禁止(第23条ホ)、「防守セサル都市、村落、住宅又ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又はハ砲撃スルコトヲ得ス」(第25条)。
 当時、原爆の違法性を決定した内外の判例はなく、弁護団も裁判所も悩んだ。しかし、さらにもっと深い悩みは、裁判の法理論構成よりも政治情勢であった。当時の裁判官の一人は当時を振り返って正直に述懐している。「核兵器の良しあしを言うこともはばかられる時代。米国の戦闘行為を糾弾するのは度胸がいった」(「毎日新聞」2018.7.6)。
 この勇気の甲斐があって、同地裁判決は、その後、核兵器禁止に関する法理論構成に大きな影響を与えた。同判決は、次に指摘する国際司法裁判所判の核兵器使用禁止勧告が決定される際に参考にされたし、今回の核兵器禁止条約の交渉会議においても参考判決として取り上げられた。

(ⅱ)国際司法裁判所勧告(1996年)
 もとより、東京地裁判決が直ちに国際的に認知されたわけではなかったが、国際反核法律家協会(1988年結成)は1989年、核兵器の国際法違反を宣言した。同協会の働きかけで、世界保健機構(WHO)は1993年、国際司法裁判所に(ICJ)に核兵器の使用が国際法違反か否かについての勧告的意見をICJに求めた。だが、ICJはそのような勧告審議は権限外とした。だが、国連総会が1994年、同様の勧告を求める決議をしたため、ICJは勧告を行わざるを得なかった。その結果、1996年にICJ勧告が決定され、それは様々な内容を持つが、結論は次のようなものであった。なお、この勧告は、7対7の同数であったが、裁判長(アルジェリア)の決定で採択された。
 「核兵器の使用を禁止した条約は存在しないが、戦時国際法や国際人道法の規則に従ってた結果、「それらの必要から、核兵器の威嚇または使用が、一般的には武力紛争に適用される国際法の諸規定、特に国際人道法の原理と規定に反することとなる。しかし、国際法の現状及びこの法廷が把握できる事実の諸要素に照らし、国家の生存そのものがかかっているような極限的な自衛情況での核兵器による威嚇や仕様が合法化否かについての明確な結論を出すことはできない」
 この勧告が成立に際して最も否定的な役割を果たしたのが、日本出身の裁判官と日本政府であった。日本政府は1995年、「核兵器の使用は違法とまでは言えない」との趣旨の陳述書をICJに提出していた。だが、国内で強い批判が起こり、政府はこの部分を削除した。だが、外務省は、核兵器使用が違法である旨のICJ証言を予定していた広島・長崎市長に協議を求めた。当時は村山社会党首班内閣であり、野坂官房長官は外務省の態度を批判した。結局、広島・長崎の両市長はICJで原爆使用の国際法違反を証言した。しかし、日本政府代表は、原爆使用違法性に言及しないばかりか、わざわざ両市長の証言は「必ずしも政府の見解を代表するものではない」と付け加えた。これを傍聴していた被爆者代表は「日本政府の最後の言葉に一番腹が立った。これが被爆国の日本人の言うことか。日本政府は人間ではない」(「毎日新聞」1996.11.8)。
 小田滋裁判官もまた、ICJ勧告を行うこと自体にさえ、裁判官14人中でただ一人反対し、また上記の勧告の最終結論にも反対した。

 

(7)核兵器禁止条約(2017年)
 核兵器禁止条約が7月7日、国連において122カ国(国連加盟国は193カ国)の賛成によって成立した。50カ国の批准書寄託(2017年9月20日より受付開始)によって発効する。条約反対は核保有諸国(米・英・仏・露・中、印、パキスタン、イスラエル、朝鮮共和国)と「核の傘」依存諸国(日、韓、独、等)である。
 この条約の正式名評は、「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用禁止並びにその廃絶に関する条約」である。この名称が示す通り、核兵器禁止に関する包括的な禁止条約である。
 その前文は今日の核兵器の全般的禁止の意義と目的を次のように指摘している。核兵器使用が破局的な人道上の結末を招くことへの深い懸念、核兵器の全廃こそが核兵器使用を防ぐ唯一の道であること、ヒバクシャと核兵器開発に起因する先住民の被害への深い認識、人道法等の国際条約の順守、核兵器による威嚇の防止、害敵手段の制限、経済的資源の軍備への使用の制限、平和と軍縮教育の必要性、核兵器禁止条約の普及と推進の必要性、等。本文では、核兵器の開発・実験・製造・生産・獲得・保有・貯蔵・移譲を禁止し、核兵器保有国は後戻りをしない形で即時に核兵器を破棄すること、核兵器の使用や実験で被害を受けた者は医療的・経済的補償を行うこと、等々を定めた。
 この条約は、長年にわたる国際的反核平和運動の目標を、包括的に国際条約の形で集約したものである。特に、これまでの国際条約では言及されなかった、ヒバクシャや先住民の被害への深い認識にも注目したい。もとより、この条約が簡単に発効することはあり得ない。
 条約批准国は2018年7月現在で、14カ国、調印国は批准国を含めて61カ国にとなっている。批准国が未だ少数にとどまっているのは、アメリカをはじめ5大核保有国の有形、無形の圧力が推測される。しかし、それにも拘わらず、ベネズエラ、ベトナム、パレスチナ、パラオ、ニカラグア、コスタリカ、キューバなどが批准を済ませていることに注目したい
 この条約の成立の最大の功労者のNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のノーベル平和賞授賞式には、米・英・仏・露・中の駐オスロのノルウエー大使がいずれも欠席したことが報じられた。あまりにも不寛容であり、それ以上に未批准国に対する無言の圧力とも読み取れる
 闘いはこれからである。昨年12月のオスロでの平和賞授賞式で演説したサーロー節子氏ら内外の被爆者が2016年4月に始めた、核禁止条約を求める「ヒバクシャ国際署名」は昨年10月で515万人を記録し、これを国連に提出した。国内署名は被爆者団体を中核として、原水協と原水禁はこの問題では地域ごとにブリッジ共闘し、日本被団協の集計によると、昨年12月の段階で、都道府県・区市町村の計1788自治体のうち54.64%にあたる977自治体で、20人の知事を含む首長が賛同署名を行った。東京電力福島第一原発事故で被災した福島県飯館村や原発立地自治体の茨城県東海村などの首長も署名し、長野県、香川県では県を含む全自治体から賛同署名が寄せられた。署名活動は、日本被団協やICANに参加するNGO「ピースボート」などは、国内44団体のほか、24都道府県に設置された地域連絡会において運動を展開している。署名活動はインドやアメリカにも広がっている(「朝日新聞」2018.5.25)。

 

(8)北東アジア非核地帯(3+3案)の設置の意義
 日本における独自な反核運動の目標として、「北東アジア非核地帯」の設置を求める運動の意義がとその展望について、改めて真剣の検討するべき好機が訪れている。それは、朝鮮半島情勢の根本的転換の可能性が見え始めたからだ。もとより、アメリカが朝鮮戦争に関する平和条約を承認し朝鮮共和国の安全を保障するのかという核心的問題において、未だ明確な展望が示されていない現在、情勢についての楽観的な見通しは許されない。
 いずれにせよ、朝鮮半島の非核化を含めて、北東アジアの安全保障をいかに確保するかという全体的な構想にとって、北東アジア非核地帯設置は重要な意義を持つものである。
 この構想とは、「日・韓・朝3カ国非核化と米中露3カ国が非核地帯3国を核攻撃しない、という誓約を条約化すること」を内容としている
 この原型はモンゴルの非核宣言にある。モンゴルは国内において核兵器の製造・持ち込み等を禁止する宣言を行い、核兵器保有5カ国がモンゴルに対して核攻撃を行わない、という誓約を行った。
 日本政府といえども、非核3原則の建前上、「北東アジア非核地帯」設置に反対する正当な理由を挙げがたい。それにも拘わらず、日本政府がすんなりとこれを受け入れるはずがない。これを承認したならば、「核の傘」論の論拠は吹っ飛ぶし、ひいては日米安保条約の根拠も揺らぎかねないからである。だからこそ、逆に、「北東アジア非核地帯」設置のスローガンの重要性が浮き彫りにされるのであり、運動の力でこれを日本政府に押し付けなければならないのである。
 「北東アジア非核地帯」設置案について、本論の冒頭に示した通り、近年の「長崎平和宣言」の主張のうちの核心の一つである。「日本非核宣言自治体協議会」事務局(長崎)が明らかにしている、最近数年の主な動きは次のとおりである。モンゴルは2013年の国連総会で、北東アジア非核地帯の実現可能性などを検討する作業を「北東アジアの国々と行う準備ができている」と支持を表明した。広島・長崎市長は2014年、540を超える日本国内の自治体首長の署名とともに「北東アジア非核地帯」設置を求める声明を国連連事務総長に提出した。アンジェラ・ケイン国連軍縮問題上級代表が2015年、非核兵器地帯をテーマにした国際会議において「可能性のある3つに地域」の一番目に北東アジア非核地帯を挙げた。このほか、長崎大学核兵器廃絶研究センターでは最近、毎年の如く国際的なワークショッを開催し、研究を深めている。世界の非核地帯の実例とその特徴は次のとおりである。
 5大核保有国のうち、中・露・仏・英が批准しているも拘わらず、アメリカが批准していない条約がペリンダバ・ラロトンガ・セメイの3条約にのぼり、アメリカの消極的態度が浮き彫りになっている。北東アジア非核地帯設置についても、一朝一夕には成功を望めないことは言うまでもないが、しかし、その実現に向けての不断の努力が不可欠となっている。

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おわりに
 いうまでもなく、現在進行中の米朝首脳会談が成功したならば、米・朝・韓の平和条約が成立し(米中は1979年1月に国交正常化)、朝鮮半島の非核化に現実的な展望を与える。このような条件が整えば、日本は相変わらず、韓国を朝鮮半島唯一の正当政府としている(「日韓基本条約」1965年)ことは最早不可能である。日本政府といえども、日朝国交正常化問題に正面から立ち向かわざるを得なくなり、「拉致問題」を口実に、日朝国交正常に渋るなら、国際政治における孤児とならざるを得ない。日朝国交正常化が実現すれば、「北東アジア非核地帯」設置の諸条件も根本的に前進することも間違いない。
 国際的な連帯活動としての核兵器禁止条約を核保有国と日本政府に批准させること、朝鮮半島における米・朝・韓平和条約締結と朝鮮半島の非核化の実現を支持・推進させること、北東アジア非核地帯を設置させること、これらを三位一体のものとしてとらえることが、今日的課題だといえよう。(2018.8.18)