「10月社会主義大革命の100年についての ギリシャ共産党(KKE)中央委員会の声明」

                                川 下 了

 この文書は、ギリシャ共産党中央委員会が発表した「10月社会主義革命の100年についての声明」について、研究会で筆者が報告した際のレジュメです。報告本文はPDFファイルで本ブログで公開しています。

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 (1)国際共産主義運動における路線論争
① KKEの声明を取り上げる理由
○ KKEが国際共産主義運動において占めている位置の大きさにあります。
○ 今日、共産主義政党を名乗っていても、マルクス・レーニン主義を堅持している政党はそう多くはありません。先進資本主義国においては、日本共産党のような党がむしろ多数となっています。
○ ソ同盟の崩壊と並行して、国際共産主義運動は大混乱に陥り、少なからぬ共産主義政党がマルクス・レーニン主義を放棄し、社会民主主義政党に移行しました。KKEも例外ではなく、1991年に党の書記長を先頭に45%の中央委員が離党して左派社民政党に移るという厳しい試練を経験します。
○ その試練を克服して、KKEは党勢を回復し2015年の国民議会選挙で15議席(得票率5.55%)を獲得しています。
○ 国際共産主義運動の再結集についても、第1回共産党・労働者党国際会議の開催(1999年)に中心的役割を果たしたのがKKEでした。


② 1970年代に始まっていた国際共産主義運動の崩壊
○ 国際共産主義運動の崩壊は、ソ連崩壊の20年前に始まっていました。
○ 1968年、資本主義的自由化に踏み出したチェコ・スロバキアに、ワルシャワ条約機構の軍隊が進駐して党と政府の幹部を更迭した「チェコ事件」が起こりました。各国のブルジョア権力は、これを最大限利用して、大々的な反共攻撃を展開しました。各国の共産党・労働者党、とりわけ欧州の党に大きな動揺が広がりました。
○ この混乱の中で、先進資本主義諸国で大衆的基盤をもっていたフランス共産党、イタリア共産党、スペイン共産党が相次いで、①暴力革命の放棄、②プロレタリア独裁の否定、③民主集中制の廃止を打ち出しました。これはマルクス・レーニン主義の放棄を意味していました。この3党が中心となり、ユーロ・コミュニズムと呼ばれる国際共産主義運動における一潮流が形成されました。
○ 同じころ、日本共産党もまたマルクス・レーニン主義の放棄を宣言しました。同党は、1976年7月の第13回臨時党大会で、「プロレタリアート執権の確立」(同党はそれ以前に「独裁」を「執権」と置き換えていました)と「マルクス・レーニン主義」の語句を、綱領および規約から削除しました。ただし、日本共産党は、民主集中制の原則だけは放棄しませんでした。
○ ソ同盟の崩壊と並行して、ユーロ・コミュニズムの諸政党は、組織分裂や著しい離党者を出してその影響力を低下させました。ユーロ・コミュニズムの破綻でした。


③ 戦後の国際共産主義運動における路線論争[1]
○ 50年代末から70年代半ばにかけて、中ソ論争が繰り広げられました。中華人民共和国建国後、ソ同盟の全面的援助によって中国の重化学工業の基盤が形成されましたが、毛沢東の大躍進政策によって社会主義的生産関係は著しく棄損してしまいました。これは社会主義建設をめぐる2つの路線の対立であり、労働者階級の指導性の下での中央計画経済による社会主義建設か、それとも小ブルジョア的・手工業的社会主義建設かをめぐる路線論争でした。
○ 中ソ論争は、社会主義建設の方法論をめぐる論争に止まらず、反帝国主義闘争における路線論争でもありました。ソ同盟共産党と多くの共産党・労働者党は平和共存路線を掲げ、熱核戦争を阻止するための闘いを国際政策の中心に据えたのに対して、毛沢東は、「アメリカは張り子のトラであり、恐れるに足りない。」、「平和共存路線は帝国主義への屈服だ。」として、これに反対を唱えるだけでなく、自らの核武装を追及しました。
○ われわれは、この中ソ論争において、断固としてソ同盟を支持して、中国共産党に追随した日本共産党指導部への厳しい批判を、理論闘争と大衆運動の両方において展開しました。


④ 戦後の国際共産主義運動における路線論争[2]
○ 70年代の後半からソ同盟の崩壊まで、ユーロ・コミュニズムをめぐる路線論争が国際共産主義運動において繰り広げられました。前述したように、日本共産党を含むユーロ・コミュニズムの潮流は、マルクス・レーニン主義を右翼的に歪曲する現代修正主義でした。
○ われわれは、共産主義運動における主要な危険がユーロ・コミュニズムであるとみなし、これとの系統的な闘争を展開しました。
○ ソ同盟の崩壊と共に、このユーロ・コミュニズムは半ば空中分解してしまい、その多くが社会民主主義政党に変質してしまいました。
○ われわれの隊列の中からも今日の民主主義的社会主義運動(MDS)のような社民主義政党化したグループが生まれました。


⑤ 異常に困難な国際共産主義運動の再建
○ 今日報告する「ロシア社会主義革命100年についてのKKEの声明」も述べているように、「国際共産主義運動が危機と衰退の中にある今日」、マルクス・レーニン主義の生命力と権威を復活させ、真の共産党を再建するという任務は途方もなく困難な仕事です。マルクス・レーニン主義について語ることが、何か宗教集団に所属しているかの印象すら抱かせる今日の思想状況の中で、不断に、意識的に、マルクス・レーニン主義に対する関心をかき立てることなしには、マルクス・レーニン主義者に留まることはできません。いかに困難であっても、われわれはこの道を歩み続けなければなりません。


(2)国際共産主義運動における理論的混乱の源泉
① ユーロ・コミュニズムはどこから生まれたか
○ ユーロ・コミュニズムは、帝国主義諸国の労働運動が体制内化していったことを直接の土壌として発生しました。労働運動の体制内化は、改良闘争の諸成果と帝国主義的途上国搾取のお零れによって労働者階級の生活水準が一定改善されたことによって生み出されました。
○ しかし理論的源泉としては、もっと先に遡ることができます。1960年の「81カ国共産党・労働者党の声明」は、「国際共産主義運動の総路線」とも言われた歴史的文書です。それは、「資本主義の全般的危機の第3段階」における世界情勢の認識と、そこから生まれる国際共産主義運動の戦略と戦術を定めたものでした。
○ ユーロ・コミュニズムは、この「81声明」を右翼的に解釈することによってマルクス・レーニン主義を修正したのです。われわれは、「81声明」を支持し、それに依拠して闘ってきました。今日の時点に立って考えると、「81声明」には、右翼的解釈を許すような曖昧さが含まれていたと結論せざるを得ません。


② コミンテルン第7回大会の政策転換
○ 「81声明」は、平和共存、議会を利用した社会主義への接近の可能性、発展途上国の非資本主義的発展の可能性、それらを可能にする3大革命勢力(社会主義世界体制、国政労働運動、民族解放闘争)の統一行動などを主要な内容にしていました。もちろんそれらは、平和共存以外は可能性であって、社会主義革命が暴力的形態をとる可能性も指摘されていました。
○ 「81声明」の路線は、レーニンの社会主義革命路線とはかなり異なったものであり、コミンテルンの第7回大会以前の路線とも大きく異なるものです。「81声明」が、統一戦線戦術を始めとして、コミンテルンの第7回大会で決められた国際共産主義運動の戦略・戦術から多くのものを引き継いでおり、「81声明」の理論的曖昧さは、コミンテルン第7回大会路線の曖昧さへと遡ることができます。
○ コミンテルン第7回大会の路線転換は、ドイツにおけるヒットラーの政権奪取(1932年末)によるファシズムの脅威によって呼び起こされたものでした。
○ 第7回大会路線は、第6回大会路線と著しく異なっていたのに、第7回大会は、第6回大会路線が誤っていたとは明言していません。第6回大会で決定されたコミンテルンの綱領は、そのまま残されました。従ってこの2つの異なる路線が併存していたとも言え、第7回大会路線が多義的に解釈される余地を残しました。
○ 2つの路線の違いはまず、(1)帝国主義戦争に対する態度です。第6回大会路線は、「帝国主義打倒を主張しない反戦運動はブルジョア平和主義だ」として厳しく批判するというものであり、第7回大会路線は、「社会主義に対する態度に関係なく、戦争に反対する広範な反戦運動を組織する。」というものです。但し戦争が始まったなら、「帝国主義戦争を内乱に転化する」という方針は再確認されています。
(2)社会民主主義に対する態度では、第6回大会路線は、「社民主義は双子のファシズムであり、左翼社民はより悪い役割を果たす。」というもので、第7回大会路線は、「社民主義の中に分岐が現れ、左翼社民主義は反ファシズム統一戦線の対象となる。」というものです。ただし左翼社民主義への批判は継続しなければならないとも言います。この2点だけとりあげても、第6回大会路線と第7回大会路線は著しく異なっており、この2つの路線が併存することは混乱の極みと言えるでしょう。


③  第7回大会以後のより大胆な路線転換
○ コミンテルン第7回大会は大きな路線転換でした。しかしその後のコミンテルンの路線転換に比べると、小幅な転換であったとも言えます。第7回大会は、「帝国主義戦争には絶対反対」「自国帝国主義を支持しない」という原則を守りました。しかしその後、(1)ソ同盟が連合国側に立って参戦するに及んで、コミンテルンは連合国側の帝国主義戦争に反対しなくなったばかりか、「反ファシズムの解放戦争」として積極的に協力するようになります。(2)左派社民勢力だけでなく、反ファッショ・ブルジョア政党とも協力関係に入り、一部で反ファッショ・ブルジョア政権に入閣しさえしました。このことは、第2次世界大戦終了後、ソ連軍進駐地域以外の先進資本主義諸国で社会主義革命が出現しなかったことと深く関係しています。
○ ここで皆さんにも考えて頂きたいのですが、「帝国主義戦争には絶対反対」「自国帝国主義を支持しない」という原則と、「反ファッショ陣営に属する帝国主義諸国の人民は、自国の反ファッショ戦争に積極協力する。」という方針をどう統一的に捉えれば良いのでしょうか? 国際共産主義運動では、「ソ同盟が反ファッショ陣営に加わって参戦したことによって戦争の性格が変わった。」という論理が用いられました。すなわち「第2次世界大戦は、第1次世界大戦とは異なって、ファシズム対反ファシズムの戦争であり、反ファシズム陣営の戦争は正義の戦争である。」と。しかし、この戦争においても、アメリカやイギリスは帝国主義でなくなったわけではありません。その本性は、2発の原爆投下が如実に物語っています。従って「反ファシズム陣営の戦争は正義の戦争である。」という命題は、決して正しいとは言えないでしょう。皆さんなら、どう考えますか?

 

(3)KKEのロシア社会主義革命100年の見方
  以上のような国際共産主義運動における路線論争を念頭に置いて、KKEの「ロシア革命100年」を見て行きます。時間の関係上、幾つかの点に絞って問題提起を行います。
① 20世紀の最高に歴史的価値のある出来事
○ 「資本主義は決して打ち勝ちがたいものではないことを証明し、人間による人間の搾取がない社会組織の最高の形態を我々は建設することが出来ることを証明した。」として、その歴史的意義を強調します。ブルジョア思想家たちは、社会主義ロシアを暗黒史として描き出します。ソ同盟の客観的な姿を伝えることは極めて重要です。
○ 「KKE声明」は、「社会主義革命における労働者階級の特別な役割を確認し、さらにそれが「経済的に活動する住民の中に占める彼らの割合によって決まるのではなくて、新しい社会主義的生産諸関係の担い手であることによって決まる」ということを強調しています。この指摘も極めて重要な点ですが、国際労働運動が衰退している現状では、このことの意味を実感することが困難になっています。今日の停滞から脱して、労働者階級が他の勤労諸階層を糾合して多数派を形成するための方策を「KKE声明」は示すことができていません。この点では物足りません。


② 現代における社会主義の必要性、切実性、現実性
○ 「KKE声明」は、現代における社会主義の必要性、切実性、現実性について述べています。このこと自体は正しい主張なのですが、内容が抽象的に感じらえます。それは、「KKE声明」が独占資本主義の一般的特徴を列挙して、そこから社会主義の必要性や切実性を導き出しているからだと思います。現代帝国主義の陥っている全般的危機の今日的特質を暴き出し、それに対抗する闘いを浮き彫りにすることが必要でした。
○ KKEは、マルクス・レーニン主義政党(共産主義政党)が指導権を握っていない諸闘争を過小評価する傾向があります。社会主義革命を成功裏に導くためには、共産主義政党が指導性を発揮することが必須条件です。ところが現実は、KKEも認めているように、「国際共産主義運動は危機と衰退の中にある」のですから、指導性を発揮できる状態にはありません。それでも現実の深刻な矛盾は、様々な反帝闘争と反資本主義闘争を生み出します。それが非共産主義政党の指導の下に闘われていても、積極的に評価してその闘争に連帯し、その中で真の出口を指し示して指導性を発揮できるようにするのが共産主義政党の任務であるはずです。しかしKKEは、ベネズエラの反帝・反寡頭制の人民運動を積極的に評価しない態度をとり続けています。その姿勢が、「KKE声明」の迫力不足と抽象性の一因になっていると考えられます。


③ 労農同盟の意義
○ ロシア革命は、住民の中での少数派であった労働者階級が、多数派であった農民と同盟関係を築き、その同盟を通じて指導性を発揮したことによって勝利を確実なものにすることができました。2月革命から10月革命に至る全過程において、また10月革命後の社会主義建設においても、同様のことが言えます。従って、ロシアにおける労農同盟の問題を研究することは極めて重要です。
○ 今日、先進資本主義諸国では、農林水産業に従事する人々は、全住民の中で少数となっています。その代わり、第3次産業の肥大化とそこにおける小ブルジョアジーや中間層の厚い層が形成されており、労働者階級と小ブルジョアジーや中間層との同盟問題は、避けて通ることのできない問題であり、ロシア革命における労農同盟の経験から多くのことを学ぶことができますし、学ばなければなりません。
○ 「KKE声明」は、労農同盟の重要性を指摘しつつも、「『プロレタリアートと農民の民主主義的独裁』は、専制独裁制の破壊についての唯一の望みでありえたが、しかしそれは社会主義についてではなかった。レーニンは、革命の発展の程度に応じて、労働者と農民の同盟そのものの内部の、権力内部の闘争が先鋭化するだろうし、結局のところ、小ブルジョアジーに対するプロレタリアート的分子たちの勝利と「プロレタリア独裁」への移行を目的とする、労働者階級の中農及び富農からの完全な分離がもたらされるだろうことを予見していた。」と述べることによって、民主主義革命においては労農独裁が必要かつ十分な条件であったが、社会主義革命においてはプロレタリア独裁が必要かつ十分な条件であったと結論づけています。
○ ここでのKKEの労農同盟とプロレタリア独裁についての理解に混乱があるように思います。確かに、レーニンが「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」という表現を用いたことがありますし、民主主義革命と社会主義革命とは、その担い手である階級の構成が変化するのも間違いありません。しかしそれは、労農独裁からプロレタリア独裁への移行と捉えるべきではないと思います。プロレタリア独裁の核心は、「労働者階級だけが、その社会経済的地位により勤労被搾取者の全大衆を指導することができる階級(ヘゲモン)である」という点にあり、このヘゲモニーは他の階級と分有することができません。しかし社会主義革命と社会主義建設は、多くの場合プロレタリアート単独で実現できるものではありません。そこでは階級同盟が問題になります。労農同盟の下でも、プロレタリア独裁は貫徹されます。そしてそこでのプロレタリア独裁は、主として強制によるものではありません。
○ 10月革命後に、「中農が急速に分解して貧農と農村プロレタリアートが農民層の多数を形成し、プロレタリアートとの強固な同盟を形成して社会主義建設にまい進する」という展望をレーニンとボリシェヴィキが抱いた時期がありました。しかし現実にはそのようにならず、むしろ中農が増加しさえしたのです。そこでレーニンは、中農との長期の同盟を基本とする戦略を打ち出します。それが新経済政策(ネップ)でした。
○ 周知の通り、スターリンは1929年にネップを終了させ、急速な農業集団化を図りました。「KKE声明」は、このスターリンの路線転換を、「社会主義勢力の攻勢の始まり」と規定して肯定的に評価します。しかしこの強制的農業集団化は、レーニンの諸原則からの明確な逸脱であり、それ以降の社会主義建設に大きな負の遺産を造り出しました。レーニンは、「農民自身がその自由な発意によって実施し、農民が実際にその利益を確かめた結合体だけが貴重なのである。」と述べています。社会主義は、生産力を発展させたり、失業を無くしたりするだけでなく、諸個人の自主性と主体性が発揮される人間関係が形成されて初めて、本来の発展が可能となるシステムなのです。ここでの躓きが社会主義の初期段階から次のより発展した段階に移行するときの困難を生み出したのでした。


④ 20世紀の国際共産主義運動の戦略
○ 「KKE声明」は、「コミンテルンが存在した全期間を通じて、10月革命の肯定的経験は、優勢にならなかったし習得されもしなかった。」と言います。何をもってこのような断定をしているのかはっきりしませんが、「社会主義権力のための過渡的権力として、ブルジョア権力とプロレタリア権力の間の、ある中間的タイプの権力或いは政府を目標に設定する戦略的概念が著しく優勢となった」ことがその理由のようです。その直後に、「ソ同盟の対外政策の努力の総体は、コミンテルンの路線の重要な諸転換や諸変化と結び付いたが、それらは後続する数10年間における国際共産主義運動の進行に否定的影響を与えた。」とありますので、おそらくはコミンテルン第7回大会(1935年)の路線転換を指しているものと思われます。
○ コミンテルン第7回大会の路線転換とその後のより大胆な路線転換についての疑問については、既に述べました。しかし報告者は、第7回大会路線の曖昧さと弱点を認めつつも、第6回大会路線からの転換の必要性は認める立場であるのに対して、「KKE声明」は第7回大会路線を全面否定する立場に立っていると思われます。
○ KKEが統一戦線政策に否定的態度をとっていることは、ここ10年間のKKEの活動を見て来て知ってはいました。しかしそれはギリシャにおける特殊性(長い右派社民政権の存在と新たに誕生した左派社民政権の裏切り)によるものと考えていましたが、今回の「KKE声明」によって、原則的に社民政党との統一戦線はあり得ないとKKEが考えていることがはっきりとしました。「特に誤りであったのが、1930年代に、社会民主主義諸政党に左翼と右翼が存在するという評価」であり、「彼らが既にブルジョア政党に完全に転換したことを過少評価するという出来事が生じた」と、「KKE声明」は述べています。このような評価は、レーニンが「左翼小児病」と名付けた左翼日和見主義の典型的な誤りだと思います。
○ 「帝国主義諸センターの平和愛好的センターと好戦的センターへの分離は、帝国主義戦争の実際の責任者とファシズム=独占資本主義を覆い隠した。即ち、一連の諸国で形成された革命的情勢の諸条件を利用して、民族解放=反ファッショ闘争のための諸勢力を統一する努力を、ブルジョア権力打倒を目指す闘争と結合するという諸共産党の当面の戦略的任務は示されなかった」という指摘は、第7回大会路線の弱点を正しく指摘していると思います。


⑤ 何故ソ同盟で反革命が勝利したのか
○ 「KKE声明」は、ソ同盟において反革命が勝利したのは、社会主義建設途上に生じた困難を、社会主義を強化する方向で解決を図るのではなく、資本主義的方策を導入する方向で解決を図ろうとしたことにあると述べています。また、「生じた諸問題は、中央集権的計画経済に固有の生まれ持った避けがたい欠点だと解釈され、古い残存物の諸矛盾の結果だとは、非科学的に練り上げられた計画の誤りの結果だとは解釈されなかった。」と述べています。これらの指摘は正しいと思います。
○ 「KKE声明」は、この誤りが生じた一因として、党と国家の指導部の選出過程が、生産現場から地域に移った(1936年)ことを挙げています。これによって党と国家の階級性が弱められ、かつ指導部をリコールする可能性が著しく失われたと言います。この指摘は、極めて重要だと思います。
○ われわれは、既存の国家機構を温存したままで、社会主義革命は不可能であると主張してきました。そして古い国家機構に取って代わって、パリ・コンミューン型の国家を建設しなければならないとも主張しています。しかしその新しい型の国家像を明確に描き出し、それを創り上げる具体的展望を示すことができていません。
○ 「KKE声明」は、ソ同盟第20回大会(1956年)に批判の矛先を向けます。「そこでは、いわゆる『個人崇拝』の摘発に便乗して、共産主義運動の戦略の諸問題、国際諸関係の諸問題、そして経済の諸問題をめぐる一連の日和見主義的諸見解が支持された。全体として計画経済の中央集権的統制が弱まった。」と述べています。しかし同大会は、経済分野において幾つかの否定的な政策が採用されたとはいえ、スターリンによる大粛清を糾弾し、社会主義的民主主義の回復に決定的な寄与を行いました。また平和共存政策を打ち出し、熱核戦争の回避に大きな貢献をした大会でした。「KKE声明」は、20回大会のこの積極的側面を完全に無視しています。
○ 「KKE声明」は、「ソ同盟共産党の指導部が所有の社会的性格を弱め、狭い個人的或いはグループ的利益を強める決定を採択したために、社会的所有を疎む感情が形成され、勤労者の階級的意識は腐食した。・・・この路線が、反革命的転覆の時期の人民の大部分の受動性を説明する」と述べていますが、人民の大部分の受動性は、強制的農業集団化と大粛清によって培われたと報告者は考えています。「個人崇拝」と大粛清について沈黙している点にこそ、「KKE声明」の最大の弱点があるように思います。


⑥ KKEの現代革命戦略
○ 10月革命100年の総括の上に、KKEは以下のような現代革命戦略を提示します。(1) ギリシャ1国でも社会主義革命は可能である、(2) ギリシャには社会主義を建設する物的・人的条件が備わっている、(3) ギリシャにおける革命は社会主義革命であり、それは労働者権力の樹立から始まる、(4) 労働者権力の質的に新しい基本的要素となるのは、労働現場を自己組織化の核へ改造することである、(5) それぞれの生産単位の勤労者会議に、直接的および間接的な労働者民主主義の土台が、選出された代議員を統制し召喚する可能性が、即ち資本の独裁である現在のブルジュア民主主義の形式的な選挙権と比べ、実質的な選挙権の土台が据えられる。
○ ここでは、(4)と(5)が重要だと思います。21世紀の社会主義像において、新しい型の国家像には(4)と(5)が盛り込まれる必要があるでしょう。
○ ただ、経済活動が世界的規模で循環する今日、小国における1国社会主義の可能性について、報告者は懐疑的です。一定の地域的まとまり、例えば南欧4カ国なり、中南米数カ国のまとまりのある地域での社会主義共同体が形成される可能性が高いというのが報告者の見解です。