「中国の特色ある社会主義」とその理論的基礎である「社会主義初級段階論」

―― レーニンのネップ(НЭП=新経済政策)との関係を念頭において ――                 

                                                                                                                   川 下 了

(1) 社会主義初級段階論
〇 今日の中国経済とそれを指導する中国共産党の「中国の特色ある社会主義」を理解するためには、中国が「社会主義建設の初級段階にある」という認識を前提にしなければなりません。この認識は、「社会主義初級段階論」と呼ばれています。「中国の特色ある社会主義」は、この「社会主義初級段階」における「社会主義建設」の戦略です。

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  「中国の特色ある社会主義」という言葉は、鄧小平が、中国共産党第12回大会(1982年)の開幕の挨拶で使ったのが最初だと言われています。そして同党の第14回党大会(1992年)は、「社会主義初級段階論」とそれに基づく「中国の特色ある社会主義」を党の戦略にすることを決定し、鄧小平が亡くなった1997年に開かれた第15回党大会は、「社会主義初級段階論」とそれに基づく「中国の特色ある社会主義」戦略に「鄧小平理論」という名称を冠し、「鄧小平理論は現代のマルクス主義である」と規定して、党の規約の中の指導的理論に「鄧小平理論」を付け加えました。従って「中国の特色ある社会主義」と「社会主義初級段階論」は、この4半世紀の間中国指導部の政策であり続けたことになります。
この「社会主義初級段階論」とそれに基づく「中国の特色ある社会主義」戦略は、昨年の第19回党大会でも継承され、「新時代の中国の特色ある社会主義思想」=習近平思想として、党規約の中の指導的理論の1つとして付け加えられました。
従って、「中国の特色ある社会主義」を理解しようとすれば、まずもって「社会主義初級段階論」について、それが如何なるものなのかを把握することから始める必要があります。中国の指導部が、「社会主義初級段階論」をどのように説明しているかを見でみましょう。「社会主義初級段階論」の中国側の簡単な説明が「中国網(日本語版)」に掲載されています。

 社会主義初級段階は広い意味で、いかなる国でも社会主義に入る際に通過する初期段階を指すのではなく、特に中国のような、生産力が立ち遅れ、商品経済が未発達であるという条件下での社会主義建設が通過せざるを得ない特定の段階のことをいうのである。すなわち、社会主義の基本的な改造が完了した1956年から、社会主義現代化が基本的に実現する21世紀中葉までの全期間を指している。社会主義初級段階の論断には二つの深い意味が込められている。一つは、中国はすでに社会主義社会に入っており、社会主義を堅持しなければならず、また社会主義から離脱することはできない。もう一つは、中国の社会主義社会は今後長期にわたって初級段階にあり、この点を直視しなければならず、初級段階から逸脱できない。中国は今後長期にわたって社会主義初級段階にある。これは経済・文化が立ち遅れた中国が社会主義現代化を建設する際に、通り過ぎるわけには行かない歴史段階であり、100年以上の時間が必要である。現段階で、中国社会の主要な矛盾は日増しに強まる人民の物質文化に対するにニーズと立ち遅れている社会的生産力との間の矛盾である。当面の社会主義建設の根本任務はさらに生産力を解放し、発展させ、徐々に社会主義現代化を実現することであり、そのためには、生産関係と上部構造にある生産力発展にふさわしくない分野と部分を改革することである。(http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014-11/18/content_34118435.htm
この説明に沿って「社会主義初級段階論」を考えてみましょう。
 中国では1949年の建国から7年経った1956年に、「社会主義の基本的な改造が完了した。」としています。これは、一方でソ同盟の全面的支援による第1次5カ年計画が1953年から始まり、社会主義経済の根幹をなす大規模鉱工業建設の156のプロジェクトが成功裏に進められ、他方で社会主義建設を明示した1954年憲法の下で生産手段の急速な国有化と公有化が進んだことを根拠としています。ちなみに1956年時点で、7割の手工業従事者が合作社社員集団所有の生産合作社に加入しており、農村部ではほぼすべての農民が農業生産合作社に加入していたとされています。つまり大半の生産手段が、私的所有から国有ないし公有に移行したので、「社会主義の基本的な改造が完了した」という結論が下されたのです。ここでは、社会主義であるかどうかの基準は、生産手段が私的所有であるか国有あるいは公有であるかに置かれています。
 しかし1956年以降、中国は混乱した時代に突入します。1958年に始められた大躍進政策は、ソ同盟型の社会主義計画経済システムとは真っ向から対立する小ブルジョア的社会主義路線であり、それによって中国経済は大きな打撃を被り、悲惨な結果をもたらしました。毛沢東はその責任を問われ、1959年に国家主席を劉少奇に譲らざるを得ませんでした。
 劉少奇国家主席と鄧小平党総書記は、経済の立て直しに着手します。農村の荒廃に歯止めを掛けて農業生産を回復するために、農民に一定の自主生産権を認める政策を採用し、それが農業生産の回復に寄与したと評価されています。劉・鄧指導部は、党内の支持を拡大します。しかしこのことは、毛沢東から見れば資本主義への部分的回帰であり、後の文化大革命時に「走資派」のレッテルを貼られる原因となりました。
文化大革命は1966年に発令され、1977年8月の第11回党大会でその終結が宣言されるまで12年間も続きました。文革とは何であったのか、何故党と国家の中心を掌握していた劉・鄧派が敗北したのか、これはこれで重要かつ興味深いテーマですが、今回はこの問題に踏み込むことはしません。ただ、12年に及ぶ政治的・経済的大混乱によって、中国の社会主義経済が極度に疲弊した状態に陥り、その後の中国の政治・経済のかじ取りを託された党と国家の指導部は、異常に困難な条件の下で再出発をしなければならなかったことだけを抑えて置きたいと思います。
 文革後も、中国の指導部には異なる経済政策をもつ幾つかのグループが存在しましたが、党内闘争を通じて主導権を握ったのは1977年に3度目の復活を遂げた鄧小平でした。彼は、文革の終結を宣言するとともに、経済再建策を提示します。彼は、1978年12月に開かれた第11期第3回中央委員会全体会議(3中全会)で、「社会主義近代化建設への移行」を主張し、いわゆる改革開放政策への転換を打ち出します。これは、国有および公有企業の改革問題と直結します。そしてこの問題を巡り、新たな社会主義論争が起こります。
 国有企業および公有企業の改革は、大抵の問題がそうであるように、理論的問題からではなく、実践的問題から出発し、それに伴って理論的問題が派生しました。既に述べたように、1956年の時点で所有問題は社会主義的に解決されていたにもかかわらず、文革から抜け出た1978年の時点で、国の生産力は農業においても鉱工業においても著しく弱体化していました。膨大な数の国有・公有企業が存在しているものの、それらの大半は古い設備の中小規模の企業であり、それでなくとも不足する資本が多くの企業に分散している状態でした。これでは急速な経済復興は望めません。分散している資本を回収して重点分野に集中投資することが必要であり、そのためには国有・公有企業の整理が不可避だと考えられたのでした。
 またソ同盟のネップの時代と違い、20世紀も最後の四半世紀に突入する時代において、自国資本だけによる経済建設によっては、先進資本主義諸国と発展途上諸国との技術格差と経済力格差は開く一方であることが明らかになりつつありました。ソ同盟と対立して、ソ同盟の援助を拒否している中国は、先進諸国に追いつくために、国内資本の大胆な再編と外資の導入に活路を求めることになりました。
 農業部門を含め、国家(中央政府と地方政府)の関与を縮小することによって国内資本の集中的再編を行うということは、手放した部分は民間に委ねることになります。国有・公有企業の民営化は、当初から「民間に任せた方がうまくいく」と考えたというよりは、「面倒をみられなくなったので民間に手渡した」といった方が事実に近いのではないかと思います。
 しかし民営化が進行すると、理論的には社会主義の理念との整合性が問われることになります。おそらくソ同盟のネップが念頭にあったと思われますが、「社会主義の初期段階では、私的資本が存在することは避けがたい」という考えや「初期段階では、部門によっては私的資本による生産の方が効率的である」という考えが後追い的に現れたと考えられます。実際にまた、民営化された企業のうちのかなりの部分は、少なくとも一時的には経営状態が「改善」し、GDPを押し上げる役割を果たしたのでした。
 そして人民網の規定は、「中国のような生産力が立ち遅れ、商品経済が未発達であるという条件下での社会主義建設は、特定の一段階を長期に経ることを余儀なくさせられる。この段階を社会主義の初級段階と呼び、この期間は21世紀の中頃まで、つまり100年ほど続くと予測している。」と述べ、長期に渡って資本主義的生産関係が残存し、しかもそれが生産力の発展にとって不可欠であると主張することになります
 そうなると、基本的に生産手段の私有を否定する1954年憲法の変更が避けられないことになります。現行憲法の基になっている1982年憲法は、基本的には54年憲法を踏襲していますが、私的所有容認の程度が大きくなるに合わせて、それを追認する修正が以後5回に渡っておこなわれます。
〇 82年憲法の修正は、次のような過程を辿りました。
1988年の改定:前年の第13回党大会で商品経済が容認されたことを受けて、土地使用権の譲渡が認められ(10条4項)、私営経済の制限が緩和されました(11条3項)。82年憲法でも私営経済は部分的に認められていましたが、搾取労働は認めないという立場から、雇用労働者の数が8名未満と限定されていました。88年改定では、私企業において条件付きで8名を越えて労働者を雇用することが認められるようになりました。
1993年の改定「社会主義公有制を基礎として計画経済を実行する」とあった15条が、「社会主義市場経済を実行する」に改められました。また「国営企業は国家計画を前提に、法の定める範囲において経営管理の自主権を持つ」とした16条が、所有権と経営権の分離原則に基づいて、国家計画を前提としない経営自主権の行使が認められるように改められました。82年憲法でも、農民が生産の一部を自主的に流通させることを認めていましたが、農業生産の形態を集団所有から家族単位の生産請負制に大転換するために、「農村人民公社、農業生産協同組合が農村における集団所有経済の中核を占める」(8条1項)の規定から、農村人民公社と農業生産協同組合の語句を削除しました。
1999年の改定:1997年の党第15回大会の決定とWTOへの加盟という重大な変化を反映して、「社会主義経済制度の基礎が生産手段の公有制にあるとの原則(6条)を維持しつつも、多様な所有制と分配形式をも公認する規定に改めました。特に非公有経済を「社会主義市場経済の補充」という表現から「社会主義市場経済の重要な構成要素」という表現に改められました。そして99年改定では、社会主義国家を建設する理論として、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想に並べて、鄧小平思想を付け加えました。
2004年の改定:市場経済の急速な発展に伴もなって、生産手段の私的所有者やその代理人としての経営者の数が急増し、社会的生産に占める彼らの位置も上昇しました。そこで従来は党員資格を持たなかった資本家(生産手段の私的所有者とその代理人経営者たち)に党員資格を与える改定が行なわれました。いわゆる江沢民の「3つの代表論」が憲法に盛り込まれたのでした。「3つの代表論」とは、「中国共産党が代表すべきものは、1.中国の先進的な社会生産力の発展の要求、2.中国の先進的文化の前進の方向、3.中国の最も広範な人民の根本的利益である」というものです。
この「3つの代表論」の1と2は、非階級的規定であり資本家でも代表できますし、3も、「人民」概念の拡大解釈によって資本家が代表することも可能と考えられているようです。つまり労働者と資本家の間の対立は副次的なものであるということです。「人民網」の社会主義初級段階論の規定は、「現段階で、中国社会の主要な矛盾は日増しに強まる人民の物質文化に対するにニーズと立ち遅れている社会的生産力との間の矛盾である。当面の社会主義建設の根本任務はさらに生産力を解放し、発展させ、徐々に社会主義現代化を実現すること」としています。つまり階級矛盾ではなく、「生産力の立ち遅れであり、生産力を解放し発展させること」が根本的任務であると言います。資本主義的手法を導入し、私的資本と株式を容認して経済発展を図るという基本路線の基で、資本と労働の基本矛盾が正面から取り上げられていないという点で、ネップとは大きく異なっています。この点は、後にやや詳しく見ることにします。
 2004年の改定では、序文の「革命と建設に参加する者」として、「社会主義事業の建設者」が加えられ、勤労者に含まれない自営業者や資本家とその代理人の経営者を「社会主義の建設者」と評価しました。また合法的私有財産を保護する13条を「市民の合法的私有財産は不可侵である」との規定に改め、私有財産権の不可侵を謳いました。
2018年の改定:5回目の改定が今年の全人代で行われました。鄧小平の「中国の特色ある社会主義」に「新時代の」を付けた「新時代の中国の特色ある社会主義」という習近平思想を憲法前文に付け加えました。
〇 このようにして、数次の憲法改正を通して、「資本主義的生産様式と社会主義的生産様式が共存する」「社会主義の初級段階が100年以上続く」時代の憲法が確立されたことになります。

 

(2) 共産主義への過渡期としての社会主義のそのまた過渡期
マルクスは、共産主義の時代を2つに区分しています。「長い生みの苦しみの後、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義の第一段階」と「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』マル・エン全集19巻19~21頁)です。前者は社会主義の段階とも言われます。
前者では、「あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれ出てきた母体たる旧社会の母斑をまだ帯びて」おり、「ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換である限りでこの交換を規制するのと同じ原則が支配して」(同上20頁)いて、人々は労働に応じて受け取ります。しかし労働能力には個人差があり、そのため「ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より富んでいる」という不平等が避けられないのです。
後者では、「個人が分業に奴隷的に従属することが無くなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立が無くなった後、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命要求に」なります。そうして「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(同上21頁)ようになります。
〇 共産主義の第一段階である社会主義から本来の共産主義への移行は、かなり長期的な漸進的過程となります。階級矛盾が減少するに従って、また人々が古い資本主義的道徳観や意識を拭い去るにつれて、外的強制としての国家は不必要なものになっていきます。しかし世界に帝国主義が残っている限り、それに対抗するために軍隊や警察を無くすことはできません。マルクスは、先進資本主義国で社会主義革命が始まったなら、世界全体が比較的短い間に社会主義に変わるだとうと考えていましたので、社会主義革命を始めた国家が長期間資本主義諸国と併存することは想定していませんでした。しかし歴史の現実は、ソ同盟を始めとして社会主義革命を開始した国々は、長期間帝国主義諸国の包囲の下で存在することを余儀なくされたのでした。そのことが、社会主義諸国家に抑圧装置の存続・強化を強制し、そのことがまた社会主義諸国における社会主義建設を困難にし、社会主義的民主主義の歪みを生み出したりもしました。この問題は、21世紀の社会主義を展望するとき、明確な回答を準備しておく必要があります
○ ところで、社会主義段階もまた2つの時代に区分されます。社会主義革命が勃発して労働者階級が他の勤労諸階層を引き付けて権力を奪取すれば、いきなり社会主義経済制度が生まれる訳ではありません。ブルジョア革命の場合は、古い封建制社会の中で資本主義的生産関係が発達し、経済的優位性が封建領主から資本家階級に移った後、そのことを政治的に打ち固めることだけが残されていました。しかし社会主義的生産関係は、資本主義社会の中で発達することはありません。労働者階級が指導力を持つ政治権力が樹立したその日から、社会主義的生産関係を作って行かなければならないのです。従って資本主義的生産関係を覆し、社会主義的生産関係が支配的生産関係になるまでは、一定の期間が必要となります。この期間が、共産主義社会の第一段階である社会主義段階のそのまた最初の段階、資本主義から社会主義への過渡期です。この時期こそ、階級対立が最も激しくなる一時期となります。
〇 社会主義の最初の段階、資本主義から社会主義への過渡期には、生まれたばかりではあるが発展する社会主義的生産関係と衰退させられ消滅させられていく資本主義的生産関係が併存し、さらには国によっては前近代的な生産関係が残っていることもあります。この段階は、社会主義的生産諸関係が社会全体において確立されることによって終了します。

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〇 資本主義から社会主義への過渡期は、平穏な漸進的な過程ではありません。資本主義的生産関係と社会主義的生産関係が長期に渡って併存し、徐々に後者が前者に取って代わるという図式は、世界的レベルで見るなら2つの異なる体制が平和共存する中でありえることです。しかし一国の内においては、この図式は成立しません。ブルジョア権力の下でも、このような図式が当てはまるとする考えは、文字通りの社会民主主義的イデオロギーです。日本共産党の戦略も、この図式に基づいています。資本主義から社会主義への過渡期は、「前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時期の国家は、プロレタリア独裁以外の何物でもない」(前掲29頁)とマルクスは書いています。この過渡期は、プロレタリアートによる権力の獲得という革命=飛躍があって初めて開始されるもので、この革命=飛躍は漸進的な進化過程ではありえません
権力を握った労働者階級は、短期間のうちに独占資本と大土地所有を国有化して社会主義的生産関係の基礎を確立しなければなりません。このことを抜きに資本主義的生産関係を社会的生産関係に変えていくことは不可能です。
より困難なことは、小規模生産者(個人経営の農民や漁民、個人経営のサービス業者)や小商人たちを社会主義的生産関係の中に移し替えることです。これは、上からの強制によって一挙に実現することは不可能であるというのが、やはり歴史が示してきたところです。ソ同盟におけるネップもこのことに関係しています。

 

(3) ソ同盟における過渡期とネップ
〇 この過渡期の問題は、内戦終結後のソ同盟において喫緊の問題として浮上し、ボリシェヴィキ内において激しい論争を呼び起こします。いわゆる新経済政策(ネップ)をめぐる論争です。
〇 1920年11月の南部戦線におけるウランゲリ軍の壊滅によって、内戦がほぼ終わりました。この時、ソ同盟の経済状態は著しく破壊されており、経済復興が喫緊の課題として浮上します。内戦中は、戦時経済体制によってもっぱら強制という手段を用いて軍と都市市民のための食料を確保しましたが、平和時にあってもその政策を継続することは広範な農民の反発を招き、政策の転換が求められたのです。
〇 レーニンは、社会主義の最初の段階である過渡期の特殊性を深く研究し、新しい経済政策(ネップ)を提起します。まず、ソ同盟が「社会主義ソヴェト共和国」と名乗っているが、それは「社会主義への移行を実現しようというソヴェト権力の決意を意味するのであって、決して経済的秩序を社会主義的なものとみなすことを意味するものでない」(『“左翼的”な児戯と小ブルジョア性とについて』レーニン全集27巻338頁)と言います。そしてロシアに混在している5つの社会=経済制度の諸要素を列挙します。①家父長制的な著しく現物的な農民経済、②小商品生産(穀物を売る農民の大多数)、③私的資本主義、④国家資本主義、⑤社会主義、の5つです。そして、「小農民的な国では小ブルジョア的自然発生性が優勢であり、また優勢にならざるをえないのは自明である。・・・主要な闘争はまさにこの分野で展開される」と言い、そして「小ブルジョアジー プラス 私経営的資本主義が一緒になり一つになって、国家資本主義とも、また国家社会主義とも闘争して」おり、「我々が、この小ブルジョアを我々の統制と記帳に服従させるか、それとも小ブルジョアが、・・・我々の労働者権力を打ち倒すか、2つに1つであろう」(同上339~340頁)と言います。
〇 ネップは、地主と大資本家を一掃した後に、圧倒的多数の農民(小ブルジョアジー)を労働者政権に引き付け、彼らを社会主義に導くためにレーニンが練り上げた戦略です。地主と大資本家は、権力をもって粉砕できるし、またしなければならないけれども、圧倒的多数の農民を権力でもって社会主義に導くことはできないというのです。社会主義は、圧倒的多数の人民の主体的事業であって、彼らの社会主義に対する自覚と自主性が育つことなしに成就しないとレーニンは主張します。
〇 ネップが問題となった時期は、内戦はほぼ終結したが鉱工業生産も農業生産も大きな打撃を受けて著しく荒廃していました。そこに1920年の凶作、燃料不足、家畜のへい死が追い打ちを掛け、農民の不満を和らげると同時に農業生産を回復させることが最優先課題となっていました。そこで、内戦時代に一般化した農民からの穀物徴発を止め、食料税を納めた後に残った穀物の自由販売を認めることにしたのです。これは労働者政権の農民に対する譲歩であり、社会主義から資本主義への部分的な後戻りでした。
〇 鉱工業部門でも、国営企業の経営を実務家(労働者国家に敵対しない資本家)に任せる国家資本主義的手法が導入されました。活動停止している工場を実際に稼働させ運営する能力をもった労働者や党と国家の要員が極めて不足していたからです。労働者階級出身の経営者が育つまで、工場を停止させて置くことはできませんでした。これは労働者政権の資本家への譲歩であり、やはり社会主義から資本主義への部分的な後戻りでした。しかしそれは、社会主義を建設するための一時的迂回であり、避けがたい後戻りでした。また国家資本主義は、社会主義政権にとって私的経営や小商品生産よりも遥かに害の少ないものでした。
この「避けがたい後戻り」を認めることができず、ブハーリンたちは共産党「左派」を形成してレーニンに論争を挑みました。彼らは、「それは社会主義の放棄であり、日和見主義である」と非難しました。レーニンは、「左派」の見解を「『左翼的』な児戯」であり、その本質は小ブルジョア性であると厳しく批判しました。
圧倒的多数の農民を社会主義の事業において味方に付けるための武器は、社会主義の実例の力と共産党の強力なイデオロギー闘争です。社会主義的鉱工業が急速に発展して、農民に必要な物資を十分に提供することによって農民の支持を強化すること、コルホーズ(共同農場)とソフォーズ(国営農場)の成功例によって私的経営より集団的経営の方が農民の利益になることを理解させること、農民自身が理解できるようなやり方でイデオロギー闘争を強力に展開し、農民の思想改造を成し遂げること、この3つが備わらなければ、ネップは文字通り資本主義への後戻りの通路となり、資本主義が復活して労働者権力は打倒されることになります。ソ同盟の崩壊の時、事情は大きく異なりますが、ペレストロイカが資本主義復活と労働者権力の崩壊へと導きました。
〇 ネップは、限定的ではありますが資本主義への譲歩であり社会主義から資本主義への一時的・部分的後退です。ロシアにあっては、ネップは鉱工業および農業の生産回復に貢献しましたが、同時に小ブルジョア分子を活性化させ、投機や賄賂や隠匿等が増加しました。そのことを背景として資本家階級が部分的に復活し、資本主義的気分が広がりました。レーニンとボリシェヴィキにとってこの現象は織り込み済みであり、この否定的現象に死力を尽くして立ち向かいました
〇 レーニンは、ネップを打ち出した直後、『党の粛清について』(レーニン全集33巻22~24頁)という短い文書を発表し、「新経済政策への移行に応じて」党を粛清する必要があること、「1918年の始め以降に入党したメンシェヴィキのうち、党に残すのは100分の1以内とすべき」と述べています。これは、ネップは不可避的に小ブルジョアジーを活性化させ、その思想的影響力を労働者階級に持ち込むが、メンシェヴィキはこの小ブルジョア性の持ち込みに重要な役割を果たすであろうと考えたからです。ネップを実施する場合には、党の純潔性を高め思想闘争を強化することが必要不可欠と考えたのです。

 

(4) 中国における過渡期と社会主義初級段階論
中国が言う「社会主義初級段階」とは、先に見た過渡期を指すのか、それとも過渡期を過ぎた社会主義段階の最初の部分をさすのか、はっきりしないところがあります。
〇 中国の見解では、1956年に私的所有は国有および集団所有に全的に移行したので、この時点で「社会主義の基本的な改造が完了した」としています。確かに、1956年に生産関係の大部分が社会主義的に改造されたとするなら、この時点で過渡期は終了して社会主義時代が始まったと言えます。資本家階級は基本的に消滅したとも言えます。
〇 ところが文革が終了し、経済建設が再スタートした1978年の3中全会以降、国有企業ならびに農業における集団所有から個人所有への移行が、慎重ながら着実に進められました。それは、所有形態は国有及び集団所有としながらも、使用権を個人に与え、その使用権の売買をも認めるという形で進められました。また企業の会社化(株式の導入)という形でも進められました。今では、相当に大規模な私的経営者や土地使用権を大量に持つ実質的な大地主、膨大な数の小規模生産者が存在するようになりました。このことは、迂回作戦だとしても、部分的な資本主義への後退と言えるでしょう。そうすると、所有形態において公有と並んで私的所有が存在し、それが市場で結ばれているのですから、一時的には多様な生産様式が混在する過渡期に戻ったと考えるべきではないかと思われます。中国の社会主義初級段階論は、レーニンのネップを念頭に置いているようにも思われますが、ネップは文字通り過渡期の戦略であり、ソ同盟では農業の集団化の完成と共に、1932年には終了しました。
〇 中国の公式見解では、社会主義の初級段階は、1956年から始まるとしていて、私的所有が部分的に復活しても、階級対立は復活しないかの表現になっています。多様な生産様式が混在するにもかかわらず、憲法前文の「人が人を搾取する制度は消滅して、社会主義制度が確立した」と言う58年憲法の規定が今日も踏襲されています。この点が中国の「社会主義の初級段階論」の最も分かりにくいところであり、また危惧するところです。
文革が終了した時点で、農業生産の回復を図るために、集団所有から家族請負制に切り替えたのは、ネップと似た政策転換であったと思います。ところでネップの場合は、ネップが資本家階級を一部復活させ、そのことが階級闘争を激化させること、従って彼らとの必死の闘争が必要になることが繰り返し強調されました。また農業集団化の必要性と有用性を強調し、そのための一貫した働き掛けを継続しました。他方中国の「社会主義初級段階論」では、農業の集団所有から家族請負制への転換が資本主義への一時的・部分的後戻りであり資本主義的生産様式を復活させること、それとの闘いが不可欠であることが強調されないばかりか、指摘すらされていません。農業生産の再集団所有化や再国有化について一切言及されていません。この点は、ネップと際立った違いを見せています
鉱工業における民営化や株式会社化についても同様です。これらの措置は、国家社会主義から国家資本主義への後退です。それが避けられない譲歩であるとした場合でも、そのことが資本家階級の部分的復活を伴い、そのことへの警戒感を高める必要があり、国家資本主義を国家社会主義に再転化する方向性が示される必要があるでしょう。しかし「社会主義初級段階論」やそれに基づく「中国の特色ある社会主義」には、そのような方向性は示されていません。
〇 「社会主義初級段階」は21世紀の中頃まで続くと言います。それでは21世紀後半には「中級段階」か「高級段階」に移ることになりますが、その段階では、生産手段の再国有化や再集団所有化に進むのでしょうか。「中国の独特な社会主義」は、この点については何も語っていません。
〇 「社会主義初級段階論」や「中国の特色ある社会主義」には、階級的視点がほとんど見ることができません。「中国にはもはや搾取階級は存在しない」という認識に立っているのですから当然なのかもしれませんが、「現段階で、中国社会の主要な矛盾は日増しに強まる人民の物質文化に対するにニーズと立ち遅れている社会的生産力との間の矛盾である」という認識もまた、階級的視点とは無関係な規定であり、この「社会的生産力の増大」が主要目標とされるなら、階級問題は後景に退くことになるのもやむを得ないかもしれません。
〇 昨年開かれた共産党第19回全国大会の習近平報告を見ても、階級闘争という語句は見られません。それは国内情勢の評価においても、また国際情勢の評価においても同様です。共産党の文書の国際情勢を述べた部分で、帝国主義という語句も反帝闘争という語句も一度も出てこないというのは、かなり異常なことではないでしょうか。習近平報告は述べています。「世界は大発展・大変革・大調整の時期にあり、平和と発展は依然として時代のテーマである。世界の多極化、経済のグローバル化、社会の情報化、文化の多様化が深まり、グローバル・ガバナンス体系と国際秩序の変革が速まり、各国間の連携と相互依存が日増しに強まり、国際的な力関係がより均衡し、平和的発展の大勢が逆転しえないものとなっている」と。

 

(5) 中国の社会主義はどの程度保持されているか?
〇 「中国の特色ある社会主義」は、「社会主義初級段階論」に基づく「社会主義建設の戦略」です。そして現在の中国には、社会主義、国家資本主義、私的資本主義の3つの主要な社会経済制度が混在しています。これは、中国が社会主義の最初の段階である過渡期にあることを示しており、不可避的に階級対立が生み出され、激しいイデオロギー闘争が闘わされるはずです。しかし上述したように中国共産党はこの階級対立を公然と正面から取り上げていません。このようなことが続けば、人々の意識も資本主義を肯定するようになり、結局は社会主義体制の崩壊に至るのではないでしょうか? 筆者はこの点に非常に大きな疑問と不安を覚えています。習近平指導部が「腐敗は我が党が直面している最大の脅威」と強調して止まない腐敗問題は、この疑問と不安が杞憂ではないことを示しているように思います。
〇 ところで、現在の中国では、上記3つの主要な社会経済制度がどのような関係にあり、社会主義はどの程度担保されているのか、という問題がありあります。
〇 現在、私的資本主義企業の数と全生産に占める比率が上昇していますが、戦略的分野は、国有企業がほぼ全体を支配しています。戦略的分野というのは、①国家安全にかかわる業種、②重要なインフラ建設と鉱物資源関連業種、③公共財、公共サービスを提供する業種、④支柱産業とハイテク産業です。①は完全な国家独占であり、②と③は支配株を政府が保有しつつも、一部は民間資本も導入する国家資本主義的企業であり、④は私的企業も多数参入していますが、重要な中核企業は国家が支配しています。この戦略的分野を社会主義および国家資本主義が支配していることが、中国の社会主義が生き残っている主要な根拠となっています。
〇 もっとも、国家が労働者階級の意思と利益を代表している限りにおいて、上記のように言うことができるのであって、そうでない場合は戦略的分野をもブルジョアジーが支配していることになります。そこで現在の中国の権力がどの程度労働者階級の意思と利益を代表しているのか、という問題が改めて問われることになります。実情は、労働者と資本家の両方の利益を、つまり国民の利益を代表しているのではないか(中国の党と国家もまたそのように明言しています)と筆者は考えていますが、最終的結論を得るには、今少し事態の進展を見守る必要があるでしょう。
〇 中国の生産様式には、社会主義生産様式と国家資本主義生産様式と並んで、私的資本主義生産様式が存在します。この私的資本主義生産様式はまた、国内資本によるものと外資によるものとに2分されます。社会主義生産様式と国家資本主義生産様式を一つのものと見做して国家支配とし、私的資本支配外資支配の3形態の市場支配力(市場シェアが50%以上)を見てみます。
〇 『中国の資本主義をどう見るのか』(徐涛著、日本慶事評論社)などによると、戦略的分野では、国家支配が圧倒的に支配力を保持しています。金融、電力、鉄鉱、電信、石油、石炭、自動車、インフラ建設、航空運輸など。
〇 これに対して外資支配は、通信端末、電子計算機、集積回路、電子部品、家庭用映像・音響装置、複写機など大半の電子情報機器製造分野で強力な市場支配力を発揮しています。さらに市場支配に近づいている分野(市場シェアが40%以上50%未満)として、日常生活関連の即席麺、レトルト食品、ジュース、革製履物、文房具、運動用具、玩具、石鹸・合成洗剤、自転車・車椅子、眼鏡、貴金属などが挙げられています。
私的資本支配は前2者よりもはるかに広い分野で市場を支配しています。4桁分類(業種を4桁で区分する小分類)764業種中518業種を数えると言います(前掲書)。
〇 国の経済全体に対する支配力を考える場合、市場を支配する業種の数だけで判断することは出来ません。国有支配、私的資本支配、外資支配の下にある各企業(陣地)は、相互に関連し合い影響し合っていて、その中で最大の影響力のある陣地は管制高地と呼ばれています。これは産業連関分析を用いて推定するようですが、それによると、他の分野に大きな影響力を行使する上位10分野の中に戦略的分野が7つ、それ以外が3つ入っています(同上)。この点において、中国経済の管制高地は国家支配の下にあると言えるでしょう。しかしこれは最も影響力ある業種のトップ10の多数が国家支配にあると言うだけで、圧倒的多数の業種が私的資本の支配下にあるという現実は変わりません。中国経済全体が、資本主義的生産様式が生み出す様々な問題を抱え込む中で、階級矛盾も激化することは避けがたいように思えます。
○ リーマン・ショック以降、中国の私的資本主義が後退して国有企業が巻き返しているという主張(国進民退)が声高に叫ばれるようになりました。それは戦略的部門の民営化が進まないだけでなく、むしろ国家が重点的投資をおこなっていることへの国際ブルジョアジーの不満の表明でした。確かに国家資本が戦略的分野に集中投資された結果、この分野では国家支配が強まっているものの、中国経済全体では私的資本支配も拡大しており、国進民進というのが実情のようです。
〇 結局のところ、社会主義経済制度と資本主義経済制度が一国内において長期的に併存することが出来るのか、という問題に辿り着くように思います。従来の歴史と従来のマルクス・レーニン主義によれば「不可能」という回答が得られますが、現代の諸条件の下では「可能」という回答もあるのかも知れません。その場合、最終的に①資本主義的経済制度が勝利を収めるのか、それとも②社会主義経済制度が勝利を収めるのか、はたまた③両者が収斂した第3の経済制度に至るのか、という問題が残されます。①の場合は、中国はその土台に照応する資本主義国家に変質しているでしょうし、②の場合はいつどのようにして生産手段の再国有化が行われるのか誰にも分かりませんし、今の「中国の特色ある社会主義」路線からは②に至る筋道はまったく見えてきません。③の場合は、マルクス・レーニン主義は時代遅れの学説として歴史の中にしかるべき場所を得て眠りにつくことになります
〇 いずれにしてもそう遠くない時期に結論が得られるのではないか、というのが筆者の見解です。

                                    (終)